ep.5 人生の再起

 紗理奈はキッチンに立ち、晩ご飯の調理をしていた。


 若干二十歳にして高層マンションを所有し、最上階の一室に住んでいる大企業の御曹司と同居することになるなんて、今朝ネットカフェで起床した頃には思いもしなかった。


 最上階は一室しかなく、この広いリビングの他に四つ部屋がある。


 朔那がそのうちの三つを使用しており、残りの一部屋を紗理奈に貸してくれた。


 クローゼットのひとつも、紗理奈のものになった。


 真綾と瑠偉に勧められるがままに、生活に必要な服、ベッドと寝具、勉強のためのテーブルや椅子を選んで購入してもらった。


 真綾が一緒にいてくれたおかげで、男性には無縁の女性に必要なものも揃えることができた。


 結局お金は全額朔那に出してもらい、そのお金もいつか返すと伝えたのだが、新生活のお祝い金と真綾に説得され、返済は不要という結論になった。


 その代わり、家事を一生懸命取り組み、勉強とアルバイトも変わらず続けることで、少しでも早く朔那に借金を返済する努力をすることにした。



 「朔那さん、借用書を作ってもらえれば、サインしますよ?」



 四百万円という大金を口約束で貸してもらうことなどできない。これはお金を借りる上で最低限のモラルだ。



 「いらないよ」



 ソファで寝転んでテレビを観る朔那がこちらを見ることもなく言い放った。


 それはありがたいことではあるのだが、なんとも複雑な気持ちだ。


 切り替えよう。


 調理を終え、食事をダイニングテーブルに運んだ。彼の口に合うかはわからないが、お金がなかったこともあり、普段から自炊はしていた。凝ったものは作れなくても、料理は得意なほう、のはずだ。



 「準備できましたよ」


 「ありがとう」



 朔那はソファから起き上がり、テーブルについた。両手を合わせ、料理を口に運ぶ。


 そして、子供のような笑顔を作って、「おいしい」と言った。



 「よかったです」



 朔那は素早く料理を食べ進め、ほんの五分ほどで完食してしまった。おいしいという言葉は本心から出たもののようで、紗理奈は幸せだった。



 「ごちそうさまでした。本当においしかった」


 「普段は自炊しているんですか?」



 おそらく、していないと予想した上で、訊ねてみた。



 「まったく。毎日デリバリーサービス使ってる」


 「毎日、ですか?」



 さすがはお金持ち。毎日外食をするだけでも一ヶ月にしてみると相当な金額になるが、デリバリーはさらに配達料金が上乗せされる。


 紗理奈には到底できない生活の仕方だ。



 「料理できないし、失敗するくらいならお店のものがいいかなって。でも、毎日だと飽きるんだよね。おいしいんだけどさ」



 確かに、毎日いいものを食べていると、飽きるだけでなく食事に対する感動が薄くなっていく。


 紗理奈にとっては羨ましい悩みではあるが、お金がある人間が必ずしも心まで満たされているかというと、そうでもないらしい。



 「食べたいものがあれば、なんでも言ってください。うまく作れるかはわかりませんが」


 「やったー。もう、うちの家政婦になる?」


 「それもいいですね」



 少なくとも冗談を言える仲にはなれそうだ。決して親しいわけではないが、一緒にいるなら楽しいほうがいい。


 紗理奈は気になっていたことを聞いてみることにした。同居する人のことは、少しでも知っておきたい。



 「朔那さんは、将来社長になるんですか?」


 「いや、兄貴がいるからさ。血は繋がってないけど。俺はそんなに責任があるポストに就く気はない」



 兄で思い出した。このことを伝えておかねばならない。



 「兄に電話してもいいですか?」


 「ご自由に」



 スマホを手に取ったものの、着信履歴にある兄の電話番号を押す前に指が止まった。


 どう説明しよう?


 男性と同居していると言えば、まず恋人ができたと思われるし、交際していない人と同居することになったと言えば、むしろ心配させるかもしれない。


 でも、伝えないわけにはいかない。


 本当のことを言えばいい。母の借金のことを言ったとしても、もう解決することだ。何も心配はいらないと伝えよう。


 意を決して兄の名前をタップすると、三回のコールで彼は電話を取った。



 『どうした?』



 兄の声を聞くだけで心が落ち着く。自立をしなければならないと思うのだが、ずっと頼りにしてきた彼から精神的に離れることはなかなか難しい。



 「あのね、伝えたいことがあって」


 『ほう。彼氏でもできたか?』


 「そうじゃないんだけど、今ある人の家にお世話になってて」


 『どういうことだ?』



 混乱するのも無理はない。私が同じ話をされても同じ反応をしたはずだ。


 だが、説明することもまた難しい。


 紗理奈はできるだけ簡単に、かつわかりやすく、母が借金を作って自らが保証人として返済をすること、そのために朔那から四百万円という大金を借りることを伝えた。


 さすがの兄でも、それだけのお金をすぐに用意することはできないと頭を悩ませているようだが、心配しなくていいとだけ話した。



 『大丈夫なのか? その人は信用できる人なのか?』



 兄の反応は当然だろう。


 この世に見返りを求めずに人助けをする人がどれだけいるだろうか。


 『その方に電話を代わってくれ』と言われ、紗理奈は朔那に了承を得てからスマホを渡した。


 話はほんの三十秒ほどで終わり、朔那は通話が終わったスマホを紗理奈に返した。



 「兄はなんと?」


 「どうして妹を助けてくれたんですか?って。警戒されてるんだろうね」


 「すみません」


 「謝らなくていいよ。妹をよろしくって。いいお兄さんだ」



 朔那は兄の質問に対して、「自分と境遇が似ていたから」と答えていた。


 朔那も平凡な人生を歩んできた人間ではない。経済的にはゆとりがあり、裕福に暮らしているが、本当の親がいないことには、きっと辛い過去がある。


 だから、彼の言葉に嘘はないと信じたい。


 何より、たった一日だけでも朔那と一緒にいて、彼が悪い人だと思いたくない自分がいた。



 「明日、お金を渡して来ようと思います」


 「俺も行こうか? ひとりじゃ危ないでしょ」


 「大丈夫です。お金を渡すだけですから」



 これ以上朔那に甘えるわけにはいかない。決着はひとりでつける。



 「なら、どこに行くかだけ教えてよ」



 紗理奈はスマホの地図アプリを起動し、闇金の事務所がある場所を朔那に見せた。万が一何かあったときでも、紗理奈の居場所はわかるようにしておくほうがいい。


 明日、このお金を返して、母とは縁を切る。


 私は、これから自分のための人生を生きていく。兄を安心させるためにも、生きていることが幸せだと感じる毎日を過ごす。



 「片づけますね」


 「お金を渡すだけ、か」



 食器を片づける紗理奈を見て、朔那はスマホを手に持った。

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