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起きて間もなく息をつく。まったく、僕は溜息の多い人間だ。
早朝、普段の休日となれば悠々と寝ている七時。早く終わらせてしまいたい勉強のために早々と起床した僕。軽く朝食を摂った後、まず向かったのは洗面所。そこで最初に出会うのは、鏡に映る自分。
(つくづく冬美とは不釣り合いだな……)
別に学園のアイドルになりたいとかは思わない。ただ、もう少し、あと少しだけ、カッコ良くなれたらいいのに……。そうしたら冬美と会うときだって、少しだけ気持ちが楽になる。しかし願って変われるなら苦労はいらない。美男、なんて縁がない言葉だ。
僕は蛇口をひねり、両手で顔に水を浴びせた。
次に鏡を見れば、何かが変わっているだろうか。そう、もしかしたら、不思議な魔法が働き、見違えているかもしれない。そうだ、今この現状が映画や小説の一シーンで、もしも僕が主役ならば、そんな展開になったって変ではない。主役はその不思議な魔法で可愛いヒロインと結ばれる。それは、ある朝、顔を洗った瞬間から始まった。とか……さ。
「………」僕は鏡を見つめる。
いつも通りの僕に溜息を吐くと、顔を拭きながら部屋に戻った。そりゃそうだ、どんな映画や小説があったとしても、僕が主役に選ばれることはないだろう。
もう一度息を吐くと、机の上の写真を簡単に整理して素直に勉強を始めた。
気温がどんどん上昇する。すでに時間は昼時だった。僕にしては意外と集中していて、現在まで席は立っていない。これは大したものだ。
問題集にポタリと汗が落ちた。数時間ぶりに我に返ると、鉛筆を置いて両手を上に伸ばした。隣を見ると扇風機にもスイッチが入っていない。汗が流れるわけだ。僕はONのボタンを押し込んだ。エアコンとは違い、ここまで暑いと生温かい風が吹くが、それでも少しはましだ。
問題用紙をパラパラと見直す。予想よりも進んでいる。順調だ。これならば十日もすれば一段落できるかもしれない。
ここまで集中できたのも、良く考えてみれば当たり前だった。宿題が終われば、もちろん写真が撮れる。そして冬美に堂々と会いに行ける。励みはそれで十分だ。
僕は額の汗を拭う。少し休憩しようと思い、冷凍庫からアイスキャンディーを持ってきて口に加えた。体内が少しだけ涼しくなった。
温暖化が進んでいると言うが、こんな暑い日には不思議と心配になる。一年中こんな気温になったならばどうするのだろう。まず間違いなく、カキ氷が大流行するはずだ。
「……はあ」
勉強がつまらな過ぎて、ついくだらないことを考えてしまった。退屈だ。集中力が切れた。
外を見る。無駄なくらいに良い天気だ。雨はこんな日にこそ降ってほしい。
夏を感じさせる入道雲は堂々と浮かぶ。それに隠されまいと頑張るのは僕を苦しめるギラギラ太陽。空の青色は雲とのコラボレーションを魅せている。
(写真、撮りたいな)
うずく体。勉強に適した気候ではないが、写真撮影にはもってこいだ。
机の宿題を見つめる。思った以上に進みは早いが、まだ始めて数時間。終わるには程遠い。
「………」もう一度窓の外を見つめる。
ああ、やっぱり綺麗だ。机に体なんか向けていられない。
(あ、そうだ)
僕は頭で分かっていることをもう一度思い出した。それは昨夜、冬美とした約束。つまり、病院に写真を送らなければいけないことだ。そのためには、もちろん写真を撮らないといけない。今まで撮った写真は沢山あるが、それを送るのは本望じゃない。
(少しくらい息抜きしてもいいはず)
こんなときは都合のいいように考えるのが僕の癖だ。こんな暑い真昼に勉強しても頭に入るはずがない。それでは勉強の意味がないのではないか? 少しすれば真昼が過ぎ、若干は涼しくなるだろう、その頃からまた始めればいいじゃないか。うん、そうだ、そういうことにしよう。
「よしっ」
両手を握り立ち上がった。現在、両親は不在。タイミングも良い。少ししてから帰ってくれば大丈夫だろう。勉強だって、現実ちゃんと朝から昼までは行ったんだ。文句はないはずだ。
リュックにカメラを投げ込み家から飛び出すと、自転車で出発した。
今日はまず街に出る。朝から部屋に閉じこもっていたから、少し賑やかな所に行きたかった。今は夏休み、街中は明るい。そんな華やかな場面を収めてみるのも悪くないだろう。
国道を走った。街へ行くならこの道が最短だ。大型の車が通るものなら排気や騒音に少々苦しむが、北の大地を思わせる一直線の道が好きだった。無駄なハンドル操作も必要ないため、楽でもある。僕は照りつける重い光を身体に乗せ、強くペダルを踏む。早く撮影を開始したいものだ。
それから一時間が経った頃には、本日の空間を捕えた写真がリュックに入っていた。僕は満足そうな表情を浮かべ、一息つくと街中のコンビニで涼んだ。いつものようにスポーツドリンクを購入してから外に出る。陽は衰えを見せない。
それならばと僕は花公園へと自転車を走らせた。コンビニの中にいては空が見渡せないものだから、園内にあるベンチで休もうと思ったのだ。涼しさは半減するが、日蔭に座れば夏の爽風が心地良いだろう。
花公園は休日の賑わいを見せていた。前回来たときよりも賑わっている。僕は運よく空いていた日蔭のベンチに腰を下ろした。
なかなか期待の爽風は吹かないが、空が見える。これだけでも心地良い。見ると、遠くに大きな入道雲が浮かんでいるが、後は青かった。見える入道雲は巨大なものだ。山とすら例えられる。
(身長、八キロってとこかな)
少し心配なサイズだ。気になる。すでに、周りの小さな雲たちは吸い込まれてしまったと考えていいだろう。あのまま大きくなり、成層圏に達してしまえば……
そう考えたとき、僕の隣に男性が座った。
「大丈夫だと思うよ」僕に言った。
「え?」首を傾げる。どう言う意味だろうか?
