ep.6 暗い世界
朔那から四百万円を借りた翌朝、紗理奈は借金を返済するために、闇金の事務所に向かっていた。
この鞄の中に今まで持ったことのないほどの大金が入っている。そう思うと、自然と周囲を警戒して挙動不審になる。
ひとりで行くことに不安がないわけではない。朔那が「一緒に行こうか?」と聞いてくれたときは、思わず快く受け入れそうになった。
だが、これは紗理奈の問題で、危険な場所に彼を連れて行って巻き込むわけにはいかない。
それにお金を渡してしまえばすべてが終わるのだ。これ以上自らの人生を犠牲にすることもない。
すべてから解放されれば、お金を貯めて、部屋を見つけて、またもとの暮らしに戻ることができる。
大学を卒業して、就職して、兄への恩を返すこともできる。メリットが一切ないのに、助けてくれた朔那にもなんとか恩を返したい。
そう、私の未来は明るい。
そう信じて紗理奈は闇金の事務所が入った建物の前に立った。
取り立てに来た男から渡された名刺に住所が記載されていたことで、この場所がわかった。
本当は怒りのままに破り捨てたかったのだが、衝動に駆られた行動は後悔すると学習していた紗理奈は、それを財布に入れて保管しておいた。
人生で学んだことは決して無駄にならない。
扉の前で、大きく深呼吸をして取手に手をかける。その扉を手前に引いたとき、身体が強い力でうしろに引かれた。
体勢を崩してよろけると、何者かに鞄を奪われた。
「何してるの?」
鞄を手に持ち、中から返済するための札束が入った封筒を取り出す母の姿があった。
目的のものがなくなった鞄は地面に投げ捨て、彼女は微笑む。
「そのお金を返したら、借金はなくなるんでしょ?」
「そうね。でも、このお金がないと私も困るの。だって、これからまた新しい生活がはじまるから」
「何を言ってるの? それは私が・・・」
「まさかお金持ちの男に取り入るとはね。あんたもやるじゃない」
取り入る? 違う、私はお金目的で朔那さんに近づいたんじゃない。
「そのお金は朔那さんから借りた大切なお金なの!」
「なら、朔那さんにまた出してもらえばいいでしょ。こんなに簡単に四百万を出すくらいお金があるんだから」
そういう問題じゃない。彼にとっての四百万円が、私にとっていくらほどの価値があるかはわからない。
だけど、彼にとって端金であったとしても、それだけあればいろいろなことができる。
彼は見ず知らずの人間にそのお金を渡すことを選んだ。その気持ちは、理解できないけど、本当に感謝している。
「ふざけないでよ。私たちを捨てて、久しぶりに会いに来たらお金が目的で、お兄ちゃんと私がどんな気持ちでここまで生きてきたかわかる?」
路上で親子喧嘩などしたくなかった。こんなにかっこ悪いことはない。
それでも、心の奥底に眠っていた母への気持ちは抑えられなかった。
「悪いのは全部あの男。若い女のために貢いで、私は捨てられたの。私は被害者なのよ」
「じゃあ、子供を捨てて、捨てた子供のお金を奪っているお母さんはなんなの? 今やってることはお父さんと何が違うの?」
もう、怒りを抑えることはできなかった。
紗理奈は母のもとへ駆け寄り、力ずくでその手から封筒を取り返そうと試みる。
封筒を奪い返しそうになったそのとき、脇腹に強い衝撃を受けて路上に倒れた。
顔を上げると、見知らぬ若い男が母のそばに立っていた。その男に蹴られたらしい。
「ほんとに四百万が手に入ったんだな」
「言った通りでしょ? これで一緒に暮らせるわ」
「ああ、そうだな」
年齢が二十ほど離れているふたりは、身体を寄せ合って封筒の中を確認し、顔を見合わせて笑う。
「あんたなら、お金を持って来ると思ってた。ありがとね。ありがたく頂戴するわ」
「悪いな。助かったわ」
「待って!」
ふたりは肩を寄せ合ってその場を離れていく。
紗理奈は立ち上がって追いかけようとしたが、脚に力が入らなかった。それは、蹴られたことによる身体的ダメージによるものではなく、心が折れてしまった心理的な要因のほうが大きいかもしれない。
最悪だ。
ひとりで解決するなどと見栄を張って、結局はこのザマだ。
母がここまで酷い人間だと思わなかった。
いや、疑うべきだった。自らを捨てた人間のはずなのに、母というだけで、お金に困っていて可哀想という思いがどこかにあった。
「おい」
絶望に暮れて路上に座っていると、背後から声がした。
聞いたことのある声、それも、嫌な記憶を呼び起こすもの。
「勝手に引っ越しやがって。来い」
紗理奈は腕を掴まれ、強引に建物に連れ込まれる。
この男は、何度も住んでいた部屋に取り立てに来て、大声で紗理奈を脅してきた男だ。
外で大声を出したことで、呼び出してしまった。
高級なスーツに腕時計、ネックレスやリングをつけ、髪を金に染め、一眼で良識のある人間でないことはわかる。
階段を上がり、男が事務所の扉を開けると紗理奈はソファに突き飛ばされた。
事務所には、他にも若い男が数名いるが、全員が明らかに表社会を生きている人間ではない。
男は自らの顔を紗理奈のそれに近づけて、「もう逃さねえぞ」と歯を見せて笑う。
「四百万円持ってきたんです。でも、母に奪われました。捕まえたら、お金を持ってます」
「知るかよ。結局お前は持ってないんだろ? なら、稼いでもらうしかねえよな。どんなことしてもさあ。一度逃げたやつは、また逃げるんだよ」
男は紗理奈の身体を舐め回すように見た。その目に鳥肌が立ったが、同時に、もうどうでもいいと諦めがついた。
朔那から預かった大切なお金を奪われた。
私が朔那を騙してお金を奪ったようなものだ。もう合わせる顔がない。
人はすべてを諦めたとき、感情が死んでしまうらしい。
「わかりました。なんでもします。好きにしてください」
紗理奈は足元を見て言った。
ほんの少しでも、自分には未来があると信じた私が愚かだった。
「そうか、なら、まずは俺からでいいか?」
男はジャケットを脱いでネクタイを緩め、周囲にいる男に訊く。
汚い笑い声と、脂ぎった視線が紗理奈の世界を侵食していく。
朔那さん、助けて。
もうこの声は、彼に届かない。
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