8
11
次の日も。その次の日も。これまで通り写真を冬美に撮り続けた。どんな気持ちで写真を見てくれているかはわからないが、僕の精一杯の気持ちなんだ。冬美は何も悪くはないのに、謝らせてしまったのだから。
そんな日常は繰り返し続き、六日が流れた。僕は飽きもせず、いつものように自転車に乗り写真を撮っている。午後、三時だった。
明日で一週間。コンテストの発表日。それに、二回目の登校日も重なっていた。緊張しながらの登校となる。さぞ苦痛だろう。
本日、僕は一風変わった場所へと出向いていた。冬美と出会わなければ、来ることはなかっただろう。それは、会った頃に教えてもらった冬美の高校だった。
と言うのも。ここ二日間、天気がどうも安定しないのだ。晴れの日だけに良い写真が撮れるわけではないのだが、冬美には青空を送りたい。今日だってもう何時間も経つが、やはり空が晴れることはない。つまり最後に写真を送ったのはもう三日前になる。これこそ冬美がどう思うか分からない。
そこで僕は高校に向かったのだ。天気を変えることはできないから、学校の写真を送ろうと考えたのだ。校舎の姿を久しぶりに見れば、嬉しいかもしれない。
確か、白凛県立高校と言っていた。自転車で行くには少し遠いが、長距離移動は慣れたものだ。僕は既に学校の近くまで走らせていた。
一定の距離を置いて自転車を止める。高校まではまだ五十メートル程あるのだが、正門で生徒が清掃を行っていて近寄りがたい。なにかの部活動の生徒だろうか、ご苦労なことだが、タイミングが悪い。これ以上側に寄りカメラなど構えたならば、怪しまれること間違いなしだ。まったく、ここまで来たと言うのに運がない。やはり、お祭りの日に運を使い果たしてしまったのだろうか。
僕は離れた場所から学校を仰いだ。綺麗な高校だった。白い塗装がツヤを放ち、清々しい校舎だ。
そのまま暫く待ってみたが、正門前の生徒たちがいなくなる様子はない。この蒸し暑さのせいで飲み物も尽きた。これ以上は無理そうだ。僕は仕方なく遠くから一枚だけ撮影して自転車を反転させた。カメラからはベストコンディションとはいえない写真が姿を見せた。これでは冬美には送れない。また、ゆっくり来るとしよう。
その後、日頃あまり来ない土地に興味があり、近辺を見てまわった。この辺りは自然が多いようだ。少し高い所から全体を捕えれば、良い写真になるだろう。空は厚い雲が覆っていて青空が覗く気配はないから、たまには町の景色に力を入れるのもいいかもしれない。
線路沿いの道を走っていると、駅に行き着いた。朝里駅と書かれている。近くに線路を跨ぐ歩道橋が架かっていた。あそこならば高さを得られると思い、僕はそれを目指した。
自転車を止めると階段を駆け上がる。
空は青くないが、正面に広がる景色は悪くなかった。背の高い建物も少ないので、遠くには白凛高校が小さく見える。僕は視界一杯に町を捕えてその姿を撮影した。これで、もし上空から光芒でも注がれていればさぞ美しいのだろうが、この天気では望みは薄い。案の定、カメラから出された写真は何かが欠けているように見えた。これもまたベストコンディションではない。どうも調子が出ないし、運も味方しないようだ。
僕は一息ついて歩道橋の柵に寄りかかった。手に持つカメラを見つめる。そしてふと、思う。なんでこんなことを思いついたのか分からないが、ある考えが頭を過ぎった。
空の写真が送れないなら、自分の写真を送ってみては……
「………」
そっと、カメラを自分に向けてみる。透明で小さなレンズに、僕が映る。
……なんて、何を考えているのだろうか。まさか、そんなこと出来るはずがない。ため息と共に、自分へ向けたカメラを下ろす。
見上げた空は、どんよりと低い。よくもまあ、ここまで僕の心と比例してくれるものだ。こんな偶然はいらないから、もっと幸せな偶然が欲しい。冬美と出会えた、あの瞬間のように。
「ん?」
見上げている僕の頬に、冷たいものが触れた。――雨だ。予報では曇りだと言っていたのだが、みごとに外れたか。
いや、そんな場合ではない。傘はないし、家までも遠い。これはまずい。僕は走って自転車に戻り、飛び乗った。
