7
9
下りは早い。病院の姿が見える。もうこんな位置まで下りて来たか、と一度坂を振り返った。
心の中にはあの景色の感動と、冬美が手紙を送る行為を見て募る穿かない気持ちがあった。
冬美が空を見上げた。その視線を追うと、それは欠けた月だった。
「今日はどう?」僕に問う。
「どうって?」
「少し、大きく見える?」
ああ、と思い出す。あんな何気ない言葉、良く覚えていたものだ。
「今日は、そうでもないかも」
欠けているし、大きくは見えない。
「うん、私も」見上げたまま言った。
「いつか夜空の写真、プレゼントするよ。まだそんなカメラ買えないけど」
「ほんと? ありがとうっ。勇樹ならすぐ有名になって、凄いカメラ買えるよっ」
「いや。まさか」首を振る。
「有名になるためには、やっぱり写真のコンテストとか?」
「うん。そうだね」
「入選したら?」振り返った彼女に聞かれる。
「雑誌とかで取り上げられたりするよ。出版社とかの目にも止まるし、ジャーナリストとしての独立に役立つんじゃないかな。上手くいけば、雑誌の写真担当として就職できたりするのかも」
「へぇ、すごいねっ。勇樹は入選したことないの?」
「まさか、僕なんか出しても意味がないよ」
「え? 出品、してるんでしょ?」
痛い質問。
「……ううん、してない」
「何で? どうして?」
「僕なんかが出品したって、無理だから」
「そんなの分からないよ」
「いや、無理だよ」
冬美は首を大きく振った。
「駄目っ、そんなはずないっ」
真剣な冬美に驚き、足を止める。冬美は車椅子を反転させて僕を見つめた。
「勇樹の写真は素晴らしいよっ、あんなに素晴らしいのにっ、なんで……」
「………」
「勇樹の写真、青空みたいに心が晴れる。あの夕日みたいに暖かい」
「そんな……」
「多分、写真には撮る人の優しさも写るんだよ」
「僕は、優しくなんて」
「きっとわかってないだけ。私にはそれがわかるから、勇樹に伝えたい」
「………」
何も言えなかった。いつになく真剣な冬美。なんで冬美がここまで応援してくれるのかわからない。本当に自分のことがわかってないだけなのだろうか。
でも、僕の写真のどこに魅力が? コンテストなんて無意味に決まってる。そう冬美に言えばいいんだ……言えばいい……そう……
「………」
なのに、やはり何も言えないのは何故だろう。この気持ちはなんだろう。涙さえ出そうな、この感情。
「勇樹? 私が保障するよ。きっと大丈夫。勇樹が写す空、沢山の人に見てほしい」
それは、お世辞や偽りではなく、君が本心で言ってくれているって、わかるから。
僕は小さく頷き、再び車椅子を押して進んだ。すでに病院は目前で、五分もあれば病室まで戻れるだろう。
「あれ?」冬美が声を出す。
正面を見ている。僕も見据えると、病院の入口に沙織さんが立っているのが分かった。遅いことを心配したのだろうか? いや、時間は前回と変わらないから、わざわざ外にまで出て来る理由はないだろう。何かあったのか?
良く見ると、沙織さんは手を合わせている。視線を考えると、僕たちにだった。表情を見る限り『ごめんなさい』だろう。そんな感じだ。
「沙織さん? どうかした?」
急いで入口に近寄り冬美が声を掛ける。返事はすぐに返ってきた。
「明日、仕事になりまして……」申し訳なさそうな顔で、冬美の目を見て言った。
一瞬キョトンとした冬美だったが、思い出したように声を出す。
「明日? あ、え? 本当?」
尚も、ごめんっと沙織さんは手を合わせる。僕は事情が良く飲み込めず二人のやり取りを不思議顔で眺める。
その表情を見て心情を察したのか、沙織さんが言った。
「明日ね、病院前の坂を少し上った所でお祭りがあるんだ。私、休みの予定だったから一緒に行く約束してたんだけど……さ」また冬美に手を合わせた。
ああ、なるほど。仕事になれば当然行けない。それで謝っているのだ。
「冬美ちゃんごめんっ」目を閉じて言う。
「……ううん。仕方ないよ。沙織さん忙しいしね」冬美は小さく首を振る。
そのとき、ふと沙織さんが僕を見た。申し訳なさそうだった表情は一新され、『と、言うわけで』と語る様な顔だった。
「勇樹君、明日も来ない? 冬美ちゃんお願いできないかな? 近場だから外出の許可もう出してるし、冬美ちゃんすごく楽しみにしてたから」
「え? 僕?」
予想外の展開で自分に指をさして驚く。もちろん明日、予定はないが。お祭り? 冬美と? 僕が?