三十歳くらいだと予想出来る。Gパンに黄色いTシャツを着ており、髭もない若々しい顔に爽やかな短髪の清々しい人間だ。イメージは体操のお兄さんと言った所。決して悪い人には見えない。
「あの雄大積雲を見て、心配してたんだろ?」男性は僕を見て言った。
雄大積雲とは入道雲のことだ。この名前で呼ぶ人は珍しい。
「はい……まあ」
「もし、かなとこ雲、になっても今日の風向きならこっちには来ない。まだ身長は八キロってとこだし、周りにはもう雲はない。大丈夫だろう」
いい読みだ。かなとこ雲、とは積乱雲で、空の天井にぶつかり上昇出来なくなった雲が四方に広がった状態だ。移動方向を見誤ると、激しい雨に打たれることもある。せっかく天気が良いのに崩れることを、僕は心配したんだ。
「あの……」
「いやいや、ごめん。君がカメラを手にしながら雲を見ていたものだから、ついね」
なるほど。しかしそれならば、この人も写真に関係する人間だろうか?
「失礼ですが、カメラマンですか? 気象予報士?」
首を振った。「いや、近くの高校で先生をしているんだ。社会を教えてる。ただ写真が好きでね、今日も撮影に来たんだ」
こう言って自分のカメラを鞄から出し持ち上げる。デジタルカメラだ。
「学校の先生?」
僕はここで、ピンときた。学校と写真。普通は繋がらないが、僕の中で繋がる場所が一つだけある。そして思い出した。まさかとは思うが、見覚えがある。
「今年、東第一高校に入った村田先生じゃないですか?」
「え? ああ、どうして名前を?」驚いた様子で答える。
そうだ、確か新任の挨拶のときに檀上に立っていた。他の先生の名前なんか覚えていないが、自己紹介のとき、少しだけ写真の話をしたことから、村田、と言う名字だけは覚えているんだ。そして、こうなれば合点がいく。あの写真はきっと……
「桜を撮影した『心咲く春』。向日葵を撮影した『一緒に空を』。学校を撮影した『また来ます』。あの廊下に飾られている写真、村田先生の作品だったんですね?」
終業式の日に足を止めた廊下。僕が入学してから少しずつ増える写真。学校に撮影が好きな先生がいて、飾らせてもらっているなら説明がつく。
「そうだけど。もしかして君、東第一の生徒かい?」
「はい。普通科一年の鈴里勇樹です」
「こりゃあ驚いた」手を頭に乗せる。「一年生の校舎には行かないから分からなかったよ。ごめんね」
「いいえ。それよりもあの写真、すごく綺麗ですよね。見るのを楽しみにしてるんです」
「それはありがとう。何? 写真が好きなの?」
「はい。写真家を目指してて」
「へえ、珍しいね。若いのに立派なものだ」
「………」
立派、か。大人に言われたのは始めてかもしれない。沙織さんにしてもそうだが、こんな大人が意外と身近にいたものだ。有り難い。
だがきっと、冬美に写真を送る約束をしていなければ、今日は家にいただろう。これは冬美のおかげだ、冬美が会わせてくれたんだ……。本物の女神なのかもしれない。
村田先生と暫くベンチで話した。先生は予想通り三十歳。写真歴は十五年と長く、僕なんかよりずっと詳しい。廊下の写真を見る限り、技術も大したものだ。こうやって知り合う機会があり本当に良かった。話しているだけで勉強にもなる。学校で会えば、会話も出来るだろう。新学期の学校生活に、少しだけ楽しみを見いだせる。
「鈴里君は、撮った写真を家に飾ってるのかい?」
ふいに聞かれる。
「いえ、僕は何も。親に怒られるので」
家の中に飾ったりしたら、捨てられるだけだ。
「怒られる? ああ、なるほど。反対されてるのか。じゃあ、誰かにプレゼントかな?」
「え? まあ、たまには」
「貰ってくれる人がいるのはいいことだよ。彼女?」
「そんな……違います。友たちです。入院してて……」
「その慌てようなら、入院してるのは女性だな」
「……は、はい」
「なるほど、恋愛中ってことか」
「い、いや。別に好きとかじゃなくて、その、ただ喜んでくれれば良くて」
「好きでもないのに、その子のためにこんな暑い中で写真撮ってたのか? 頑張り屋だな」
半ば分かっているように言った。ばればれだと思う。
「写真の技術を、もっと上達させたいので」これは本心だ。
村田先生は爽やかに笑った。「良いことだ。どれ、時間は大丈夫かい? せっかく花公園にいるんだ、一緒に花でも撮ろうか?」そう言って立ち上がる。
「はいっ」僕も続き、カメラを強く握りしめた。
先生も自転車だったことから、花公園で暫く撮影をした後は二人で様々な所を回った。人と一緒に撮影する、と言ういつもと違った新鮮な楽しみを感じる。先生は雰囲気もまだ若く、面倒見の良い兄、といった感じだ。そのテンションに乗せられて自転車は長い距離を走り、再び花公園に戻って来たときにはもう日が傾いていた程だ。
時計を見て僕は内心慌てた。もう五時半だ。ほんの少しだけ外に出るつもりだったのが、随分遅くなった。これではまた親に文句を言われる。せっかく充実した日だったのに、最後になって嫌なことを思い出してしまった。
「今日は有難うございました」先生に頭を下げる。
「ああ、こちらこそ。また廊下に飾るから、見てな」
「もちろんです」
「鈴里君の写真も、飾る所がないなら学校に飾ればいいよ。僕が頼んでみる」
「そんな、僕には早いです」
「大丈夫。こんなに一生懸命なら、すぐに上手くなるよ」
「なら、いいんですけど」
「入院してる子、喜んでくれたらいいな」
「……ええ、はい」しみじみ頷く。
「その子、いい子なんだろうな。今日の鈴里君を見てて良く分かるよ。誰にでもは、あんなに頑張れない」
その通りだ。「はい、本当に……優しい子です」
「優しくて、美人なんじゃないのか?」
「え? いや、まあ」
先生は笑った。「僕も高校生の頃は、片思いの可愛い女の子に気に入られるために頑張ったものだからさ。今日の鈴里君の気合いが、昔の自分と重なってね」
