6


 すでに夕日は海へと沈み鎮火されたため、もう辺りは暗い。僕たちが下る坂道は所々にある電灯が淡く照らすだけだ。

 腕時計を確認すると、七時半を過ぎていた。これ以上遅くなると病院側も心配するだろう、沙織さんにも迷惑は掛けられない。僕たちは急ぎ坂道を下っていた。

 丸い月が浮いている。暗い夜道には有り難い。今日は天気が良かったために雲に邪魔をされないためか、いつもより輝きが増して見える。

 月明かりも馬鹿には出来ない。満月ともなると夜にも関わらず影ができる。その晩を真っ暗な部屋から外を覗くならば、天使が舞い降りて来そうな神秘的な世界を楽しむことができる。夏場には、そんな夜に眠ってしまうのが勿体なくて、良くベンチに出たものだ。

「………」

 こんなことを考えているのも、もう五分は沈黙が続いているからだった。話題が尽きたわけではない。冬美と話したいことなんて、山のようにある。でも、なかなか切り出せない。せっかく一緒にいるのだから何か話さないと損なのだが、この沈黙のせいで更に気まずい。さっきまでもそうだった。冬美に何か問われればもちろん答えるが、黙ってしまえば続く沈黙。せっかく病院まで冬美に会いに来れたと言うのに、臆病な所は治らないものだ。

 車椅子に乗る冬美の後ろ姿を見つめる。

「どうかした?」

 視線を感じたのか、僕の溜息を聞いたのか、冬美が振り返った。キョトンと僕を見つめ首を傾げる。こう言う細かな仕草も可愛い。いや、それよりも何か言わなくてはならない。何でもない、なんて言ったらただの馬鹿だ。

「いや、えと」

「うん」

 仕方なく視線を空に逃がした。改めて丸い月が視界に入る。それを見て、ふと思った。

「不思議だね……月がホラッ、今日は少し大きく見えるよ」

 何を考えたわけではなく、何となく、口にした言葉。でも自分で言ってみると、そうも見えてきた。

 いや、そんなことよりも、僕は何を言っているのだろうか。今度こそ変な奴だと思われても仕方がない。

「――本当だ」

 冬美も視線を上げて言った。

「え?」

「言われてみると、そんな気がする。綺麗だね」

「で、でしょ?」

「うんっ、なんかすごいっ。どうしてだろうっ」

「………」

 無邪気だな。それでいて色々なことを考えていて、素直で、優しくて……

 まだ空を見上げている冬美を後ろから見つめる。できるものなら、僕の心に秘める気持ちを伝えたい。

「………」

 でも、僕が伝えたって仕方がない。こんな僕が。

 本当に幸せなこの時間。この空間が終ってしまうくらいなら、僕は絶対に想いなんて伝えない。こうやって一緒にいられたら、それでいい。ずっとずっと、君と仲良くしたい。

 病院に着くと冬美の病室へと向かった。中には待ち兼ねていた沙織さんが待機しており、冬美がベッドに移るのを手伝ってから気を利かせて出て言った。

 もう遅い時間なので、僕も帰らなければならない。どうやら究極的に幸せな時間も終わりの様だ。

「今日は本当にありがとう」

 冬美は僕の目を見て言った。だがそれは僕のセリフだ。

「とんでもない、僕は何も」

 そう、お礼は僕が言いたい。

「写真、本当にまた、くれる?」

「う、うんっ」

「良かった」

 また、綺麗な写真を撮らないと。君の存在が本当に僕のやる気になってくれている。

 少しずつだけど、夢に対する不安や違和感だって薄れていっている気さえする。応援してくれる言葉って、どれだけ大きなことなんだろう。

「あ、でも勇樹も夏休みだし宿題とかあるよね?」思い出したように言った

「ああ、うん」

 そうだ、宿題をやらなくては親に文句を言われて写真どころじゃなくなる。去年の夏休みなんて、写真尽くしになってしまいこの歳で外出禁止なんてされたのを忘れない。まったく、不便な家庭だ。

