ch.1 情けは人の為ならず
ep.1 同舟の友
五月になり、厳しい冬は去ったが、まだ朝晩は肌寒い。
夕方、
シャツの上にジャケットを着て、デニムを合わせたシンプルな服装で、アクセサリー類は興味がないから一切つけていない。
身長一七九センチ、トレーニングをしているため筋肉質だが、服の上からは細身に見える。
少しだけ身体が大きいどこにでもいる大学生だが、彼には他者と圧倒的に異なる要素があった。
それは、大企業九十九グループの御曹司であること。高層マンションの最上階にある価値にしては億を超える部屋にひとりで暮らしており、そのマンションはすべて彼の所有物だ。
先日二十歳の誕生日を迎えた朔那に贈られたプレゼントは、一般の感覚ではありえないほど高価で、巨大なものだった。
別に望んでもらったものではない。
九十九グループの代表取締役社長は、朔那の母、九十九
おかげで親のいない彼は、経済的に困窮するどころか裕福な生活を送ることができた。その点、同じ境遇の子供より恵まれていたことは事実だ。
しかし、朔那には兄がおり、彼も母と血のつながりがない養子で、朔那とも生物学上は赤の他人だ。
問題なのは、椿が兄にはあまり期待していないこと。それは、ただ朔那が感じているだけで直接聞いた話ではないが、兄は野望が強すぎて冷静な判断ができないときがあった。
椿はきっとそれが心配で、彼にすべてを託すという選択ができないでいるのだろう。
都内の一等地にある高級料亭の門をくぐり、石畳の歩道を進むと、右に向かって石畳の細い通路が伸びている。
その先のいつもの場所に彼はいた。
壁際のスペースは、ふたりでいるには少し狭いのだが、なぜか彼はここが気に入っているらしい。
「よう、来たか」
白幡
比較的背が高く、体格がある朔那のさらに上をいく上背と体躯をしており、プロのアスリートと並んでも引けをとらないだろう。
純日本人であり、純和風な名前をつけられた彼は、実家の白幡屋の跡取りで、大学を卒業してからは日々修行に励んでいる。
この家に生を受けたときから、虎徹に将来の夢を持つことは許されなかった。
専攻は経営学部一択で、料亭を支える経営者になるための勉強を精一杯に取り組んだ。
やめたいと思ったことは一度もない、と言えば嘘になるが、レールが敷かれた人生のほうが、選択肢に悩まない分楽なのだそうだ。
顔立ちは外国人のように彫りが深く、俳優のような整った容姿をしている彼が身につける服装は、常に着物。腰の帯に扇子を刺して、草履を履くのが彼のこだわりらしい。
クールで口数は少ないが、高校時代は荒れていたと聞く。いや、正確に表現すると、荒れている連中に絡まれることが多かった。
その体格のせいか、勝手に喧嘩が強いと評価されて、喧嘩自慢の不良から目をつけられた。
困ったことに、実際に喧嘩では負けたことがなかったらしい。そして、さらにその噂が広まって厄介ごとに巻き込まれる。
一種不幸な男だと朔那は思っているが、虎徹はそうでもないらしい。
価値観の違いというやつだろうか。
「修行は順調?」
「どうだろうな。上司が親ってのもやりづらいもんだ」
「そんなもんかね」
「朔もあと二年経てばわかるさ」
「まあ、俺には兄貴がいるからさ。
「けど、社長は朔に継がせたいんだろ?」
「いや、その話は結局せずに逃げてきたからよくわからない」
そう、虎徹が言うように、ふたりは同じ立場にいる。
大企業の跡取りと、高級料亭の跡取り。彼らはいずれ、現在親が座っている席につくときが来るのだ。
兄との後継者争いに勝つ必要があるのだが、朔那はそんなものに一切興味がない。
将来を約束されている。
言葉の響きはいいが、現実はそう容易くない。
出世が約束された出来レース、というわけではないのだ。失敗すれば、大きすぎる期待に対して大きすぎる反動が襲ってくる。
そのとき、彼らは存在意義を完全に失ってしまう。
「あ、朔ちゃん、来てたんだね」
通路の向こうから大きく、はつらつとした女性の声が駆け込んできた。その声に遅れて姿を見せたのは、細身の若い女性だった。
流行を取り入れた洋風なファッションは、この和風な風景には似合わないが、それがまた『いとをかし』、という表現もありかもしれない。
「おかえり」
「ただいま、お兄ちゃん」
虎徹に笑顔で返事をしたその女性は、白幡
身長が一七〇センチある彼女は、高身長であることがコンプレックスらしいが、スタイルがよく、兄妹揃ってルックスが優れている。
朔那と真綾が出会ったのは高校生の頃で、彼らは同じ高校から、同じ大学に進学した。
朔那が虎徹と交流を持ったのは、彼女がきっかけだった。
「朔ちゃん、たまにはお昼ご飯一緒に食べようよ」
高校時代は同じクラスで毎日会ったものだが、大学生になってからはお互い違う学部であることもあり、会うことも少なくなった。
「明日食堂の席取っとくよ」
「約束ね」
「わかった」
魅力的な笑みをこぼすと、真彩はそのまま通路を進み、自宅の入り口である裏口に歩いて行った。
「真綾はやりたいことできてるのかな」
「虎には感謝してるはずだよ」
「ならいいんだが」
跡継ぎという存在意義に縛られる兄とは違い、彼女は外国語学部に入学し、来年はアメリカへの留学を予定している。
きっと、彼女も自分だけ好きなことをしていいのだろうかと悩んだ時期もあったはずだが、虎徹が嫌な顔をせずに修行に励む姿を見て、彼の期待を裏切らないよう負けずに努力しているのだ。
「それで、何かわかったか?」
虎徹は、真綾が自宅に入って扉を閉める音を確認して、朔那に訊ねた。
「全然。あれからもう、十三年か」
「いつか、わかるといいな。手伝えることがあればなんでも言ってくれ」
「助かる」
最後に見たあの人は、笑っていたのだろうか。
そんなことすら覚えていない。
見上げた空は、茜色を侵食し、黒に染まっていた。
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