しかしどうやら遅かった様子。数滴の雨は激しい夕立へと変わった。まるでシャワー。雷が鳴り、急に空が怒ったように見える。
僕は家に向けて自転車を走らせる。別に急いではいない。もう、雨宿りも意味がない程に濡れていた。カメラが入れられたリュックが防水なのが唯一の救いだ。もう本当に、こんな偶然なんかいらないのに。
この日の運気は、とことん僕を見放していた。風で乱れ舞う雨で視界が遮られたと思うと、急に自転車は傾き、水で濡れた地面へと勢い良く倒れ込んだ。一瞬のことで反応できずに、横向きになった視界を眺める。数秒後に我に返ると、ゆっくり体を起こした。振り返ると、大きめの石が転がっていた。あれを踏んで転んだのだろう。
自転車を起こし、痛む腕を摩る。出血はしていない。打撲で済んだようだ。僕は自転車を両手で押して歩き出した。
本当に散々な日だった。僕は帰宅するとすぐにシャワーを済ませ、早々とベッドに横になっていた。溜息が出るのはいつものことだが、今日はいつもに増して多かった。それは明日に控える不安も後押しをしたからだろう。
コンテストなんて初めての体験だから、少し怖い。この緊張感は学期末テストや体育祭の徒走前どころではない。……だけどもし、もしも入賞していたら、冬美は何と言ってくれるだろうか。あの笑顔で、喜んでくれるだろうか。いや、それは違う。そのときこそ、その瞬間こそ、僕こそが精一杯の感謝を伝えなければならない。
しかし今日の運気を思い出してみると、ますます可能性は薄いだろうと考えた。落胆しないためにも、妙な期待は控えておこう。まあ、どちらにしても気付けば明日になり、僕が何を恐れようが期待しようが現実はやってくる。それを受け入れるしかないんだ。
目を閉じる。どうせ無理なら、夢の中でもいいから雑誌に載った僕の写真を見たいと思った。
12
制服の心臓部位が動いてしまうくらい胸が鳴る。この日がついに訪れた。いや、訪れてしまった……のか。ホームルームでも全校集会でも上の空状態だ。それくらい、なにも耳に入ってこない。
かろうじて廊下で、少しだけ村田先生と話した。背中を叩かれ振り向いた僕に、お祭りは楽しかった? と聞いてきたので僕は頷いた。少し気が紛れた。
「先生。実は今日。写真コンテストの発表なんです。僕も、出品していて」
「おお、本当かい? それは楽しみじゃないか」
「はい。でも、朝から緊張しっぱなしで、不安ばかりです」
「ははは、そうだろうね」
「そういえば、先生は出していないのですか?」
壁に飾られた写真を見ながら言う。壁には新しく二枚が増えていた。一つは『旅行好き』と言うタイトルで、テレビだと思われるリモコンの写真だ。多分、どこにやったかわからなくなることが多いのだと思う。あと一枚は『内気な礼節』と言うオジギソウの写真だ。この時期だから、小さな桃色の花もつけていた。やはり綺麗だ。これだけの実力ならば、可能性はあると思うのだが。
「今は教師の仕事で精一杯だからね。壁に飾れるだけで十分だよ」先生も壁を見て言った。
「そうですよね……あれ?」
そのとき、ふと気づいた。並ぶ写真の中には『また来ます』の写真がないのだ。
「前の学校写真だろ?」
僕の心を読んだように先生は横から言う。
「はい。外したんですか?」
「……ああ。戒めのつもりで貼っていたんだけど、やっぱり辛くなってな」
「そうですか。ですよね」
あのときの話を思い出す。確かに忘れたいはずだ。外すことも悪い手段ではないだろう。
「またいつか気が晴れたら飾って下さい。写真としては、すごく勉強になりましたので」
「あはは、そうか? じゃあ、そうするよ」
先生は微笑んで歩きだした。僕も並んで暫く歩き、途中で頭を下げて別れた。
紛れていた感情が沸き返し、また鼓動を始めた。ホームルームが終わる頃にはさらに増していた。
さようなら、と耳に届くと学校の終わりを悟る。僕は鞄を手に取り、早歩きで教室を出た。何人かの友達に遊びの声を掛けられたが、今日こそそんな場合ではない。付き合いが悪いかもしれないが、仕方がなかった。
僕は正門から出ると足を早めた。書店までは少し離れているから、自宅に帰り自転車で向かうのがいいだろう。気持ちが先走り、足が次々と前に出る。現在は照りの強い昼過ぎの時間だから、すぐに汗が滲んだ。それを大きく拭う。