「そ、そうですか」
「それでいいんだよ」
「……?」
「恋ってのはね、相手のために一生懸命になって、自分を高めることに意味があるんだ。損はない」
「………」
確かにそうかもしれない。僕も冬美のために写真を撮ることで、確実に上達するだろう。なるほど、そう考えれば少しは楽だ。そもそも僕が冬美を彼女に出来るなんて思ってもいない。夢を応援してくれるだけで十分なんだ。例え嫌われてしまっても、冬美に彼氏が出来てしまっても、一生懸命に写真を撮った、この空間の価値は残る。
「じゃあな。次は学校で」右手を高く上げて言う。
「はいっ」僕はもう一度頭を下げてお礼を伝えた。
帰路を急ぐ。早く帰らないといけない。だが、その前に寄る所がある。今日、外に出て来た理由でもあった。
僕は用意していた便箋をリュックから取り出す。それに入れる前に写真を見つめた。先生のアドバイスもあり、なかなか良い写真が撮れている。明日からは少し上達しているかもしれない。
(……喜んでくれるかな)
やはり誰かのために撮影するのは気分が良い。しかも、その写真で喜び、偽りのない笑顔を作ってくれる人間に見てもらえるなら尚更だ。これには写真も本望だろう。今までは僕の部屋の中で親に文句を言われ、僕の溜息を聞きながら退屈な日々を送っていたのだ、誰かの視線に触れるだけでも幸せなはずだ。現在、机の上に散らばる写真も、いつかは綺麗にまとめて冬美に見てもらおうと思う。それがいい。結果的に僕も嬉しいし、冬美が病院生活の中で一回でも多く笑顔を作れるように手伝いができる。
一秒でも早く届いてほしい、冬美へ。
僕はそう願うと持ってきた病院宛ての住所が書かれた便箋に写真を入れた。目の前には最近では少し珍しい赤い筒型のポスト。僕は右手で中へと入れ込んだ。
ポストの底で便箋の落ちた音。僕はこれを聴くと目の前の坂を自転車で滑り下りた。風が気持ちいい。自宅にある扇風機より何倍かマシだ。
結局この日の、少しの息抜き、は五時間にも及び、西の空に橙色が薄く混ざり始めた空を見ながら帰路を走ることとなった。
僕が家に帰ってきたのは、もちろんすぐのこと。あの状況で寄り道をできるはずはない。親に小言を言われたのは言うまでもない。僕は耳を塞いで部屋に逃げ込んだ。
仕方なく再び机に向かう僕。退屈なのは変わらない。少し涼しくなったからと言って勉強が頭に入るはずがないのも当然だった。
でも、明日には病院に届く写真。それを思うと、手に握られた鉛筆は数学の問題を気持ち良く解いていた。
二時間して一息つく。確か人の集中力は二時間が限度だと言うから少し休憩だ。まぁ、ただ休みたいだけなのだが。
(結構進んだな……)
見直してみる。撮影時間は長くなってしまったが、早起きして午前中も頑張ったのだから当然だ。明日からは写真の時間なんて殆ど取れないだろうから、これを毎日続ければ早い段階で一段落できるだろう。
だが、それまで冬美に会えないなんて拷問に近い。人間がテレパシーでも使えたらいいのにと思う。
いや、待てよ。テレパシーとはいかないが、離れていても会話が出来るアイテムがある。僕は思い出していた。前回、病院を後にするとき、冬美に言われた言葉。
机の引き出しを開けガタガタと探す。そこから一枚の紙が出てきた。そう、それは病院の電話番号が並んだあの紙だった。
……電話。つまり、そうすれば冬美の声が聞ける。冬美と、話せる。頼んできたのは冬美の方だし、迷惑じゃないはずだ。
確か、面会時間内ならいつでも電話していいと言っていた。総合記念病院の面会時間は八時。部屋の時計を見ると七時四十分だった。良かった、まだ少しある。どの道、病院で長電話なんて出来ないだろうから調度良い。
僕は静かに部屋から出ると、親に気付かれないように家電の子機を部屋に持って来た。
左手で持つ電話を見つめる。やはり僕らしく緊張した。こんな経験ないのだから当たり前だ。女の子に電話を掛けるなんて何か連絡があるときくらいのものだろう。
でも、冬美から頼まれたわけだし、もちろん僕だって死ぬほど話したい。
「………」
僕は慎重に紙を見ながら右手でそっと番号を押し始めた。
全部で六桁の電話番号。一つ目の数字を押す。そして二つ。……三つ。……四つ。
……五つ。
「………」
やばいくらいの緊張。あと、一つが押せない。
もし、冬美と話せたとして、一体何を話せばいいのか全然分からない。まさか、僕が楽しく盛り上げて元気づけてあげられるはずはない。またいつもように何も言えなかったら、冬美が可哀相だし退屈だろう。そんなことで、もし嫌われでもしたら大変だ。
そうだ、所詮は僕なんだ。入院生活なんて仲の良い友達でもできない限り退屈だと思う。だから偶然知り合った僕に電話番号を教えてくれたのだろうが、僕と話しても仕方がない。声を聞いて嬉しいのは、僕であって冬美じゃないんだ。
小さく息を吐く。僕は電話をそっと机の上に置いた。電話は机のライトで寂しい影を伸ばす。僕は、その最後が押せないままの電話を見つめた。
本当に臆病だと思う。もっと、僕に勇気があればいいのに。つくづく名前負けしている自分に腹が立つ。だけど、腹が立つだけでそれ以上は何もない。変わろうとすることはずっとなかった。僕はそんな奴だ。
そんな僕が、君を好きでいてもいいんだろうか。いや、無意味なのは分かってる。でも、それでも、君を思っていたいんだ。世界の誰にも、君を好きな気持ちだけは負けないと、信じているから。
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十日が過ぎた。時計を見ると、朝七時だった。