「そんな、迷惑だよ沙織さんっ」冬美が言った。
いや、迷惑なはずがない。逆に冬美こそ、迷惑ではないのか?
「僕は……大丈夫ですけど」遠慮がちに答える。
沙織さんは、決まり、と指を鳴らした。もしかして、気を遣ってくれたのか?
「え? 勇樹、本当に? 無理してない? 私とだよ?」
「ううんっ。明日は何もないし、僕で良かったら」
明日と言わず、予定なんて暫くない。冬美とならば、近辺のお祭り全てに参加したって構わない。もしかしたら、沙織さんにはただ暇人だと思われているだけかもしれない。そう言う意味で気を遣われたなら、情けない限りだ。
まあ、どちらにしても嬉しい。過去最高の夏休みになるに違いない。
「良かった、勇樹君がいてくれて。明日、六時頃ね」沙織さんに言われる。
「勇樹は優しいから断れないだけなのっ」
横から冬美が言う。その後で僕に、ごめんね、と手を合わせた。
「そんな、優しいだなんてな……」ただ、本望なだけだ。
風が出てきた。今夜は少し涼しい夜かもしれない。ここは高地だから、平地よりも少しだけ風の流れが多い。冬美の長い髪が揺れた。
「さ、冬美ちゃん入ろう? 夏風邪でも引いたらお祭り行けないよ?」
そう言って沙織さんは車椅子の後ろに付く。冬美は頷いた。
もう暗い。それを心配され、入口で別れることになった。確かに、こんな気分が良い日に親に怒られたくはない。
「それじゃあ」冬美に右手を少し上げる。
「……勇樹」
「ん?」
「改めて言うけど。初めて会った日、リンゴジュースありがとう」
「え? だからあれは」
冬美がなんで急にこんなことを言うのか分からない。飲めないから、と言ったら納得したはずだ。
「今日、私があげたジュース、何だったか覚えてる?」
「え?」そう言えば。
「リンゴジュースが飲めない人なんて、なかなかいないと思うの」
「あ、いや」
「ね? 勇樹は優しいでしょ?」
「………」
「コンテスト、考えてみてねっ」
冬美はこう言って笑い掛けた後、小さく手を振って病院へと入って行った。
僕の中で、恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが混じり合っている。リンゴジュースのことなんて、冬美は最初から分かっていたのかもしれない。
小さな覚悟が芽吹いた。自分の技術に自信はない。上には上がいるのだから、と心の中で首を振るばかりだった。
それが正しいかもしれない。でも、そうであろうと、もし君が一回でも多く笑ってくれるなら……
心の中では小さく頷く僕がいた。
10
瞬きをするように後日となった。その日も暮れて、すでに午後五時半。
自転車に乗る僕は、買ったばかりの真新しい衣装で身を包んでいた。洒落たアートが描かれたプリントTシャツの襟で、シルバーのネックレスが揺れる。安物だが、これでも精一杯のお洒落だ。
服屋になんて行ったのは、もう随分前な気がする。今日は冬美とお祭りなものだから、少しくらい服装にも気を使わなくては、と昨夜から考えていた。少々お金を使ったが構わない。服は店員に手伝ってもらい選んだし、大丈夫なはずだ。
花公園の前を走っていると、入口前で知っている顔と目が合った。僕は自転車の速度を落とし、その人の正面で足をついた。
「おお、鈴里君。アクセサリーなんてつけて何処行くんだ?」
村田先生が明るく言った。身軽な服装に小さなバック。観光者のようにカメラを首から提げている。きっと今日も公園で写真を撮っていたのだろう。
僕は自転車の上から降りると頭を下げた。
「今日はお祭りに。記念病院の近くであるので、入院している子と行こうと思って」
「ああ例の子か、なるほど。あはは、もう彼氏みたいじゃないか」
