ep.27 時を超えて
もう十五分が経過した。
椿が正隆を呼ぶために電話をかけ、まだ彼はこの部屋に入って来ない。
椿は両手を結束バンドで縛られ、身動きが取れない状態でただ黙って父の到着を待っていた。
沈黙の室内は、一秒が永遠に感じられるほどに時の流れが遅い。
あまり時間をかけたくない。
山内は椿を訪問してきた他社の人間だ。一時間くらいならふたりで話していても先ほどの秘書は不審に思わないだろうが、少しでも早く蹴りをつけたいところだ。
そのとき、扉のノックされる音が響いた。
ようやく到着したらしい。山内は椿に返事をするように目を合わせる。
「入って」
扉が開き、そこには老人が立っていた。年相応に皺を刻んだ顔は、この状況を見てさらに深い溝を刻む。
「お待ちしておりました。どうぞ」
「これは、どういうことだ?」
「話は扉を閉めてからです」
正隆は椿が人質に捕られていることを理解し、室内に身体を入れて扉をゆっくり閉めようとする。
その扉が完全に閉まる前に動きが止まった。再び開いた扉の外には朔那が立っており、僅かな隙間に身体を滑り込ませる。
「お邪魔します」
「朔那、どうしてここに?」
「
椿と山内が同じ表情で驚いているが、堂々とソファに腰掛ける朔那に何も言えなかった。扉は完全に閉まり、朔那が正隆に向かいに座るように促した。
そうか。朔那はもうすべて気づいているのか。
山内は微笑んで、椿の喉元に向けている刃を下ろした。
「朔那くん、君が私に言いたいことがあるのはわかるが、私はまず、二十年前の真実が知りたい。君も聞きたいだろう?」
「ええ、そうですね。僕も知りたいです。椿さんが受けた臓器移植の裏に隠された真相を」
正隆は表情を歪めて奥歯を噛み締める。そう、彼がすべてを知っているはずだ。そして、それは琴音の死に関係している。
「二十年前、琴音は竹中医院で朔那を出産した。琴音はもともと身体が丈夫ではなかったから、出産後に体調を崩し、そのまま入院することになった。そして、数日後に息を引き取った。俺が病院に駆けつけたときには、もう彼女はこの世にいなかった。院長の竹中からは突然の急変だと説明されたが、納得できなかった。だから、俺は調べた。そして、恐ろしい事実を知った。九十九椿が、琴音が亡くなった日に外科手術を受け、心臓を移植された。だが、それは正式な手続きを取らずに実施されたものだった」
山内の口から淡々と説明される話を、朔那は無表情で聞く。
対照的に、椿は彼が何を言わんとしているかが理解できたようで、呼吸を震わせている。
「正隆さん、どうして椿さんは、亡くなってすぐの琴音から臓器提供をうけたのですか? 本来ならありえないでしょう。臓器提供の順番待ちをしている人もたくさんいる中で、椿さんが優先的に移植を受けられることはないはずです」
正隆は朔那の目をまっすぐに見て、目を瞑って深呼吸を二度繰り返した。
そして、目を開けて語りはじめた。
「どうしても、娘を救いたかった。心臓の病は、移植をする以外に完治は見込めないと言われ、ただでさえ適合することは珍しいのに、その順番が来るまで数年はかかると説明された。そんなものを待っていたら、娘は死んでしまう。そんなとき、竹中院長に話を持ちかけられた。金と、ある人脈を用意すれば、椿を救うことができると」
正隆の気持ちはわからないこともない。
唯一の娘を失うことは、親にとってもっとも恐れることだ。もし、正隆の立場にいれば、悪魔のささやきに負けてしまうかもしれない。
「竹中は、琴音を殺害したんですか?」
「それは、私にはわからない。彼の言葉を信じて金を払い、結果、椿は助かった。だが、竹中はさらに金銭を要求してきた。この事実が公表されれば九十九は終わる。臓器売買をビジネスにするために協力させられたんだ」
「そうですか。あなたの気持ちは理解できないものではない。しかし、その結果あなたの娘は生きて、私の大切な人は死んだ。不公平だと思いませんか」
山内はナイフをあげて、椿の喉元に向けた。
それは、今にも柔らかい皮膚を貫通して、彼女の呼吸を止めてしまいそうな銀色の光を発する。
「やめてくれ! 殺すなら、私にしてくれ! どうか、娘は・・・」
正隆はソファから降り、床に頭を擦りつけて懇願する。肩を震わせて娘のために命乞いをする姿は、親と呼ぶに相応しいものだ。
だが、我が子を愛するために、他人を犠牲にすることは果たして正しい選択なのだろうか。永遠に答えが見つからない問題だ。
「もう、やめましょう」
口を開いたのは、ソファに座ってずっと話を聞いていた朔那だった。
「君は、許せるのか? 母親を奪った身勝手な人間を」
「わかりません。気持ちの整理は理屈ほど簡単につかない。それでも、怒りに任せて人の命を奪うことが正しいとは思わない。あなたがこれ以上自らの信念を傷つける姿は見たくない」
山内は眉間に皺を寄せて朔那を見つめた。
その目は、確固たる決意を秘めているようで、誰かに救いを求めているようだった。
刃物を握る手が震える。この手を前に突き出すだけで、TTは裁きを受ける。
このほんの数センチが、遠いのはなぜだ。あれだけ待ち望んだ瞬間を目の前にして、迷いが生じたのはなぜだ。
朔那はポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。父から受け取った唯一の遺品。そこには、彼が憎んだ四名のイニシャルが書かれている。
「僕の母は、椿さんの中で今も脈を打っているんです。その命の鼓動を止めてしまうことが、あなたにできますか?」
「琴音は、こいつらに殺されたんだ」
「いいえ、生きています。母の魂は椿さんに宿って、僕をずっと見守ってくれていました。だって、血が繋がっていなくても、椿さんは僕の母親なんですから」
山内の手からナイフが抜け落ち、音を立てて床を転がる。
脚の力を失い、彼は床に膝をつき、両目に涙を溜めて朔那を見て微笑んだ。
「もう、終わりにしましょう。山内啓太さん、いや・・・桐生実誠、父さん」
「朔那。だから、会えなかったんだ。お前ならきっと、俺の正体に気づくと思ったから」
そして何より、息子に会ってしまえば、十三年間積み上げてきたものがすべて崩れ去ってしまうから。
立派に育った息子をこの手で抱き締めたくなってしまうから。
「ようやく会えましたね。できれば、こんな形で再会したくなかった」
「山内啓太!」
扉が開いて、亮真と夏海が室内に入って来た。すでに抵抗する意思がない実誠は、静かに座っているだけだった。
彼は、まっすぐに息子を見つめ、自らの復讐が達成されなかったことに、どこか満足しているようだった。
どこかで迷いがあった。刑事と、ひとりの人間、夫であり、父である自分の中で葛藤があったから、止めてほしくて朔那にこのメモを渡したのかもしれない。
「朔、無事か!」
遅れて入って来た虎徹に微笑んで、朔那はようやく会い見えた父が手錠をかけられる様子を眺めていた。
椿は、心臓の鼓動の中から、誰かが話しかけてくる声を聴いた。
それは、今まで聴いたことがない、優しくて、包容力のある声だった。
不本意に命を落とすことになった彼女は、愛する夫と息子がすぐそばにいることを喜んでいるだろうか。
もっと一緒にいて、朔那の成長を見届けたかったに違いない。
「どうか、許してくれ」
誰に向けたかわからない正隆の謝罪が、朔那の耳に弱々しく届いた。
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