僕は椅子に座ったまま両手を上に伸ばしあくびをした。そろそろ準備をしなくてはならない、今日は久しぶりの学校。つまり登校日だった。そのために五時に起きて鉛筆を持っていたものだから身体が重い。僕の行動を規制する勉強を早く終わらしてやりたい執念は、実に大したものだった。
生まれて始めて勉強を頑張ったと言える。一体毎日、何時間この机に向かっていただろうか。息抜きと言ったら冬美に送るための写真を撮るときだが、それも部屋から内緒で抜け出して一時間で帰ってくるだけ。あとはこの部屋に幽閉されていたも同然だ。もしかしたら、エコノミー症候群の恐れがあったかもしれない。
そのおかげもあって、問題集は解答で埋まっていた。作文は夏休み後半に書けばいい。各教科から出された細かな宿題も時期に終わる。つまり一段落ついたと言っていいだろう。
もう一度両手を伸ばしながらカーテンの隙間から外を見た。どうやら今日も天気は良さそうだ。ここ十日、天気は安定していた。一日だけ小雨が降り自宅にある写真を送ることになったが、日頃から手抜きをしているわけじゃないし良いだろう。
机から立ち上がり洗面所に向かう。鏡に写る自分はいつもと変わらない冴えない僕。そんな僕だが、冬美に会いたい一心で毎日頑張ることは出来た。これだけは自分を褒められる。
それから五分で朝食を済ませると、学校へ向かう。いつもなら進んでいない宿題を気にして心痛く登校するが、今日は違った。この厚い問題集を堂々と提出してやろう。
重かった身体は徐々に軽くなっている。いよいよ勉強から開放されたのだから、心が軽くなったのだろう。多分、懲役を終えた囚人はこんな気分なのだと思う。修行僧も同じかもしれない。歩きながら何気なく笑みがこぼれた。
そう言えば最近は笑っていなかった。何回か、夢にまで教科書が出てきたのだ。巨大な本に挟まれる夢だった。不思議な悪夢だ。笑えるはずがない。
だが現在の笑顔の理由は、勉強が終わった嬉しさではなかった。今日から普通に外に出れる、その嬉しさが強い。ずっとずっと行きたかった場所に堂々と行けるのだ。
毎日送った写真。冬美は喜んでくれただろうか。あの笑顔で見てくれただろうか。早く会いたい、冬美に。
病院へ向かっているわけでもないのに足は速まっていた。久しぶりに学生で埋まる通学路を、早々と歩く。心の中では、とにかく早く学校が終わることを強く願っていた。
「最近、何やってるんだ?」
教室に着いた所で久しぶりに会った友達に言われた。何と言われても、それは一つしかない。
「勉強かな」
悪夢の毎日を思い出しながら言った。
「ど、どうしたんだよ、お前」
打倒な反応だ。いつもならこの時期は、まだ何もやってない組、の一員なのだ。友達には不思議顔を返されたが、こっちも好きでやってるんじゃない。病院へ行くためには仕方がないんだ。
短いホームルームを終えると体育館に集まり、毎度お馴染みのスピーチが始まった。それを上の空で聞く。いつも長い校長先生の話が、今日は少しだけ短くて助かった。一秒でも早く学校から脱出したいのが本心だ。しかし檀上では別の先生の話が始まった。なかなか終わらない学校がじれったい。もし、ここで脱水症や貧血で倒れてしまえば、総合記念病院に運んでくれるだろうか? いや、保健室という箱に入れられるだけだろう。
教室へと帰る途中、僕は流れる生徒の中で一人立ち止まり壁を眺めていた。あの、写真が貼られている廊下だった。今日は一枚増えている。これがなければ横目で見ながら通り過ぎたかもしれない。だが僕は一目見て驚き足を止めた。それは確かに、花公園だったからだ。
そして分かる。これは僕と一緒に撮影した日の写真だ。公園全体を上手く捕らえた写真には空がある。その中には存在感のある雲が一つ。それはあの日に心配した入道雲だった。これも同じ形は存在しないから見れば分かる。タイトルは『はじめましての空』。確かに、はじめまして、だった。
「おはよう」
この声が聞こえると背中をポンッと叩かれる。誰かは分かった。
「村田先生。おはようございます」頭を下げる。
先生ももう一度、おはよう、と言うと爽やかに笑った。いざ学校で会ってみると不思議な感覚を受ける。本当にいたんだ、と言うのが正直な感想だ。それに服装のせいもあるかもしれない。もちろん本日はラフなTシャツやGパンではなく、綺麗にアイロンがけされたシャツだ。紺のスーツズボンが意外と似合っている。
「いい写真だろ?」見ながら言った。
「はい。あの日の写真ですね」
「そう。よく分かったな」
「いつも空、見てますから」
「ははは、いい写真家になるよ」
先生は嬉しそうにそう言いながら他の写真を見回した。先生も本当に写真が好きなのだと思う。
一方、僕はふと気になることを思い出した。これを機に聞いてみようか。
「あの、この写真なんですけど」
タイトルに『また来ます』と書かれた学校の写真を指差す。桜や向日葵はまだ分かるが、この学校を撮影した意図は気になる。
「ああ……これは。ここに来る前に勤めていた学校だよ」
「高校、ですか?」
「そう。県立高校」どこか思い詰めた表情で言った。
「何かあって、辞めたんですか?」恐る恐る尋ねる。
「うん。少しね」
先生は笑って言った。気になるが、まさか堂々とは聞けない。そしてそれよりも、僕は一つ心配になった。
「タイトルが『また来ます』ってことは、また戻るんですか?」
せっかく写真が好きな大人に会えたと言うのだから、もしそうなら残念だ。
「いや、それはない。このタイトルは嘘なんだ」
「嘘?」安心よりも先に疑問に思う。
「そう。本当は『もう来ません』だろうね」
「じゃあ、どうしてですか?」
「僕はね、逃げて来たんだ。現実から」
先生はこう言うと腕時計をチラリと見た。
「鈴里君、教室に行かないと怒られるぞ」
「あっ」
忘れていた。見回すと生徒の群れはいなくなっている。話の続きは気になるが仕方がない。頭を下げて教室に走った。