先生は笑いながら肩をポンと叩く。僕は首を振った。
「い、いいえっ。その子と一緒に行く予定だった看護師さんが仕事になっただけで、偶然なんです」
別にここまで素直に話すことはないが、それが真実だ。
「写真、喜んでくれた?」
「ああ、はい。全部、飾ってくれてて」
「全部? へぇ、それは嬉しいな。本当にいい子じゃないか。名前は?」
「冬美って言います。北川冬美」
「北川、冬美? ……可愛い名前じゃないか。その上に美人なら、鈴里君が惚れても不思議じゃないな」
「え? ああ、まぁ」
冬美の顔を思い出し、少し照れる。もう少し日が暮れていれば、この顔の赤みを太陽の緋色が隠せたかもしれないのに。
「そんなに照れなくてもいいだろう。男は長髪の美人に弱いもんさ」
「いやっ、そんなわけじゃ」
「あはは。さあ、早く行ってあげな」
もう一度肩を叩き、優しい父親のように言われた。僕は最後まで照れながら頷いた。
少し走らせた所で振り返ると、先生はまだ公園前に立ち僕の背中を見送っていた。頭を下げる。あんな親が欲しかったと思いながら、後は前を見据え、総合記念病院に向けて速度を上げ走った。
病院前の坂に差し掛かると、お祭りを告げる旗が連なり立っているのが確認できた。『坂祭り』と書いてある。そのまんまの名前だ。坂を浴衣姿で上る人も少し見られる。ここは病院へ向かう道の一つであるから、警備員の姿もあった。
もう少し賑わいを見せているかと思っていたが、そうでもない。坂祭り自体、そこまで大きなお祭りではないのだろう。まあ、良く考えれば当然のことだ。病院の近くで大夏祭りなんて不可能だし、救急車両も通るはずだ。
病院の近くまで上って来ても、まだ坂の上に出店の姿は見当たらない。開催地はさらに上なのだろう。
海の方から、湿気混じりの風が吹いた。これは皮膚を湿らせるばかりで、汗を冷ます効果はない。僕は早く病院内の冷気に飛び込みたくて、自転車を少々乱暴に停めて入口へと急いだ。
出店の群れは、坂を数分上った緩やかな斜面に並んでいた。五十メートル程、左右に続いている。空は暗くなる一方だが、この坂だけは燈る提灯が頭上に連なっているので優しい光に照らされていた。
辺りには白い煙が舞う。それは小さな風にも揺られ、人々の隙間を迷路のようにさ迷い、最後はゆらゆらとくねりながら空へと昇っていった。耳には発電機の低い音が絶え間なく届いている。そんな光景に浸っていると、妙に気分が良い。
甘いとも辛いとも言えない食欲をそそる香りが充満している。近場には焼いたトウモロコシの屋台があった。たった今、僕たちを包んだ匂いはこれだろう。新鮮な黄色は焦がされた醤油をまとっている。これは日本人が好きな香りだ。お祭りの独特な雰囲気や香りには、心地良く酔える。後で写真にも収めなくてはならない。
そこまで大きなお祭りではないが、いつも二人だけで上る坂がこんなに賑っていると、昨夜上った坂とは別の場所だとすら錯覚させた。擦れ違う人の良い笑顔がいくつも目に止る。大人も子供も、カップルたちも、この幸せな空間を楽しんでいるのだろう。僕が、そうしているように。
あれから病室に向かい、相変わらずの笑顔で迎えられた僕。その後、すぐに沙織さんに見送られて出発してから十五分が経っていた。改めて、冬美と一緒にお祭りへ来られたことに胸が踊っている。全ては沙織さんの計らいだが、こんな現実が起こり得るなんて考えてもいなかった。正面に君がいるのに、現実味がない。
車椅子の上で、振り返った冬美が無邪気に笑った。さっきまでは「浴衣くらい着たかったな」と自分の患者服を見つめ落ち込んでいたから、笑顔が見られて良かった。いざお祭りに来てみれば患者服は決して浮いておらず、安心したのかもしれない。