書店から出て来た僕はどんな顔をしているのだろう。どんな結果を受け止めているのだろう。ここまで来たら、信じるしかない。自分を信じて……冬美もそう言っていた。
自宅に着くと玄関の中へ鞄を投げる。そしてすぐに自転車へと飛び乗った。いつも利用する書店までは十五分程度。ハンドルを握りしめ、ペダルを強く踏んだ。
書店『福山堂』は町にある中型書店で、月に何回か写真の雑誌や専門書を買いに来る。大通りに面しているから人の出入りは多いが、店内は静かで個人的に好きな店だった。
入口の自動扉をくぐると、ゆっくりと店内を進む。相変わらず静かだ。僕の心音の方がうるさいかもしれない。
僕はさらに足を進める。目当ての雑誌はすぐに目に止まった。静かな空間で、見慣れた雑誌を掴む音がした。
雑誌の目次を開くと……あった。第六十三回、風景写真コンテスト結果発表。二十三ページに掲載されているようだ。
僕は一度本を閉じて深呼吸をしてから雑誌をめくり始めた。
五ページ……十ページ……十五ページ……二十ページ……二十一ページ……二十二ページ。二十三ページ。
「………」じっと見る。鈴里勇樹という名前を探す。
最優秀作品は……『坂下宏大』と、書いてあった。
二十二歳。タイトル『涼夏』。
選評『なるほど、確かにこれは涼しい。濁流の音が聴こえてくる。故郷の鮎や岩魚を恋しく思う。夏の緑はいいものだ。ジャケツイバラ、サイカチ、シャラの木も見られ、深呼吸を誘う。これは写真と言うよりも、一つのアートである。ああ、夏は良い。こんな地で、和服を着こみ、縁側で夕涼みと洒落てみたい。』
確かに、綺麗な写真が写っている。真ん中に蛇行する沢。流れに打たれた鈍角な岩と、様々な深緑の木々が左右に続いている。このアングルを探したのは大したものだ。色彩も鮮やかだから、カメラの性能も高いだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
(……僕じゃ、ない)
落選した。まるで一瞬で生気が抜けていくような感覚。
当然の結果だと心で理解はしているが、開き直って雑誌を閉じられない。情けない。やはり期待などしなければ良かった。
「――ん?」
ようやく雑誌を閉じようかと思ったときに、ふと目に入る文字。それは、最優秀賞の隣のページ。最優秀賞ほど堂々とではないが、もう一つ写真が載っている。
これは……
佳作『鈴里勇樹』。
十六歳。タイトル『天国への手紙』。
選評『写真だと言うのに、その光に目を細めた。書かれていたタイトルの理由も魅力的だった。なるほど、この輝く夕日は天国か。確かに、それならば届く気がする、その手紙が。夕日をここまで素晴らしく収めたことに感服した。まだ十六歳と言う若さ。期待が持たれる。』
僕は読んだ。何回も、何回も、何回も何回も、そのページを読んだ。
(やった……)
いや、こんな言葉じゃ足りない。載ったんだ……僕の写真が載っているんだっ。
雑誌を持つ僕の手が震える。冬美に伝えたい。早く、早く――。そして、あの笑顔が見たいっ。
僕はすぐさま雑誌を買うと書店を出た。一度、家まで帰らなければならない。慌てて来たから制服のままだ。この暑さで汗だくだし、着替えなければ。
自転車に乗る僕は、他人から見たら気持ちが悪い程に口元が緩んでいたかもしれない。
(あれ?)
家の近くまで来たときに、急に自転車がぐらついた。前輪を見てみると、タイヤがへこんでいる。パンクのようだ。昨日、石を踏んで転んだときに傷でもついたのだろう。まったく、こんなときだと言うのに仕方がない。これはいよいよ運気を使いきったのだろう。
自転車を押して自宅まで帰って来た。近くの自転車店に電話をすれば、すぐに来て修理をしてくれるはずだ。僕は早足で玄関へと向かう。
入る前にいつものように自宅の郵便受けの中を見た。
「―――?」
便箋が入っている。総合記念病院363号室、北川冬美様? これは、僕が三日前に冬美へ送った写真入りの便箋だ。
『あて所に尋ねあたりません』
と、赤い文字で書かれている。
(住所、間違ったかな?)