一体何があったのだろう。…逃げた? 現実から? それは聞いても良いことだろうか。爽やかな村田先生には似合わない表情だった。
最後の挨拶が済むと鞄を持ち校内を歩いた。帰り際、担任に、やれば出来るじゃないか、と言われ気分が良い。毎年怒られてばかりだったから少し新鮮だ。来年も十日で終わらせてやろうと思う。まぁ僕の実力ではなく、全て冬美の存在のおかげなのだが…。
「………」
下足室前で足を止める。視線の先に、村田先生の後ろ姿を見つけたのだ。ゆっくりと歩くその背中はやはり淋しそうに見える。僕はその姿を暫く眺めた。時期に先生は廊下を曲がり見えなくなる。僕はそれを見届けると、下足室に入り自分の靴を手に取った。
さっきの話が気になる。靴を手にしたまま少し考えた。もしかしたら、失礼な質問をしただろうか。あの写真について、触れられたくなかったのだろうか。
僕は靴を戻し、数秒考えてから方向転換した。一応、謝っておいた方がいいかもしれないと思ったのだ。
先生の背中を見送った方に歩く。職員室とは反対側。一体どこへ行ったのだろう。いや、この方角ならあの場所しかない。それは写真が飾られているあの廊下だ。
足早に向かってみると、そこにはやはり先生の姿があった。一人で静かに高校の写真を眺めている。僕に少し話したものだから、色々と思い出したのかもしれない。僕は静かに近付いた。
「先生……」
「ん? ああ、どうした?」
首だけこちらを向かせて言った。
「いえ。もう一度写真が見たくて」
「そうか。ありがとう」やはり笑わない。
沈黙が流れた。先生はずっと『また来ます』の写真を眺めている。何故そんな顔で見るのだろう。謝りに来たのだが、やはり気になる。
「あの……」僕は小さく声を出した。
「今年の入学生に、重い病気を持った女の子がいてね」
僕の言葉を遮るように言った。多分、聞かれると予想したのだと思う。
先生はゆっくりと一息ついてから続けた。
「それも、僕のクラスに入るって」
「……そう、なんですか」
「一度、会いに行ったよ。入学式前にね」
先生は遠い目をしている。眼球というレンズにその日を映し出し、思い出しているのかもしれない。
「彼女は、快く迎えてくれてね。迷惑かけるかもしれませんが宜しくお願いします、って笑っていたよ。笑顔がすごく可愛い子だった」
「………」
「将来の夢も教えてくれた。文化祭や修学旅行が楽しみだって言ってたな」
「病気、かなり悪かったんですか?」
「……死病だった」
「え?」
「母親に言われたよ」
「死ぬ、ってことですか?」
「ああ、そうだ。本人には教えていなかったらしいけどね」
「……そんな」
「余命はあと少しだと言ってた。あんなに元気そうなに、嘘みたいな話だったよ」
「………」
「だから文化祭にも出れないし、修学旅行も行けないんだよ。将来の夢を語っても、叶わないんだ」
先生の目にうっすらと涙が見えた。僕は顔を伏せる。
「死んでいく彼女を迎える、勇気がなかった。彼女の笑顔を見るのが辛かった。残酷だった」
また少し沈黙が流れた。僕には何も言えなかった。身近でそんな話があるなんて、と心苦しく思う。聞かなければ良かったとすら考えた。
「だから辞めたんだ、この高校」
「……そうだったんですか」
「彼女には『また来ます』と言って別れたんだけどね。帰り際、もう会うことはないと決めていたよ」
だから嘘……か、と納得する。でも、確かに辛い。逃げ出したくなると思う。死ぬと分かっている生徒に、普通に接するのは困難だ。
「教師失格だよな」
久しぶりに先生が僕を見て言った。僕は首を振る。
「そんなことありません。誰でも辛いと思います。僕なら教師自体を辞めてしまうかもしれませんけど、村田先生はちゃんと続けています」
「……そうかな、有難う。ああ、なんか話したら少し楽になったよ」
「いいえ。辛いことを話してもらって、すいませんでした」
先生は首を振る。笑顔が戻っていた。
「さて、僕はやることがあるから行くよ。鈴里君も帰る所だろ?」
「はい、もう帰ります。また会ったら、写真一緒に撮りましょう」
「ああ、もちろんだ」
先生は職員室へと歩いて行く。僕も改めて背中を見送ると早々と帰路についた。
歩きながら何回も先生の話を振り返る。あの写真に、そんな意味があったなんて分からなかった。綺麗な写真なのに、物語は淋しい。だがそんな感情を見る側に悟られないために、また感じさせないために、嘘のまま『また来ます』とタイトルにしたのだろう。確かに、教育現場である学校の廊下に『もう来ません』は悪影響ではある。
さっきの話には悲しくなったが、徐々に元気が戻っていた。何せ帰れば病院に向かえる。懲役を終えた僕は自由なのだ。
冬美は元気にしているだろうか。順調に足は回復しているだろうか。今日は天気が良いから、またあの夕日を二人で見られるかもしれない。
歩いていた僕の足は、いつの間にか早歩きになり、小走りになり、あっと言う間に帰宅していた。
自宅に入ると私服に着替え、カメラをリュックの中に投げ込むと昼食も摂らずに自転車で走り出した。
あの長い坂を上っていたのは、もう五分前のことだ。いつもに増して快調なペースで進んだ自転車は停車され。僕は総合記念病院に身を入れていた。
どこまでも臆病な性格はこの短期間で治るはずもなく、いざとなると緊張して、やはり階段で三階まで登っていた。
病室までの道筋は慣れたもので、冬美の363号室までスムーズに歩く。入口が見えてくると速度を落とした。心が激しく鼓動する。弾む、と言うよりはやはり緊張が勝った。入口が目前に迫る。覗けばまた、あの笑顔を返してくれるだろうか。まさか既に退院していて、中は抜け殻と言うことになってはいないだろうか。
「…………」