と言うのも、辺りには冬美以外にも患者服の人は多く見られる。車椅子でさえ珍しいわけではない。ここは病院から近いため、患者さんも出向いているのだろう。これは病院側も本望かもしれない。患者の気晴らしは大切なことだ。所々に見る総合記念病院と書かれた旗を見る限り、開催の費用等にも協力をしているのだろうと思う。
「いい匂い」
冬美は道端で配られていたうちわで扇ぎながら呟いた。僕も何気なく、冬美の背中で頷いてみる。
「ねえ、勇樹は何が好き?」
出店を見回しながら冬美が言う。それはもちろん、冬美が好きです……なんて、言えるはずはない。
「えと、なんだろう? 冬美は?」
「私は……リンゴ飴」
「あはは、やっぱりリンゴなんだね」
「うんっ、それに、わた菓子とか、かき氷とか、焼きイカとかっ」
……可愛い。君みたいな彼女がいたなら一生幸せだと自信を持って言える。知らない人から見たら僕たちはカップルに見えるだろうか? もしそうならば幸せだ。まあ、不釣り合いだと思われても仕方のない組み合わせなのだが。
「じゃあ冬美、何か食べようか?」
「うん、そうだね」
冬美は一度振り返って微笑むと、何にしよう、と辺りを見回した。
「な、何でも言ってよ。僕が、買うからさ」
後ろから遠慮がちに言う。そう、これがお祭りで僕がしてやれる精一杯のことだ。僕にしては、良く言えたと思う。
「え? そんな、悪いよ」
「ううん、いいんだ。僕、あまりお金使うことないし」
「でも」
「大丈夫。気にしないで」
「……本当?」
「うん、何がいい?」
「…ごめんね。じゃあ」キョロキョロと見渡す冬美。「リンゴ飴か……わた菓子」
人差し指を顎に当てて考えている。僕はそんな冬美に見惚れる。どうして、どんな仕草でも君はそんなに可愛いのか不思議に思う。
「うん決めた。リンゴ飴」
冬美が頷いた。カラフルなリンゴ飴が並ぶ出店に視点が定まっている。
「わかった。じゃあ行こう」
「あ、ううん、やっぱり……わた菓子っ」
「わた菓子?」
「……リンゴ飴」
「ふ、冬美?」
「もー、決められないよ。全部美味しそうなんだもん。ごめん勇樹、すこし待って」
「ど、どっちも買えば?」
「い……いい?」
「うん、もちろん」
「ほんと? ありがとう勇樹っ」
本当に可愛い、とつくづく思う。
夏の積乱雲の様なわた菓子と真っ赤なリンゴ飴を手に入れて、冬美は満足気な笑みを作っていた。まだ何も手にしていない僕に、大きな綿菓子を半分にちぎって差し出してきた。それをゆっくり食べながら話し、また歩いた。
二人でクジ引きをした。景品の中に綺麗な景色が描かれたポストカードあり、何となく欲しくなったからだ。今日の僕の運気ならば当たるような気がしていたが、結果はハズレだった。一方、冬美が「ジャーン」と効果音をつけて見せてくれたクジもハズレだったので、二人で笑い合った。
心の中で、この夜こそは明けて欲しくはないと、何回も思っていた。
それからしばらく。僕たちはいつの間にか坂を上りきり、あの場所へと来ていた。得に理由はなく、笑い合いながらここまで歩いて来ていた。
夕日が終わった丘に、柔らかな風が流れる。静かだ。さすがにここまで来れば人はいない。音、と言えば虫の声くらいか。
「毎日、こんなに楽しかったらいいのに」
夜空を見つめて、冬美が言った。
「……そうだね」
静かに返答する。本当にそうだ。一生分の楽しみを使い果たしてしまった気がしてならない。帰り道、事故にでも遭わなければいいのだが。
「せっかくの夏休み、私のせいで潰しちゃってごめんね」
「ううん、そんなこと」
「………」
風と共に流れる沈黙。波の音すら微かに聴こえる気がする。
「昨日のことなんだけど」と僕は言った。
「昨日? うん」