見直してみても、間違いは見当たらない。まあ、どちらにしても今日のうちに病院には出向くわけだから、そのときに手渡せばいいだろう。大きなプレゼントと一緒に。
部屋に入ると、すぐに着替える。その間も机に置かれた便箋が妙に何度も視界に入ってくる。気になっていることは確かだった。
椅子に座る。住所を電話帳と照らし合わせてみても、やはり間違ってはいなかった。もしかしたら病室が変わってしまったのだろうか? うん、それなら有り得る。
とにかく、早く準備をしなければならない。まずは自転車店に電話だ。遅くても二時間もすれば出られるだろう。
立ち上がろうとしたときに、一枚の写真が机から落ちた。拾ってみると、昨日撮影した白凛高校の写真だった。
つい苦笑してしまう。何度見ても出来が悪い。正門前に群がる不揃いな生徒。無駄に遠い距離。せっかくの綺麗な校舎が台無しだ。
「………ん?」
そのときだった。僕は何かに気付いた。
写真を両手で掴む。……なぜだろう? 学校をじっくり見てみると、不思議と見覚えがある。見覚え? どこで?
「……また……来ます?」
そうだ。僕の学校の廊下に飾られていた村田先生の写真『また来ます』に写っていた高校。……あれは、白凛高校? そうか、遠くから眺めただけなものだから昨日は気付かなかったんだ。
先生が白凛高校にいたなんて知らなかった。あの悲しい話が、こんなに近場のことだったなんて。
「………」
おかしい。少し変だ。何だろう、この不思議な不安は。
死病の生徒……高校一年……白凛高校。
(まさか……な)
一瞬、冬美の顔が浮かんだ。あんなに長期入院をする人が、同じ学年に沢山いるだろうか?
廊下で聞いた、先生の言葉が聞こえた。
『彼女は快く迎えてくれてね。……迷惑かけるかもしれませんが宜しくお願いします、って笑っていたよ。笑顔がすごく可愛い子だった』
『将来の夢も教えてくれた。文化祭や修学旅行が楽しみだって言ってたな』
……ああ、駄目だ。どうしても重なってしまう。不安を抱く先生に笑顔を作る冬美。文化祭で劇や屋台をしたいと言う冬美。将来の夢を、看護師だと語る冬美。
心で否定すればするほど、不安が増した。そうだ。今日、先生は写真を外していた。あれは、僕に見せないため? お祭りの日、僕は名前を教えた。先生に聞かれ、北川冬美と答えた。だから悟られないために? 僕が会いに行くのは、死病の彼女だと気づいた?
いや、そんなはずはない。きっと偶然だ。偶然なんだ。
冬美の顔が浮かび、優しく僕に笑いかけた。……そんなとき、先生の言葉をもう一つ思い出した。
『そんなに照れなくてもいいだろう。男は長髪の美人に弱いもんさ』
僕の心の中から、冬美の笑顔が消えた。過ごした日々までが、砂漠の砂のように無音で壊れた。
髪が長いなんて、僕は言ってない。
改めて机の便箋を見る。『あて所に尋ねあたりません』と書かれた赤い文字に恐怖を感じた。
「――冬美っ」
バタバタと慌てて玄関に向かう。頭痛がするほどの不安が渦巻いている。僕が外に出ると、まずパンクした自転車が視界に入った。
(こんなときにっ)
僕は走りだした。
走った。走った。いつも自転車で向かうこの道を、右に折れ、左に折れ。
きっとすれ違った全ての人は僕を不思議に思ったに違いない。こんなに走れるなんて、自分でも信じられないくらいだ。止まることはせず。スピードも落とさず。
右側を花公園が過ぎて行った。あの向日葵にも、色鮮やかな花壇にも、今の僕を足止めする効果はなかった。足が張る。喉が痛い。しかし止まれない。冬美に会いたい。早く冬美を見たい。良い報せを届けると約束したじゃないかっ。
数十分が過ぎ、海沿いに架かった橋を越えると、あの長い坂が見えて来る。普通なら限界の体。でも、僕は信じてる。きっと君が、待っててくれるって――
「冬美っ」
僕は坂を突き進んだ。海にも目をやらずに、坂の上を見上げて必死に足を前に出した。一秒でも早く、病院へ。
汗だくの僕の皮膚に冷気が触れた。視界には沢山の人が映る。僕は無我夢中で総合記念病院の入口をくぐっていた。院内を走っていいわけはないが、この調子では足を止められるはずはなかった。
一階に止まっていたエレベーターに乗り込むと、三階のボタンを叩くように押す。その扉が開かれると、再び走った。
冬美の病室に飛び込む。
「……沙織さん?」
室中には沙織さんの姿があった。勢い良く入って来た上に汗だくの僕に驚き、目を見開いている。いや、ただそれだけの顔ではない。どこか悲しい顔をしている。会ってはいけない人に会ってしまった様な、そんな顔をしている。
沙織さんの手は壁に触れていた。その壁を見ると、僕が送った写真を沙織さんが剥がし始めている所だった。何故、取らなければならない?