病室に足を一歩入れた所で停止した。力が抜け、目が点になる。
開かれた窓から静かに風が流れ、僕の身体に触れた。両端に寄せられた白いカーテンはふわりと揺れている。その手前には綺麗に布団が畳まれたベッド。だがその上には、誰の姿も見当たらなかった。
「……冬美」ぽつりと呟く。
見回しても、いない。まさか、本当に退院してしまったのか? どうなんだ? 是非、誰か教えて欲しい。
いや、まてよ。よく見ると、ベットの横に備えられている机にはまだ私物がある。こちらも綺麗に整頓されているが、患者がいなければないはずの物だろう。それに。
止めていた足を前に出し、ゆっくりとベッドに近付く。そして頭側の壁を見た。そこには見覚えのある写真がある。壁に沢山貼られている。毎日、少なくとも三枚は送ったから三十枚は超えているはずだ。最初の頃に渡した『彩雲』と『光芒』が、多くの写真に埋もれながらも輝いていた。
(全部、貼っていてくれたんだ)
温かな気持ちになる。まだ本人すら目にしていないのに、すごく気分が良い。冬美の存在は本当に僕の励みだ。
しかし、当の冬美は何処に行ったのだろう。まさか、これらの物を忘れて退院はないはずだ。
「あれ? 勇樹君じゃない」
廊下を通りかかった看護師から声を掛けられる。見ると沙織さんだった。これは良かった。沙織さんは冬美の担当なのだから、聞けば分かるだろう。
「こんにちは沙織さん。冬美に会いに来たんですけど」
「ありがとう。久しぶりだね。冬美ちゃん、検査に行ってるから少し待っててね」
愛想の良い笑顔で沙織さんは答えた。そして病室に入ってくる。
「あと十分位で戻ってくると思うから、どうぞ座ってて」
パイプ椅子を開くと僕を見て右手で促し、もう一度笑い掛けた。いつ来ても心地の良い病院だ。
僕は頭を下げて腰を降ろした。どうやら冬美は検査の様子。患者なのだから仕方がない。それに心の準備も改めて必要だったし、ちょうど良かったかもしれない。何より理由が分かって良かった。
「冬美ちゃん可愛いし、やっぱり会いたくなっちゃうよね。私もあの笑顔には癒されてるんだ」
「え? いえ。僕はそう言うわけじゃ」
「そう? まあ、人の口は本心以外も喋れちゃうからね」悪戯な目で言う。
「い、いえ本当に……」
「でも、もし冬美ちゃんから告白されたら、返事は決まってるでしょ?」
「……それは」もちろん決まっている。
「それが決まっていれば、気持ちは十分じゃない?」
「……はい、まあ」
「あ、大丈夫だよ。内緒だからね」口の前に指を立てる。
「お、お願いします」
冬美を大切に思っているのは本心だから構わない。沙織さんは優しいし、きっと心の中で応援してくれているのだろう。大体、普通に考えればわざわざ病院まで数回も会いに来ているのだから、不思議に思わない方が鈍感過ぎるのだ。
沙織さんが出て行き静かになった病室の中に、再びそっと風が流れた。暫く夏の雲に隠れていた太陽が顔を出すと、光は急降下して身体に降り注ぐ。病院の中は窓が開かれていても冷房が勝り涼しいものだが、光に触れている場所だけは温かさを感じている。
僕は立ち上がり窓際に立った。両手を窓枠の下部に置き、開いた窓から少し身を乗り出して風を感じた。下には長い坂が見える、僕以外にも自転車で上ってくる人間はいる様子で、坂には二つの姿があった。それを見て、頑張れ、と呟く。あの大変さは良く分かる。
近くを鳥が横切ったことで、僕は驚き体を戻した。その姿を目で追う。まるで自由を主張するように外の空間を飛行している。その様を羨ましく思うが、鳥の世界にカメラは存在しない。写されるだけの人生は少し考えものだ。
「勇樹?」声がした。
沙織さんの言う通り、ちょうど十分が過ぎた位だったと思う。
窓際に立つ僕は身体を微振動させて驚いた。すぐに振り返る。沙織さんが押す車椅子に乗るのは……そう。
「冬美っ」つい口に出た。
車椅子で愛しい笑顔が咲いた。眩し過ぎる。
「もう沙織さんっ、来てるなら教えてよっ」
冬美は頬を膨らませている。沙織さんは、ごめんごめん、と頭を撫でていた。
すぐに沙織さんが手伝い冬美はベッドに移る。沙織さんは僕に片目をつぶり、気を利かせて病室を後にした。
「勇樹、待たせてごめんね」
冬美が言う。謝られる理由はない。
「ううん。僕の方こそ、なかなか来れないでごめん」
冬美は首を振ると、ベッドの上で振り返った。後ろには沢山の写真が貼られている壁がある。それを見たのだ。
「本当にありがとう。嬉しかった。毎日が楽しみだった」
ぽっかり穴があき、空が覗いて見えるような壁を見上げて冬美は言った。
「そんな。僕の方こそ、貼ってもらって」
「だって、綺麗なんだもん」
冬美はまじまじと見つめる。相変わらず素直で、優しくて……可愛い。幸せだ。どうして君といるとこんなにも幸せなのだろう。
「あ、勇樹。電話は嫌だったかな?」
「え? ああ、そんなことないよっ、勉強が忙しくてさっ」
「そうだよね。ごめんね、わがままで」
「僕こそごめん。かけようとは思ってたんだけど……」
「それなのに写真まで。……私、最低だ」
「大丈夫だって。写真で大変なんて思わないから」
「……優しいね。勇樹」
「………」顔を少し伏せる。
ごめん。嘘ついてる。あの晩、確かに電話には触れていた。でも、勇気がなくて無理でした、なんて言えるはずがない……。本当に馬鹿だ、最低だ。
「僕、何か飲み物買って来るよ」
何となく気まずくて出た言葉。休憩室に行って、深呼吸でもしようと思う。
「あ、勇気。もし良かったら、そこのジュース飲んで」
「え? でも」
「いいの。良かったらだけど」
「ああ……じゃあ、もらおうかな」
途中まで上げた腰を降ろした。なんとなく発した言葉だったし、別に断る理由はない。自転車で来たために、喉が渇いているのも事実だ。