「写真。コンテストに、出してみようと思って」
「えっ? 本当?」
「今日、来るとき、出してきた」
そう、病院に向かう途中に、ポストへと入れてきたんだ。
昨夜、君に背中を押されて部屋に戻った僕は、すぐに室内を見渡した。あの雑誌を探してだ。それは数日前、壁に投げつけた物だった。
開かれたまま無惨に落ちている雑誌が目に付く。手に取ってみると、偶然にもページは変わらず、コンテストの内容が書かれていた。立ったまま目を通すと、まだ申し込み期限も過ぎていなかったため、僕はすぐに机から封筒を取り出し宛先を書き始めた。しかし気持ちは急ぐものの、手の動きはゆっくりで、文字を書くスピードは遅い。頭の中で、何の写真を送ればいいのか悩んでいるからだった。
投稿したい写真はある。心の中では決めている。それは冬美と見た、夕日の写真だった。素晴らしいほどに良く撮れている自信作だし、何よりここまで勇気を与えてくれたのは君なのだから……
だが、安易には決められない。写真は優秀賞と佳作のみ返品とされている。つまり、落選すれば写真がなくなってしまうのだ。これは大事な写真だ。決めるのには勇気がいる。
ゆっくり書いていたものの、宛先の方が先に終わり、僕は椅子の上で考え込んでいた。
「すごい、やった、すごいよ、勇樹なら絶対に大丈夫だよっ」
「全部、冬美のおかげだよ」
「そんなことないっ。決めたのは勇樹でしょ?」
「そうだけど……」
「えっと、いつ発表なの?」
「一週間後」
「そっかあ、一週間かあ」
「うん」
「楽しみだなあ」
冬美が応援してくれるだけで、不思議と落ち着ける。君の言葉の偉大さは何と表現したらいいのかわからない。一つの偽りもなく、純粋で素直な君の言葉は心に響き、勇気に変わるんだ。
「どんな写真送ったんだろ? もちろん、一番の自信作だよね?」
「うん。そうだね。えと……」
「あ、大丈夫。言わないで」口の前に人差し指を立てる。「楽しみにしてるね。勇樹の自信作なら、絶対に大丈夫だよ」
「……ありがとう」
一番の自信作。冬美なら、きっとそう言うと思っていた。だからやっぱり、あの写真を選んだんだ。封筒の中で、あの日の夕日は輝いているだろう。
僕は丘から、本日も綺麗な夕日が沈んだであろう海を見つめた。
――そのとき。
「冬美?」
「――っ」
急に下を向き、両手で頭を抑えている。
「どうしたのっ?」
「ごめん。なんか頭、痛いみたい」
「え? 大丈夫? 平気なの?」
「………」
「冬美っ?」
「勇樹。病院に、帰っても……いいかな?」
「うんっ早く帰ろうっ」
僕は慌てて車椅子を押し坂を下る。
大丈夫? と何回も問う僕に、冬美は少しだけ笑い頷くだけで、病院まで一言も喋らなかった。
坂を下り、賑わうお祭りを抜け、病院の三階にエレベーターで上った。
降りた所で沙織さんの姿が視線に入る。
「沙織さん」ちょうど良かった、と息を吐く。「冬美が、頭痛いって」
「えっ、すぐ病室に連れて行って」
沙織さんは病室の方向を指さした。そしてナースステーションへと走って行く。
僕は言われた通り、急いで病室へと車椅子を押して行った。
すぐに沙織さんと医師が病室に飛び込んだため、僕は廊下に立っていることにした。
十分が経った頃。医師と沙織さんが出て来た。医師は難しそうな顔をして廊下を歩いて行ったが、沙織さんは僕を見て笑顔を作った。
「大丈夫みたい。心配かけたね」
「本当ですか? もう平気なんですか?」
口調に熱が入る僕に、沙織さんは優しい笑みで頷いた。
「大丈夫だよ。少し、話してく?」
「いいんですか? はい。もしよければ」
「どうぞ。じゃあ、また何かあったらナースコールで呼んでね」
