ep.14 親心

 紗理奈はアルバイトを終えて帰宅した。


 最初は戸惑ったものだが、この高層マンションのセキュリティを解除して朔那の部屋に入ることも慣れた。


 エレベーターで必要なセキュリティカードはスペアのものを預かり、玄関を解錠するための指紋認証のデータには、紗理奈のそれも登録されてある。


 私がいた築二十五年のアパートとは天と地ほどの差がある。同じ人間、それも過去に辛い出来事があった者同士なのに、どこでどう違ってここまでの差がついたのか。


 しかし、朔那は嫌味なところもなく、困っていた紗理奈を救ってくれた。


 確かにお金を貸すと言われたときは警戒をした。彼にまったくメリットがない状況で、その借金の肩代わりをすることで、私に何を求めようとしているのか、今回朔那に裏切られていたら、もう二度と誰かを信じることはできなかった。


 廊下を通り自らの部屋に入ると、無料で居候させてもらっていることが申し訳なくなるほどに立派な部屋がある。もうこの場所を我が家のように感じ、朔那との生活が当たり前になった。


 だけど、いつまでも彼の好意に甘えることはできない。お金を貯めて部屋を見つけ、自立しなければならない。


 母に奪われた四百万円は手元に戻ってきて、朔那に返した。だから、私は彼にお金を借りていない。


 件の闇金業者は警察によって摘発され、これまで行っていたビジネスもすべてが明るみになったらしい。被害に遭っていた女性が一日でも早く社会復帰し、新たな人生を歩めることを祈る。



 紗理奈はキッチンに向かった。朔那が帰って来るまでに食事を準備しておきたい。


 今日のメニューはハンバーグ。こう言っては失礼になるかもしれないが、朔那の食の好みはまるで小学生のようだ。


 だが、作った料理を毎日おいしいと食べてくれることは、紗理奈にとって日常の幸福になっていた。


 具材を切ろうと玉ねぎをまな板の上に置いたとき、インターホンが鳴った。


 来客があるのは珍しいが、考えられるとすれば真綾か瑠偉、もしくは虎徹かもしれない。


 マンションのエントランスを映したモニターにいた人物は、その誰でもなかった。


 おそらく年齢は四十歳以上だが、まだ若く見える女性で、服装などから訪問販売や宗教の勧誘ではなさそうだ。



 「はい」



 紗理奈は恐る恐る通話ボタンを押して応えることにした。



 「あれ? 九十九朔那の部屋で合っていますか?」


 「はい、そうですけど。どちら様でしょうか?」


 「朔那の母の椿です。息子はいますか?」


 「あ、お母様ですか! 朔那くんはまだ帰っていませんが」


 「少しお邪魔させてもらえるかしら。あの子に話があって。よければ待たせてほしいんだけど」


 「はい、わかりました」



 紗理奈がボタンを押してエントランスの扉を開くと、椿は画面から消えて移動した。来客時にはこちらからエレベーターを操作することができ、乗り込むとすでに目的の階が設定されるようになっている。


 紗理奈は急いでお茶の準備をはじめたが、あることに気づいた。


 朔那との関係をどう説明すればいいのか。同棲しているということは、ただの友人では通らないだろう。


 正直に朔那に救ってもらい、今だけ置いてもらっていると話すべきだろうか。


 悩む時間もなく、インターホンが鳴る。紗理奈は早足で廊下を抜け、玄関の扉を開けた。



 「突然ごめんなさい」


 「いえ、どうぞ」



 「どうぞ」とは言うものの、ここは朔那が椿から譲り受けたマンションだ。


 紗理奈に入室を許可する権利はない。むしろお邪魔しているのは紗理奈のほうだ。


 紗理奈はお茶を淹れ、ソファに座る椿の前に置く。彼女は「ありがとう」とお茶を一口含んだ。



 「朔那に恋人がいるなんて、知らなかったわ」


 「あのですね。これには事情がありまして」


 「お名前は?」


 「申し遅れました。北河紗理奈です。朔那くんと同じ大学に通っています」


 「そう、学校で出会ったのね」


 「はい」



 いや、そうではなくて、恋人であることを否定しなければならない。



 「朔那のこと、よろしくね」



 そう言った椿の表情は、なぜかとても辛そうで悲しそうだった。彼女は何を思っているのだろう。


 考えている紗理奈に、椿は語りはじめた。



 「私と朔那が血の繋がりがないことはもう聞いてるわよね?」


 「はい」


 「私は昔病気で身体が弱かった。結婚もする気がなくて、九十九のためにふたり養子を取った。だけど、手術を受けてからは元気になって、それからは仕事ばかり。朔那に母親らしいことなんて何もしてこなかった。きっと嫌われてると思う。私にできたことは、こんな大きな箱を与えることだけ。でも、朔那には幸せになってほしいと思ってる」



 親子の関係は難しいもので、血が繋がっている本当の親子ですらすれ違うことがある。血の繋がりがない彼らには、さらに大きな壁があるのだろう。


 しかし、椿が朔那について語っている表情を見ると、心から彼を想っていることはしっかりと伝わった。



 「紗理奈さんは、朔那と一緒にいて幸せ?」



 恋人同士ではないけど、椿のその質問に対しては、自信を持って答えることができる。



 「とても幸せです。朔那くんとの出会いは私の宝です」



 椿はとても満足そうに微笑んだ。


 仕事一筋で、九十九グループの頂点に立つ椿。しかし、彼女もまたひとりの母であり、他の親と同じ悩みを持っていた。



 「ただいま」



 椿との会話に集中していたせいで、朔那の帰宅に気がつかなかった。



 「突然押しかけてごめんなさい」


 「別に。珍しいね。何かあった?」


 「話したいことがあったんだけど、また今度にするわ。紗理奈さんとお話しができたし、今日は帰るわね」



 椿は紗理奈に微笑んでソファを立った。



 「あ、あの!」



 結局朔那との関係を訂正することはできなかった。椿は靴を履き、颯爽と扉を開けて部屋を去って行く。



 「椿さん、何を言いたかったんだろ」


 「わからないけど、私が朔那くんの恋人だって勘違いされてるみたい」


 「仕方ないか。一緒に暮らしてるわけだし」


 「訂正しようとしたんだけど」


 「いいよ。むしろ恋人だと思われたほうが都合がいい。ただ同棲してる関係なんてうまく説明できないし」



 それは朔那の言う通りだろう。彼がいいと言うのならば、紗理奈が無理に行動することもないと諦めた。



 「でも、紗理奈さんが嫌なら言っとくよ」


 「全然、私は気にしないよ」



 紗理奈は両手を振って慌てて否定した。


 朔那と恋人だと思われることがなぜか嬉しかった。朔那に恋をしているわけではないが、彼といると不思議と心が安らぐ。



 「お腹空いた」


 「そうだ! 今から作るから、ちょっと待ってね」



 椿が来たことでハンバーグを作ろうとしていたことをすっかり忘れてしまっていた。



 「急がないよ。今日は何かな?」



 朔那は独り言の質問の答えを求めず自室に向かう。


 紗理奈はキッチンに立ちハンバーグを作るため、まな板の上に置いたままの玉ねぎの皮を剥がして包丁を手に取った。


 生みの親でなくても、椿は朔那の幸せを願っている。


 私にもあんな親がいたら、違った人生があったんだろうな。


 玉ねぎのせいか涙で視界がぼやける中、ふとそんなことを思った。

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