ep.9 あなたがいる世界

 こんな風に湯船にゆっくり浸かることができるのは、すべて彼のおかげだ。


 紗理奈は入浴剤で白濁した暖かい湯の中に座り、天井を見上げて今日あったことを思い出していた。


 闇金の事務所から救われ、朔那と一緒にマンションに戻ったあと、紗理奈は土下座をして謝罪した。


 せっかく貸してもらったお金を母に奪われ、結果的に彼を騙してそのお金を母に渡すような裏切り行為をしてしまった。


 彼はそんなときでも笑顔で紗理奈の目の前に座って、同じ目線で、そんなことは考えていない、と言うのだった。


 ただ、紗理奈がこれからの人生をどう生きていくか、それだけを一緒に考えようと言ってくれた。


 彼との出会いがすべてを変えた。


 彼のために、何か恩返しができることがあれば、なんでもしたい。



 紗理奈は浴槽から立ち上がり、洗面所で身体を拭いて服を着る。


 髪を乾かすドライヤーの騒音も、不思議と心を落ち着かせる。


 リビングに向かうと、ソファの上で眠っている朔那が目に入った。堂々としていたあの姿とは違い、無邪気な子供の顔で寝息を立てる彼を見ると、今度は私が守らなければ、と思う。


 紗理奈は床に膝をついて、朔那の顔を覗き込む。


 その気配を感じたのか、彼は目を開けた。



 「ごめんなさい。起こしましたね」


 「いつの間にか寝てた。ちょっと疲れたな」


 「私のせいですよね」


 「そんな悲しい顔されると、あまりいい気分がしないな」


 「そういうつもりはありません。とても感謝しています」



 朔那はソファに座り直し、両手を上げて背伸びをした。寝起きにもっとも効果がある目覚ましの方法だ。



 「どうして、助けてくれたんですか? 朔那さんには何もメリットがないのに」



 率直に質問してみた。人間が損得感情だけで生きている生き物でないことは知っているが、それでも誰かのために危険を冒すことは、何か理由がなければできることではない。


 朔那は「うーん」と理由を考えて、紗理奈がまったく予想していなかった答えを口にした。



 「作ってもらった食事がおいしかったから、かな」


 「え? そんなことですか?」


 「え? 駄目かな?」



 紗理奈は何かおかしなことを言っているのか、と真顔で聞き返す朔那がおかしくてつい笑ってしまった。


 その様子を見る彼は、困惑している。



 「駄目じゃないですけど、それが理由ですか?」


 「料理が上手な人に悪い人はいない。俺はそう思ってる」


 「料理が好きでよかったです」



 紗理奈が認めると、朔那は満足したように微笑んだ。


 こんな人がこの世にいるんだな。この人と一緒にいれば、私はこれからの人生で、私が生きている意味を見つけられるかもしれない。


 だから、彼に訊ねてみた。



 「何か恩返しがしたいです。私にできることはありませんか?」


 「そうだな。それじゃ、ふたつ」


 「なんですか? なんでもします」



 朔那のことだから、気にしなくていい、と言われるだけだと思っていたが、まさか紗理奈にできることがあるとは。


 興奮した紗理奈は勢い余って朔那の胸に飛び込む手前まで近づいた。



 「これからも、おいしい食事を作ってほしい」



 これは、予想できた。



 「あとひとつは?」


 「俺と友達になってほしい」


 「友達、ですか?」



 それは恩返しと言えるだろうか。


 そもそも、朔那は恩人であり、友達という対等の関係ではない。もともと友達で助けてくれたのであれば友情だが、見ず知らずの他人だった状態で、ほんの少しだけ知り合った紗理奈を救ってくれた朔那と友達になるなどおこがましい。



 「友達は、難しいです」


 「そっか、俺とは友達になりたくないか。残念だな」


 「あ、いや、そういう意味じゃなくて」



 朔那を傷つける言葉を発したと自覚した紗理奈は急いで両手を振って否定した。



 「朔那さんは恩人で、友達みたいな対等な関係にはなれないというか」



 説明が難しく、どう気持ちを伝えても正しく理解してはもらえない。



 「それじゃ、恩返しはしてくれないんだね」



 大根役者朔那が再び現れて悲しそうに俯く。


 そんなことを言われたら、遠慮などできない。



 「わかりましたから、友達になります。いや、友達にならせてください」


 「そう? よかった。じゃ、敬語は禁止ね。そもそも紗理奈さんのほうが先輩だし」



 一瞬で悲しい表情を封印して笑顔になった朔那は目を輝かせて顔を近づける。



 「敬語禁止は、さすがに無理ですよ。だって・・・」


 「友達なのに?」



 ああ、もうすべてを掌握された気分だ。私にとって悪いことではないが、朔那は人の弱みを握る才能がある。


 これは決して悪口ではない。



 「わかった。敬語、やめる。頑張る」


 「カタコトだね」



 紗理奈をからかって楽しそうに笑う朔那につられて、自然と笑みがこぼれた。



 「少しずつ慣れてよ」


 「うん。じゃ、恩返ししたいから、明日は何が食べたい?」


 「そうだな、クリームシチュー」



 食べたいものが即答できる人は思いの外少ない。これも才能なのかな。



 「わかった。材料買っておきま・・・おくね」



 駄目だ。慣れるには少し時間がかかる。


 言い直したことに気づいた朔那は再び笑いはじめた。



 「じゃ、これ、食費ね」



 朔那はお金をテーブルに置いた。



 「恩返しなんだから、私がお金出すよ」


 「作ってもらうんだから、お金は俺が出す。異論は認めない」


 「友達なら、話し合おうよ」


 「友達だけど、これは譲らない」



 矛盾しているが、彼は頑固な性格らしい。


 友達も苦労しそうだ。


 だけど、彼のような友達ができたことは、とても喜ばしいことだ。



 「もう寝るよ。おやすみ」


 「おやすみなさい」



 足元がおぼつかない朔那を見送って、紗理奈はソファに座った。


 彼に闇金の事務所の場所を教えたのは昨夜、つまり、友人の虎徹に協力してもらって朝までにすべての情報を揃えたことになる。


 もしかすると、昨夜はほとんど眠らずに今日の作戦を実行するために調べてくれたのかもしれない。


 だとしたら、安心して眠っていた私が恥ずかしい。



 「ありがとう」



 今まで辛いことがたくさんあった。


 兄以外に頼れる人物がいなかった。


 突然現れた彼は、兄と同じくらい、頼れる人になった。


 彼がいるこの世界に、少し期待してみよう。



 紗理奈は両手を上げて背伸びをした。


 目を覚ますときと同じ動きのはずだが、なぜかそれは紗理奈を安眠へと誘っていった。

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