ep.2 感謝と侮蔑
大学三年生の彼女は、教授が話す内容を一言一句聞き逃さないように集中し、板書だけでなく、自ら必要だと思った情報や興味深い内容をメモに取る。
彼女がそこまで努力する理由は、性格のためだけではない。
父親は紗理奈が幼かった頃、若い女と一緒に家を出て、それから帰って来ることはなかった。母はひとりで紗理奈を育てようと奮起したが、仕事に家事に育児に毎日限界まで努めた結果、ある日糸が切れてしまった。
若い男につけ込まれてお金を奪われ、紗理奈に向かって放った言葉は、「あんたさえいなければ」だった。
あれから十年以上経ったが、いまだにその声は耳に残っている。
それでも、この大学にまで通って勉強ができるのは、唯一の家族、兄のおかげだ。
彼は二十七歳で、紗理奈と年が離れている分しっかりしないと、と学業とアルバイトを両立し、妹のために学費を稼いで、自らは特待生制度を利用して、学費免除で大学を卒業した。
その後就職した彼は、横浜市に住んで意欲的に働いている。
兄に負けじと学業とアルバイトを両立しながら生活しているが、彼ほど頭がよくない紗理奈は特待生として進学することはできず、奨学金で学費を賄い、バイト代で生活費を捻出した。
必要ないと言っているのに、兄は毎月仕送りを欠かさない。
年齢を考えれば、恋人がいて結婚を考えはじめてもおかしくないはずなのだが、「そんな相手はいない」らしい。だが、いつ出会いがあるかなどわからないのだ。
お金を貯めておかねば、いざというときに困ることもあるだろう。
だから、紗理奈は兄からの仕送りに手をつけず、代わりに貯めている。
兄が幸せになるべきときがやって来たら、このお金を渡して驚かせてやるんだ。
この
友人はいるが、最先端のファッションに身を包み、長期休暇になると海外旅行に行く。無論、紗理奈はそんな余裕もなく、理由をつけて断った。
あの大企業の九十九グループの御曹司が在籍しているような大学だ。住む世界が違うことは理解している。
それでも紗理奈がこの学校を進学先に選んだのは、ネームバリューのためではない。高水準な教育は、将来就職のために大きな武器になるし、何より彼女が学びたい分野において特別な授業が受けられた。
あと二年、今できることを精一杯やって、就職したら兄に恩返しをしたい。今まで彼がしてきた努力は、ほとんどが紗理奈のためだった。
本当に感謝している。彼がいなければ、私はここまで生きてこられなかった。だから、兄にはその分幸せを掴んでほしい。
チャイムが鳴り、本日最後の授業が終わった。紗理奈はノートと筆記用具を仕舞い、鞄を持つと教室を出た。
今日は夜までレストランでアルバイトがあるから、勉強をするのは日付が変わる頃になるが、そんな日々も慣れてしまえばなんてことはない。
睡眠不足で肌が荒れるのは嫌だが、そんなものに気を使うほど美人だとも思っていない。
校舎を出て、周囲を見ると学生たちが集まって「このあとどうする?」と笑っている。
この中にアルバイトをしている生徒がどれだけいるのだろうか。
家がお金持ちで恵まれている人たちは、正直羨ましい。だけど、仮に自分が恵まれていたら、ここまでストイックにはなっていなかったかもしれない。
ひとりで正門を出た紗理奈は、いつもの帰路につく。
本来なら稼いだお金で友達と旅行をしたり、彼氏にプレゼントを買ったり、それもまた今しかできないことではあるのだが、それらができるのはまた、選ばれた人たちだけ。
「努力した先に、明るい未来があるのかな?」
無意識に出た独り言が、空気に伝わって自らの耳に戻ってきた。
駄目だ、こんなことを考えていても何も変わらないじゃないか。悩む暇があるなら行動しろ。
紗理奈は歩幅を広げて歩くペースをあげた。
なぜかそれだけで、未来が明るいと信じることができた。
「紗理奈」
ふと聴こえた声に、振り返ってみる。そこには、母が立っていた。十年以上会っていなかった彼女は時の流れに逆らえず、顔に刻まれた皺が時間の経過を語っている。
「お母・・・さん」
「ずっと会いたかった。探したのよ」
探した?
自分から捨てておいて、探したってどういうこと?
疑問は苛立ちに変わっていく。
「どうして、ここにいるの?」
理由なんてどうでもよかった。ただ、怒りの感情を言葉に表しただけ。
「お金を貸してほしいの」
「え?」
耳を疑った。
娘を探して、やっと見つけて放つ言葉は「お金を貸してほしい」?
「私は貸すお金なんて持ってない。自分の将来のために、必死に勉強して必死に働いてるの。ごめんね」
これは本当のことだった。
どんな酷い母親でも、困っているなら助けてあげたい気持ちはある。だけど、自らを犠牲にしてまで助けるだけの理由はない。
「待って、私、闇金に追われてるの。お金がないと何をされるかわからないの」
母が足にすがりつき、紗理奈の歩みを止めようとする。足枷のように重い母の手からは、愛情など微塵も感じられなかった。
「放して!」
周囲に通行人がいて見られていることも恥ずかしかったが、何より自分の母親がここまで駄目な人間だと認めたくなった。
紗理奈は地面に伏してこちらに手を伸ばしている母を一瞥し、それでも足を止めることなく走り続けた。
もう嫌だ。未来に希望なんてないんだ。
何もかも捨ててどこかに消えてしまいたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます