ep.21 どこかで

 朔那が帰宅すると、とてもいい匂いが廊下をゆっくり進んできて届いた。


 リビングに入ると、紗理奈がキッチンで小皿にすくった少量の何かを味見しているところだった。



 「ただいま」


 「おかえりなさい」


 「今日はカレーかな」


 「正解、なんだか無性に食べたくなって」



 朔那がソファに向かうと、そのうしろを亮真と夏海がついて入ってきた。


 ふたりは夕飯時に申し訳ない、と紗理奈にお辞儀をして朔那の向かいのソファに座る。


 紗理奈はすぐに鍋にかけている火を止めて、飲み物の準備をはじめる。



 「話が終わったらすぐに帰りますので、お構いなく」



 夏海が気を遣って微笑んで言うが、客人が来たときに何も出さないのは紗理奈の礼儀に反する上に、家主である朔那の顔に泥を塗る行為だ。


 気温も日に日に上がり、今日は特に暖かい日だったため、紗理奈は冷蔵庫で冷やしておいた麦茶をコップに注いで人数分テーブルに置いた。


 前回と同じように、紗理奈は朔那の隣に腰掛ける。朔那はそれを当然のように何も触れず、ふたりの刑事と話しはじめた。



 「悪い知らせがある」



 亮真の言葉をすでに予測できていたかのように、朔那は微笑んだ。



 「どうぞ」


 「臓器移植が行われていた場所が、竹中医院だったことがわかった」


 「竹中秀治しゅうじさんが院長ですよね。あの病院は地域からも評判のいい病院だと聞きます」


 「知っていたのか」



 臓器移植を行うためには、最低限の設備と、それらを扱うだけの技量がある医師が最低条件となる。都内で条件に合致する病院はある程度の規模の病院ならほとんどが当てはまる。


 しかし、大規模な病院になると、違法な臓器移植は隠し通すことが難しい。なぜなら、医師の数も多く、管理体制が確立されていることで、極秘で手術を行うことが極めて難しいからだ。


 それを考えると、個人病院のような閉鎖的な空間であり、かつ腕のいい医師と、設備が揃っているという三つの条件が想定される。それでもいくつか候補はあったのだが、その中のひとつがまさに竹中医院だった。



 「萩野の妻も、被害者の幸一郎が竹中医院で外科手術を受けたことを証言した。そして、まさに君が持っているメモに載っていた時期と一致する」



 朔那は握り締めた拳を太腿の上に置き、伏し目がちに視線を落とした。


 やはり件のメモが表しているのは、違法に行われた臓器移植の記録であることに、すでに疑いの余地はない。



 「夕方、三人目の被疑者が発見された。菊池きくち晋也しんや、菊地メディカルという医療メーカーの社長だ。今までと違い、公園の休憩所にあるテーブルの上に仰向けで、胸を引き裂かれて死亡しているところを通行人に発見された」



 イニシャルはKS。メモの四番目にあった人物と一致するが、これまでと違う点がある。



 「公園? 自宅ではなく?」


 「ええ、これまでの二件と異なっているところは、殺害現場が外であること。だけど、方法は同じで、菊池も過去に心臓の移植手術を受けていたわ。目撃者を探しているけど、現状で有力な情報は何も上がっていない」



 これで、この一連の殺人が、同一犯によって行われた可能性が零になった。二件目のDVに耐えかねて萩野幸一郎を殺害した彼の妻は、逮捕されて留置所の中にいる。彼女に犯行は不可能だ。


 一件目の金城殺害の犯人も、他にいるはずだと捜査本部は結論づけた。


 そして、ここまで完全にメモにあるイニシャルが一致し、臓器移植を受けたという共通点があることで、朔那の持つリストとこの別々の犯人による連続殺人が関係していることは決定的となった。



 「確証がない状況では捜査方針を狂わせて、他の捜査員を困惑させることになりかねないと躊躇していたが、君の持つメモの件は課長に報告した」



 夏海はそこで何かを思い出して苦笑いをこぼした。


 おそらく、大切な情報を隠していたことで上司から叱責を受けたのだろう。


 確証がないために報告しなかった亮真の考えを理解できるとした上で、俺にだけは話してほしかった、と彼を傷つける結果になったことは、反省している。



 「君のお母さんは、竹中医院で亡くなった」



 その言葉を聞いたとき、朔那の肩は震え、いつも笑っている彼の両目から、雫がこぼれた。



 「なんとなく、わかっていたんです。メモの一番上にあるTTという人物。男か女かもわかりませんが、僕が生まれた数日後にこの人物は臓器移植を受けている。母が亡くなったのは、僕が生まれてすぐだと聞きました。つまり・・・」



 その先は、言葉にならなかった。


 朔那は嗚咽して、俯いて、肩を震わせながら呼吸することも苦しい様子で、たったひとりでその真実と向き合っている。


 これほどまでに朔那の背中が弱々しく見えたことはなかった。


 紗理奈は震える朔那の肩を抱き、もう片方の手で彼の握り締められた拳を柔らかく包んだ。


 しばらく朔那が落ち着くまで待ったあと、彼はなんとか声を絞り出す。



 「竹中秀治さんとは、会えましたか?」


 「行方不明よ。病院に行ったけど、外出していていまだ連絡がつかない」



 この状況で行方不明だということは、真犯人によって監禁されているか、もしくは、すでに殺害されている可能性もある。



 「朔那くん、お父さんの死について聞いてるか?」



 朔那は亮真の言葉に首を横に振った。


 知りたいと思う反面、知ることを恐れいている自分もいた。捜査中に殉職し、すでにこの世を去った父。だが、心のどこかで彼はまだどこかで生きているのではないか、そう思いたかった。


 だが、もう逃げない。隣には、支えてくれる人がいるから。


 朔那は覚悟を決めた目で亮真を見据えた。



 「君のお父さんは、犯人を追って海沿いの小屋に入り、仕掛けられていた爆弾の爆発で小屋と共に海に沈んだ。そして、遺体は見つかっていない」



 できれば、母と同じ墓にいさせてやりたかったが、幼かった朔那にできることは何もなかった。


 俺は真実を見つけたとき、受け入れることができるのだろうか。果たして、この事件の真相がすべて明るみに出たあとで、希望を持って人生を歩めるだろうか。



 「九十九朔那。君は刑事の息子だ。どんなに辛い現実でも、逃げてはいけない。どんなに困難な道のりでも、突き進むしかないんだ」



 朔那の焦燥を見抜いて亮真が言葉の矢を放つ。それは、撃ち抜くためのものでなく、心に刺すためのものだった。



 「わかっています。僕は逃げません」



 紗理奈が握っていた手にさらに力を入れて、その想いを伝える。彼女の意志が手を通して心まで届いた。



 「そうだ、カレー食べていきます? 紗理奈さんの手料理、おいしいんですよ」



 突然スイッチを切り替えた朔那がいつもの笑顔でふたりを食事に誘った。



 「そんな、悪いわ。気にしないで」


 「たくさんありますから、ぜひ」



 紗理奈は名残惜しそうに朔那の手を放してキッチンに向かった。



 「せっかくだ。お言葉に甘えるとしよう。工藤も腹減っただろ?」


 「ペコペコです」



 決意は固まった。突き進め。

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