僕は沙織さんに訊いた。
「冬美は? 冬美は、どうしたんですか? 何か、あったんですか?」
「……冬美ちゃんは」
「………」
沙織さんは目に涙を浮かべる。それは僕の不安を倍増させた。
「冬美ちゃんは、三日前に亡くなりました」
その言葉は一瞬、僕を殺した。
「勇樹君、聞いて」
「………」
「冬美ちゃんは、脳腫瘍って言う重い病気で、もう二年も入院してて、ずっと、頑張ってたの」
二年? まだ、一ヵ月位のはずじゃあ。
沙織さんは涙ながらに続けた。
「でも、今年の初めに余命半年を宣告されて。冬美ちゃん、母親と以外誰とも会わなくなって」
「…………」
「勇樹君と会ってから本当に楽しそうだった。あんなに笑うこと、なかったんだよ。だから勇樹君には、言えなかったんだよ」
四日前の夜ことを沙織さんは話し始めた。
「ねえ……沙織さん」
「ん?」
「勇樹が来るまで……あと……何日?」
――お祭りの次の日から、冬美ちゃんはずっと寝たきりだった。最終的なターミナルケアに入って。それは私が担当した。余命半年は裕に過ぎてるし、最近は手の痺れや頭痛も強くなってきたことから、そろそろだろう……って、担当医も言ってた。ただ話すことすら辛そうで、見ているこっちも心苦しかった。
「あと、四日だよ」
「四日?」
「うん」
「……無理……かなあ」
「え?」
「私……わかるんだ……もう」
「駄目っ。勇樹君に言ったんでしょ? 諦めたら駄目だって。一週間後に会おうって。退院したら一緒に写真撮ろうって約束したんでしょ?」
「あはは……そうだった……沙織さんは厳しいなぁ」
「ごめん……」
「ううん……厳しいけど……私ね」
「ん?」
「私……沙織さんのこと大好きだったよ」
「……冬美ちゃん」
「私の担当してくれて、ありがとう。次はもっと……いい子の担当だったらいいね」
「もうっ。何言ってるの。怒るよ?」
「お願い、があるんだ」
「お願い?」
「恥ずかしくて、お母さんには直接言えないだろうから。変わりに聞いて、くれる?」
「私でいいの?」
「うん……」
「わかった。何?」
「……生んでくれて……ありがとう」
「………」
「でも……病気でごめんなさい……こんな私でごめんなさい……一人にしちゃってごめんなさい……私はお父さんに話します……お父さんに負けないくらい……お母さんは優しい……人だって」
「駄目。そんなこと、言わないで」
「……私は死ぬけど……淋しがらないで」
あの晩。二人でたくさん泣いた。
「もう一つ……お願い」
「……?」
「勇樹に、言えなかったこと」
「なに?」
「……リンゴジュース」
「リンゴ、ジュース?」
「うん……私が勇樹を見たのは……リンゴジュースが売り切れだったからじゃないの」
「え?」
「私は……勇樹が好き」
沙織さんは話し終わると涙を拭った。
「私には意味が分からなかったけど、そう言ってた。でもきっと冬美ちゃん、心から勇樹君のこと、想ってたんだよ」
「………」
僕の口は閉じたままだった。
「隠してて、ごめん。でも、この現実は私も辛くて。この部屋の写真も、三日も経つのに、なかなか外せなくて」
彼女の頬にまた涙が伝った。すぐに拭う。
「これ、冬美ちゃんが勇樹君にって」
小さな紙を差し出される。僕は無表情でそれ受け取った。
紙には汚い字で『これからも空の写真をずっと』と書かれていた。
沙織さんは、仕事があるから、と病室を後にした。僕は変わらずの表情で壁に近寄る。まだ剥がされてない、沢山の写真がある。お祭り以降に送った物まで。
冬美、あれからもちゃんと、貼っていてくれたんだね。
誰もいないベッドを見ると、不思議と冬美が検査から帰ってきそうな気がする。
――これからも空の写真をずっと?