僕は冬美からもらった缶ジュースをあけた。冬美はもう一度写真を見つめている。
(そう言えば)
冬美の横顔を見て、ふと思い出した。君と二人で見た、あの夕日のことをだ。
僕は改めて窓の外を見る。この天気なら、きっと今日も綺麗なはずだ。雲に邪魔されず、太陽は燃え沈むだろう。
「冬美、今日はあの場所行くの?」
「え? あの丘?」
「うん。この天候なら、綺麗だと思うけど」
「そうだけど……どうしようかな」
「昨日、行ったとか?」
「ううん。そうじゃなくて」
どこか言葉を詰まらせて言う。
「体調が、悪い?」
確か主治医の先生に許可を貰わなければならないはずだ。体調が悪ければ不可能だろう。
「ううん」首を振る
「……?」僕はいよいよ分からなくなり黙る。
冬美は少し間を開けてから話した。
「勇樹に車椅子、押してもらわなきゃいけないから」
「え?」
「迷惑かけちゃう」
……どこまでも可愛い。
「僕は大丈夫。行こうよ」
「本当?」
「うんっ。僕も見たいし」
「ありがとう、勇樹」
可愛い笑顔。君の笑顔を見るために生きていたって、僕は幸せかもしれない。ここまで綺麗に心の闇を消すことは、現代医学ですら難しいと思う。
冬美は棚に置かれた紙を取った。それは何やら文字が並んでいる。多分、父親に書いた手紙だと思う。
「あのさ、勇樹。紙ヒコーキ折ってくれないかな?」
「え? 僕が?」
「うん。えと、検査で使った薬のせいかな、手が少し痺れてて」
「ああ、そうなんだ」
薬には詳しくないが、色々あるのだろう。
僕は紙を受け取った。紙ヒコーキを折るのは久しぶりだ。小さい頃は、必要のない広告用紙を見つける度に作っていたものだ。
「退院にはまだかかりそうなの?」
沈黙になるのが嫌で、紙を折りながら言う。
「え? 退院?」
「うん。良くなってる?」
「退院は、どうなんだろう」
「まだ分からないの?」
「まだ検査結果出てないけど、そろそろなんじゃないかな」
「そっか、良かった」ほっと息を吐く。
「早く退院して、遊びたいな」
だと思う。自分と同じ年齢なのだ。僕なら親に反対されながらも趣味を楽しめるが、冬美のように入院していてはそうはいかない。この辛い心情は分かる。
「そうだよね。一日でも早く退院できるといいけど」心から言う。
「本当。間に合えば、文化祭で劇やったり屋台出したりしたいな。来年は修学旅行もあるよね。ディズニーランドかな?」
「ど、どうだろう?」
「もしそうなら、私の写真、写してくれる?」
「いや、学校違うし」
「あ、そっか」
彼女は少し天然かもしれない。
僕は冬美に紙ヒコーキを手渡した。昔の感が残っていたのか、意外と上手く折れた僕。心の中で手を叩く。冬美から返されたお礼と笑顔でまたもや照れた。
「ねえ勇樹っ。一回だけ写真、撮らせてくれない?」
急に冬美が言い、手を合わせられる。
「それは別にいいけど」リュックからカメラを出して冬美に差し出す。
「わあ、すごい。ここ押せばいいの?」
「うん。ちゃんと写したい物を捕らえて、主役を決めて、なるべく障害物が入らないように」
「はいっ」
冬美はカメラを通して窓の外を眺めていた。少しの間ウロウロと揺れる。
「よしっ」
冬美は小さく言うと、その後、シャッター音が聞こえた。
「どうかな?」
手渡されたカメラから、冬美が撮影した一枚の写真が出てくる。
「………」
僕はそれを黙って眺め、冬美に渡した。空がぶれて、壁や窓枠までが丁寧に収められた写真だった。
「あれえ? ちゃんと撮ったと思ったのにな」苦笑する。
「仕方がないよ。まだ手、痺れてるんでしょ?」
「そうだけど、どうやら私は写真家にはなれないみたいです」恥ずかしそうな笑顔を作った。
冬美はその写真を壁に貼ることはしなかったので、僕が貰いリュックに入れた。冬美が撮影した写真だ。大事に家に置いておこう。
「冬美は将来、何に?」
カメラをしまいながら言う。
「うーん。やっぱり、看護師かなあ」
「看護師? ああ、いいかも」
冬美ならば、まさに白衣の天使だ。羽が生えるかもしれない。
「お母さんが、看護師なの。最初はそれで憧れてた」
「そうなんだ」
これは初耳だ。冬美の母親なら、もちろん理想の看護師なのだろう。人を救う看護師の姿に憧れるなんて、冬美らしい。
「でも。忙しいから、なかなか顔出せなくて」
「そっか。そうだよね」
医療の仕事は病院により夜勤等もあるし、大変なのだろう。だからと言って、父親もいないから皮肉なものだ。僕がほんの少しでも代わりになってあげられたらいいのだが。
「お母さんの大変さを見てて、少し嫌になったこともあるんだけど。最近、またなりたくなって」
「最近また? どうして?」
「やっぱり、あの人のせいかな」
冬美が僕から視線を反らして指をさした。それは病室の入口方向で、見ると担当看護師が入ってくる所だった。
「あらあら何? 私の文句でも言ってた?」
沙織さんは銀色の荷台を止めると、持って来た医療器具をいじりながら言った。
「うんっ」冬美が笑顔で答える。
「うんじゃない」デコピンを返す。
「看護師失格っ」冬美は額を摩りながら言う。
「注射、増やすよ?」
「はいごめんなさい」
僕は小さく笑う。いつ見ても仲が良い、と微笑ましく思う。羨ましいくらいだ。
なるほど。こんな看護師を毎日見ていれば、改めてやる気が出てくるだろう。親が忙しくて顔を出せなくても、あんな笑顔が作れる理由でもあるはずだ。きっと、総合記念病院を退院した患者が看護師を目指すことは珍しくないだろう。
「さ、冬美ちゃん採血。腕出して」
ゴムチューブを手にした沙織さんが言う。冬美は悪魔でも見ている様な目をしていた。
「ほら。腕っ」
数秒が経っても動かない冬美に言う。でもどこか慣れた様子で、冷静さも見える。予想するに、冬美にとって注射器は悪魔の大王か?
