ch.3 分身
ep.17 真の狙い
紗理奈は目の前に並ぶ豪華な食事に生唾を飲み込んだ。
空腹だったこともあるのだが、このような高級な料亭を訪ねたのは人生ではじめてで、恥ずかしながら興奮していることは否定できない。
都心の喧騒から離れた場所にある白旗屋は各界の著名人が訪れる場所で、インターネットでの評価がとても高い。朔那に予約を取ったと言われてから、下調べをしてみたのだが、その価格帯は街中にある少し高めの飲食店とは比較にならないほどだった。
店内は全室が個室になっており、隣の部屋に客はいるのだろうが、こういった場所で大声で話す人物はおらず、朔那とふたりだけの時間が静かに流れていく。
「本当にいいの? こんな高級なお料理ご馳走になって」
「もちろん。俺が誘ったんだし、毎日おいしい食事を準備してもらうだけのはずが、家事もやってもらってるから、そのお礼」
向かいに座る朔那が微笑んで好きなだけ食べてよ、と言ってくれているのだ。このご好意を無下にするわけにはいかないだろう。
という言い訳を考えて、楽しむための口実を組み立てた。
「ありがとう。いただきます」
紗理奈が箸を手に取ったことを確認して、朔那も食事を開始した。
おいしいことに違いないが、失礼ながら紗理奈の凡人の舌では特別な違いがわからず、価格だけの価値があるものかは判断に苦しんだ。
ひとつだけわかったことは、最高の腕前を持つ板前が取った出汁は、紗理奈が短時間で取るそれより圧倒的に深みがあることだ。
これはこの瞬間でしか味わうことができないだろう。
満足な舌鼓を終えた紗理奈は、生きていてこれほどの幸福を感じたことがあっただろうかと自然に笑みがこぼれた。
食事だけでなく、この空間、雰囲気を提供できることが、高級料亭である所以なのだ。
「紗理奈さんに話しておきたいことがあって」
食事を終えた朔那の表情からは楽が消えたようだった。これから真面目な話をする、と言わずとも伝わった。
紗理奈は深呼吸をして、姿勢を正す。
「刑事さんが来たときに聞いたと思うけど、俺の父親は元刑事で、十三年前に捜査中に亡くなった。俺はずっと、そのとき父が何を探していたのか、それが知りたくて生きてきた」
紗理奈は返す言葉がなく、ただ頷いた。
「父が遺したあのメモが何を書き記したものかもはっきりわかってない。先に謝っておくと、俺が紗理奈さんに関わろうとしたのは、北河紗理奈のイニシャルがKSだったからなんだ。紗理奈さんが父の死に関係しているとは思えなかったけど、可能性が零じゃない限り、疑うべきはすべて調べようと決めてた」
「そう、だったんだ・・・」
そうだ、確かあのメモ書きの四番目がKSだった。
悲しい・・・。
朔那が紗理奈を救った理由は、境遇が似ていたからだと聞かされて、それを信じていた。同情されることが嬉しいわけではないが、理解してくれる人がひとりいるだけで、生きていく糧になった。
だが、朔那は父の死の真相を知るために紗理奈に近づいた。考えてみれば当然のことだ。自身にメリットがないのに、誰かもわからない魅力も価値もない女を救う理由がどこにある。
「虎に頼んで紗理奈さんの生い立ちがどんなものだったかを調べてもらったよ。そのどれにも関係がありそうなことはなかった。でも、それを無駄だとは思っていない」
「どういうこと?」
「紗理奈さんの過去を知って、俺は安心したんだ。だって、紗理奈さんが悪い人間には見えなかったから。今考えてみれば、紗理奈さんがメモにある人なら、殺されちゃうかもしれないし」
亮真と夏海が朔那を訪ねたとき、何かの連絡を受けて突然動揺した様子で帰って行った。
その答えは、翌朝のニュースでわかった。萩野幸一郎という人物が殺害されたのだ。メモ書きの三番目にあったHKと一致する人物が、立て続けに。
犯行についての詳しい情報は明かされていないが、亮真の様子を見るに、きっと金城が殺害された方法と同一、もしくは共通点があったのだ。
「本当にごめん。辛い人生を送ってきた紗理奈さんを疑うようなことをした。俺は自分の目的のために、あなたを傷つけた」
朔那が深く頭を下げて謝罪する。その言葉に嘘はない。
黙っていれば紗理奈は何も知らずに、人生を救ってくれた恩人として朔那を感謝していたことだろう。だが、彼はそれを卑怯だと思い、正直にすべてを打ち明けた。
こんなに実直な人が他にいただろうか。
「謝らないで。私はそれでいいと思うよ。お父さんが亡くなった真相を知りたい気持ちは間違ってないと思うし、結果、私は朔那くんに救われたから。だから、感謝してる」
「まだ、短い期間だけど、紗理奈さんとの生活は本当に楽しくて。いつかあの場所からいなくなると思ったら、なんだか寂しくて。うまく言えないけど、紗理奈さんの存在は、もうなくてはならない、というか」
普段は余裕に溢れていて、紗理奈より冷静な朔那が取り乱している。もしかして、これは告白なのだろうか。
「どこにもいかないよ。私も朔那くんと一緒にいるの、楽しいから」
朔那は予想していなかった返答に驚いて目を丸くした。そして、今にも泣きそうな笑顔を見せた。
罪悪感と戦っていたのかもしれない。刑事が自宅に来たとき、紗理奈にも話を聞かせようとしたのは、このときのためだったのだろう。
「朔那くんのご両親の話、訊いてもいい?」
「母は俺が物心つく前に亡くなったから、覚えてないんだ。写真では見たことあるけど、どんな人だったのかは、父から聞いた話だけ。その父との思い出も、なぜかほとんど思い出せなくて」
桐生実誠が亡くなったのは十三年前、朔那が七歳の頃だ。であれば、覚えていないというほど幼い年齢ではない。
朔那の話では、あまりのショックに脳がそれ以前の記憶をほとんど消し去ってしまったのかもしれないと医師に言われたそうだ。
誰しもが何かを抱えている。不幸に優劣はないけれど、普通でいられることがどれだけ幸せなのか、それを身をもって知った。
ふたりの空間が暗くなったとき、襖が開いて普段通り和服姿の虎徹が顔を覗かせた。
「ようこそ、いらっしゃいました。当料亭の期待の星、白幡虎徹と申します」
「自分で言うなよ」
たったそれだけで、星が輝くように室内が明るくなった。朔那はひとりじゃない。笑わせてくれる友がいる。
紗理奈もそのひとりでありたいと願った。
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