ああ、そうさ。渡したいよ。ずっとずっと、これからもずっと何枚でも渡したいよ。
でも、無理じゃないか。渡せないじゃないか。君はもう……
「――あああああっ」
僕は頭を抱えて床に崩れ落ちた。
冬美、冬美。僕は君に何もしてあげられなかった。僕は馬鹿だ。最低な奴だ。
なんで、なんで君がいなくなるんだ。一体何が悪くて、一体誰が君を不必要と思い、君が。
必要のない人間なら、ここにいるじゃないか。僕こそが、僕こそが死んでしまえばいいんだ。何故、僕は生きているんだ。君のいない世界に僕は必要ないのに。
「……冬美」
その床で、僕はずっと泣き続けた。
あれから歩いて帰宅した僕。一体、何時間かかったかわからない。どの道を通って来たかも曖昧だ。
僕は家にあるベンチに座っていた。星が、綺麗だ。もう、どれくらい空を眺めているだろう。全てがどうでも良かった。涙の枯れた目は空だけを捕らえている。
(もう、君は、いないんだ)
不思議だった。だからもう、何回も何回も考えたり思い出したりしている。だが結果は変わらない。北川冬美は、三日前に亡くなったのだ。
どうしようもない気持ち。置場のない気持ち。気がつけば僕は、自分でもわからないまま、疲れた目を閉じていた。
「勇樹っ。ねえっ勇樹」
誰かに呼ばれ、目を開ける。正面の視界が広がった。ここは、冬美と来た、あの場所。夕日を見た、あの高い丘。そして……
目の前にいるのは。
「冬、美?」
「ん? どうしたの?」
「冬美、なの?」
「そりゃそうだよ」
「だって、君は」
それに、立っている。いつも車椅子だった君が、地面に両足をつけて立っている。
「冬美、治ったの? 死んだんじゃ、なかったの?」
「………」
「冬美?」
「綺麗だよね」
君は僕の声が聞こえていないように背を向けて、景色を眺めながら言った。
「………」僕は悟った。そうか。これは夢。夢を見ているんだ。でも、僕は、それでもいい。冬美がここにいるのだから。
「うん、綺麗だね」 冬美の背中に言う。本当に綺麗な夕日だ。君と最初に見た……そう……佳作に輝いた、あのときの夕日に、似てる。
「ねえ冬美」さらに続けて冬美の背中に言った。「僕は、この夢から覚めたくない」
「………」
「ずっと、ここに居たい」
「………」
「覚める必要がないんだ」
「………」
「……僕は」
「だーめっ」
「え?」
冬美は背を向けたまま首を振った。
「それじゃあ、駄目なの」
「駄目?」
「勇樹に会いに来た、意味がないの」
「………」
暫く沈黙が流れる。
「私ね、お父さんの顔、見たことないんだ」
急に冬美が言う。空を見上げていた。
そんなことは、知っている。なんで今さら。
「でも、私ね」
「……?」
「信じてるんだ」
「……冬美」そうか。そうか。
『これからも空の写真をずっと』
君は、言いに来てくれたんだね。僕に、頼みに来たんだね。
「こんなに高い所から手紙を送れば、絶対に天国に届くって」
冬美は振り向き満開の笑顔で言った。僕は、涙が止まらなかった。悲しくて、悲しくて、涙が止まらなくなった。
「わかったよ。冬美。わかったっ」僕は冬美に叫ぶ。
冬美は優しく笑っている。酷く愛しい、その笑顔。もう、二度と見られない、冬美の笑顔。
「書くからっ」
少しずつ風景が薄れていくのがわかる。それでも僕は涙で一杯の顔で叫んだ。
「手紙を送るからっ、天国まで必ず送るからっ、ずっと冬美にっ、手紙を送るからっ」
「………」目が覚めた僕。やけに冷静だった。
(冬美、わかったよ)
多分、渡すことは出来ないけど。今、君に、手紙、書きます……
すぐに家へと入り机に向かった。それからすでに一時間。やはり僕だ、全然進まない。好きな人に手紙なんて、書いたことないのだから。
……いや、それもあるが、本当は違う。苦しくて、苦しくて、ペンが震えて上手く字が書けず。さっきの笑顔が忘れられないから、どうしても涙が流れ落ち文字が滲んでしまうんだ。もう、何枚目かすらわからない。君に、言いたいことがあるのに。
さらに何時間も経ち、窓の外に、太陽が静かに昇る。
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