「誰かに代わってもらったら……駄目?」
冬美が弱々しく言った。沙織さんは首を振る。それはそうだ。
すると、冬美が潤んだ瞳で僕を見た。
「おいこらっ、誰に代わってもらうつもりだっ」
しかし沙織さんが再び冬美の額を人差し指で弾く。たしかに、こればかりは代わってあげられない。何にせよ冬美の可愛い一面を見た。
気を利かせ廊下に立っていると、沙織さんが荷台を押して出て来た。
「勇樹君がいるから、今日は叫ばなかったよ」
こう言って歩いて行く。看護師もなかなか大変だと思う。
病室を覗くと、冬美と目が合う。冬美は採血された場所を押さえながら、照れ笑いを見せていた。
あれから数時間。僕たちは外を散歩したり、休憩室で話をしたりして過ごしたときには沙織さんも参加して盛り上がり、三人で大笑いをしたものだ。
そして外がうっすらと色付いて来た頃、僕たちは既に病院から出て坂を上っていた。今日もスムーズに主治医からの許可が取れて良かった。きっと順調に回復しているんだ。
見回すと、夏の草木も順調に茂りを見せていた。夏の生いは早い。前回来たときよりも背丈の違いを目認できる。その茂みの中では、気が早い夏虫が遠慮がちに歌っていた。脇に濁流があるわけではなく、ただ緩やかになったり急になったりの坂道なのだが、夕日へ向かう過程も加勢してか、人を決して飽きさせない。
「いい人でしょ? 沙織さん」車椅子から冬美が言う。
「うんっ」
「優しいし、美人だし。あんな女性になりたいな」
冬美は見上げながら話す。
確かに沙織さんは優しいし美人だ。話によると仕事も出来る様子だし、様々な人に好かれるタイプだろう。
……でも、それでも。
「冬美のほうが、可愛いと思うけど」どんな人も、君には遠く及ばないと僕は言いたい。「あっ」僕は口を強く閉じる。しまった。つい本音が口に。
「そそ、そうかな。そんなこと……ないよ」言葉を詰まらせて冬美が言った。
「いや、あの、本当だよ」
口が滑ったとは言え、撤回もできない。そもそもこれは本心なんだから、別にいいだろう。妙に照れている冬美が可愛いし。
僕は恥ずかしくて無口になってしまい、お互い何となく黙っていた。自然の奏でが、都合良くその間を埋めた。
「あっ」
十分が過ぎた頃、僕が言った。先から溢れる、橙色を見てだった。それは、坂の終着点を示す色。どうやらやっと到着した様子だ。
冬美は黙って見つめている。僕は一番先まで車椅子を押して行き、冬美と並んだ。
二人で眺めた。頂上から見える、その夕日を。
やっぱり綺麗だ。そのオレンジは釈迦の五光を連想させ、まるで太陽と地球との距離が近付いたかと思わせる程偉大に感じられる。これは同じ高さを兼揃えた他の場所から見ても、必ず同じだとは言えない価値観を肌で認識できる。
海も清々しい青色から熟れた柑橘を思わせる橙色へと変わり、まるで太陽が海に沈み沸騰している様。
本当に素晴らしい絶景だ。この場所はどこか特別だと感じさせる。
「手紙、送ったら?」冬美に言う。何故だろう、今がいいって思ったんだ。特に輝きを増している気がする。
「うん、そうだね」冬美もそう感じたのか、持ってきた紙ヒコーキを手にした。その手はまだ痺れているのかもしれない。少しぎこちない。
「大丈夫?」
「平気。ありがとう」右手に掲げて微笑む。そして。「それっ」紙ヒコーキは空へ舞った。
フワフワと風に乗り、夕日へ向かう手紙。それを見ていると、不思議な感情を生んだ。あの夕日は、天国に近い存在の様な気がするんだ。
この場所から手紙を送れば、天国に届く。本当にそう思えてきた。
「自分の夢を信じて、諦めず目指す」
そんな様を見つめながら、ぽつりと冬美が言った。
「それって単純だけど、大事なことだよね。誰にでもは出来ない凄いことだよね」
「………」
「でも、そんな立派な人が知り合いにいます……って、そう手紙に書いたの」
「え?」
冬美は僕を見て笑顔を作った。酷く愛しいその笑顔。
ねえ、冬美。君は背中を押してくれた。一人で立ち尽くす僕が一歩進むための足掛かりを作ってくれた。沙織さんや村田先生のように、会えないはずの人とも出会わせてくれた。
でも僕は君に、何も与えていないじゃないか。写真をあげる行為だって、助かっているのは、喜んでいるのは、僕のほうじゃないか。それなのに……それなのに……
……冬美。君は僕に何を与えられて、僕にここまで沢山の勇気と安らぎを与えてくれるの?
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