僕が頷くと、沙織さんは一度病室を振り返り歩いて行く。僕はその背中を見送ることもなく、すぐに病室の入口をくぐった。
冬美はベッドに横になっている。目を閉じて、深い眠りについているように見えた。
カーテンが閉まっている窓の外で、夏には聞き慣れた破裂音が鳴った。花火だった。その姿は見えないが、僕は窓を見つめる。音は連続して耳に入った。
窓を見つめて一分が過ぎた頃、冬美へと視線を戻す。すると冬美は目を開き、僕と同じように窓のほうを見つめていた。
「冬美、大丈夫?」
彼女は一度頷いて、「花火、楽しみだったのにな」と言った。「あの丘からなら、綺麗に見えたはずなのに」
「カーテン、開けようか?」
「ここからじゃ、見えないよ」
「そうだよね。ごめん」
冬美は枕の上で首を振った。
「謝るのは私だよ。私のせいで台なしだね」
「そんなことないよ。それより、本当に大丈夫なの?」
「私、良く頭痛起こすんだ。ただ、それだけ」
「そう。大丈夫ならいいんだけど。また痛くなったら、言ってね」
「ありがとう」
窓から僕に視線を移し、冬美が笑った。そしてゆっくり起き上がり、ベッドの端に座る。
「起きても平気?」
「もう大丈夫」
確かに、いつもの愛しい笑みは取り戻している。
「勇樹、座って」
冬美はベットを軽く叩いた。
「うん。じゃあ」
促されベッドに腰掛ける。冬美の隣だ。緊張する。
「勇樹。次に会うときは、コンテスト入選のお報せ、持ってきてね」
「はは、そうだね」
「私、一週間、楽しみにしてるから」
僕は静かに頷く、調度いいかもしれない。冬美がこんな体調では、明日も会いに来るわけにはいかない。昨日も今日も外出したために少し疲れているだろうから、暫く休んだ方がいい。一週間が経てば体調も回復しているだろう。冬美に会えないのは辛いが、結果発表まで我慢しようと思う。きっと、一週間なんてすぐに過ぎ去る。
「もし入賞できなかったら、ごめん」
もし、ではなく、その確率のほうが高い。僕の写真が入選など、するわけがない。
「駄目だよ勇樹。自分を、信じて」
「………」
そうだ、昨夜言われたばかりじゃないか。僕は一度謝ってから頷いた。
「とにかく、早く退院できたらいいね」
声を明るくして僕は言う。やっとここまで仲良くなれたのだ、退院してくれれば文句はない。きっと、連絡だって取れるはずだ。
「うん、そうだね」
「退院したら、病院に来なくても会えるし」
「私と?」
「そう。一緒にさ、写真、撮ったりしようよ」
「………」
「あ、冬美が好きそうな綺麗な場所があるんだ。花公園って言って、どの季節も沢山の花で溢れてる。撮影のために僕も良く行くんだ。退院したら、必ず連れて行くよっ」
「……勇樹」
「えっとそれから、ん?」
「ありがとう……」
冬美の目から涙が流れた。流星のようにスッと頬を伝い、膝の上に落ちていった。
「な、なんで泣くの?」
「ううん。何でもないの」小さく首を振る。
「冬美?」
「退院したら、一緒に写真撮ろうね。その公園、連れて行ってね。……約束だよ」
「……うん」
冬美は改めて僕を見つめた。こんなに至近距離で目が合ったのは初めてだ。
なんでだろう。目線が反らせない。窓の外の花火がタイミング良く止み静まり返った病室で、僕の目を見つめる冬美。
次に何が起こるか、不思議と、分かった。
「……勇樹」
冬美の唇が、僕の口に触れた。
「…………」
僕はその数秒の間、ただ、目を開けて自分の心臓が激しく鼓動を打つのを聞いていた気がする。
「勇樹が、好き」
僕の口から離れたばかりの、冬美の口がそう言った。当然、僕は何も言えない。
「あ、わ、私なにしてるんだろっ、やだっ、ごめんっ、勇樹ごめんっ」
はっと我に返る冬美。
「あの、いや、その」僕も我に返る。一体なんなんだ この状況は?
「ご、ごめんね」
恥ずかしそうに下を向いて冬美が言った。
「う、ううん」
気まずい。なんとなくお互い数秒の間黙る。その後に冬美が言った。
「勇樹は私のこと、嫌い?」
「まさか、嫌いだなんて」
「じゃあ、好き?」
「…………」
落ち着いていた。やけに冷静に、色々なことを考えられた気がする。本当は考える必要などないのに。答えは決まってるのに。
以前、沙織さんに言われた言葉が脳裏に過ぎった。
『でも、もし冬美ちゃんから告白されたら返事は決まってるでしょ?』
そう、その通りだ。決まっているんだ。あのときから、ずっと前から僕の答えは決まっている。
「……駄目だよ」
僕は言った。
「え?」冬美は僕を見た。
「駄目、なんだ」
「………」
「冬美は、可愛いよ。……でも」
僕は、冬美と、釣り合うはずがない。一体僕のどこを好きなのか分からない。僕は、僕だ。不器用で臆病で、今までずっとくだらない人生を送ってきた鈴里勇樹なんだ。
僕より格好良くて優しい、冬美と釣り合った人間なんて沢山いる。駄目なんだ。僕じゃ駄目なんだ。
――いや、ちがう。自信がないんだ。怖いんだ。可愛くて優しい大好きな君と、向き合うのが。
「冬美は、僕のことなんて好きになったら、駄目だよ」
「………」
詭弁だ。冬美から沢山の沢山の勇気を貰ったのに、僕は冬美が望むことすら、いや、お互いが望むことすら叶えてあげられない。そんな勇気すら、ない。
本当に、本当に、僕なんか消えてしまえばいいのに。
「本当に、ごめん」
僕は下を向いて言った。冬美は首を振る。
「ううん、いいの。私こそごめんね」
冬美の口調は不思議なほどに優しいものだった。
この後、面会時間の終わりを知らせる放送が鳴り僕は帰宅することになる。
冬美は僕に愛しく可愛い笑顔で手を振った。そんな冬美の姿が、なぜかすごく、遠く見えた。
勇樹が、好き――
帰る途中、この言葉が何回も頭を過ぎった。写真のことを強く考えても意味はなく、それは視界を曖昧にする程に頭の中をぐるぐる回っていた。
帰宅後、自分の部屋の椅子に座り机にうつ伏せて考え込む。
(これで、良かったんだ)
心の中で、強く思う。僕は自分の価値を十分理解しているつもりだ。こんな僕に好意を寄せるなんてどうかしてる。入院中に芽生えた淋しい心が産んだ錯覚なんだ。そうだ、きっとそうだ。
顔を上げると机の上に置かれた子機が目につく。あれから結局、電話もしてない。そんな小さな勇気もない、こんな僕だ。
自分に言い聞かせるように考えを進めた。これで良かったんだって、決めつけた。
うん、これで良かったんだ。そう、良かった。きっと、良かった。……良かったのに。
この気持ちは、なんだろう。
「……あはは」自分を嘲笑う。
本当に、駄目な奴だな。馬鹿な奴だな。……悔しい。悔しい。大好きなのに。世界の誰よりも、大好きなのに。
次に冬美と会うのは、一週間後。コンテスト発表日。どうせ、入選なんて無理なことだ。駄目だったときは、もう冬美に会うのはやめよう。
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