 山のような宿題、写真を撮る時間も削れないし。そうなると、終わらないうちはなかなか病院に顔を出せない。

「そうだっ。来れないときは郵便で写真を送るよっ」

「でも……お金かかっちゃうよ」

「ううん、大丈夫。写真、見て欲しいし」

「本当? 無理してない?」

「うんっ」

「じゃあ、お願いしてもいい?」

「うん。毎日送るよ」

「本当に? 嬉しいっ」

 冬美には申し訳ないが、僕の方が嬉しいはずだ。

「ねえ勇樹っ」

「ん?」

「これ」冬美は一枚の紙を差し出す、何やら数字が並んでいる。「この階の電話番号なんだけど……えっと、ああその、しばらく来れないみたいだし、その間もし暇があったら、電話、くれない?」

「で、電話?」

「あ、ううん、本当に本当に暇なときでいいのっ、電話がきたら、沙織さんが私に知らせてくれるからっ」

「……う、うん。分かった」

「なんか色々ごめんっ。ごめんねっ」

 ……電話? 僕が? 冬美に? この数日の間に一体いくつの新しい経験を体験するのだろう。でも、頼んできたのは冬美の方だ。嬉しくてたまらないのは言うまでもない。

 すでに八時。部屋に設置されたスピーカーから面会時間の終わりを伝える放送が鳴った。いよいよ帰らなければならない。

「それじゃあ僕はこれで」

「うん」

 普段、幸福に恵まれない僕の小さな器には、溢れ出さんばかりの心地良い気持ち。こんな心境で帰路につけるなんて少し贅沢に思えた。

 帰りはエレベーターで下ろうと思い向かう。隣で会釈した看護師に頭を下げ返すと、それは沙織さんだった。

「もう暗いから、気をつけて帰ってね」

「はい。今日は遅くなってすいませんでした」

「いいのよ。それより、また冬美ちゃんに会いに来てあげてね」

「あ、はい。でも」

「どうかした?」

「来ても、いいんでしょうか?」

「なんで?」

「冬美は、か……彼氏とかいないんでしょうか?」

「あはははっ」沙織さんは手を口にやって笑った。「大丈夫、大丈夫。私も疑問に思ったことあるけど、いないみたいだよ」

「そ、そうなんですか?」自然と笑みがこぼれる。

「冬美ちゃんに惚れちゃった?」

「いやっ、僕は写真を渡しに来ただけでっ、彼氏がいたら迷惑だと思ってっ」

 沙織さんは慌てる僕を見てまた笑った。分かりやす過ぎるかもしれない。

「そっかそっか、わかった。また来てね」沙織さんはこう告げ、手を振ってから踵を返した。

 恥ずかしい。どうやら僕は嘘も苦手な様だ。日々、欠点ばかりが増えていく。何か取り柄があってもいいのに。

 エレベーターに乗り込むと、右の壁にもスローガンが張ってあった。受け付けに張られているやつとは別の物で『医者と看護師は、患者の友にはなれど敵にはなるな』と書いてある。これもその通りだと思った。従業員は、このエレベーターを使う度にこれを目にするのだろう。だからこそ、沙織さんの様な看護師が存在しているのかもしれない。確かにあれは、敵ではなく、他人でもない。まさしく友だ。

 反対側、左の壁にもスローガンがある。『金を見るな、患者の目を見ろ』と書いてあった。どこまでの人間味のある病院だ。きっとこんな病院には、良い医者や看護師を生むだけではなく、良い患者をも生むのだと思う。

 自転車に乗った僕は勢い良く坂を下った。外は暑いが、肌に感じる風が心地良く、汗は滲まない。

 海の方角を見る。でも今日はさすがに暗く、景色は視界に入らない。こうなればやはり空しかなかった。見上げる。少しだけ大きく見える月が、まだ雲にも邪魔されず、輝きを劣らせぬまま浮かんでいた。

 星の装飾は少ない。満月の夜は月明かりが強く、星たちは目立たなくなるからだ。

(……僕みたいだ)

 浮かぶ月は、冬美の輝きそのものだ。そして、その回りで微かに見える星が僕。とんだロマンチシストかもしれない。だが捻くれている。綺麗な星空は綺麗だと思えれば、それだけでいいのに。

 本当に『自信』なんて言葉が存在しない世界を生きてきた。その『自信』とやらは、どんな形をして、どんな色艶をしているのだろう。きっと巨大で、神々しく輝くモノのはずだ。あの、夕日のように……

 それは、こんな僕の手には持て余す存在だろう。熱くて触れず、眩しくて目を伏せてしまう存在だろう。

 きっと、夜空がこう見えるのも自信がないからだ。僕は、変われるのだろうか……


「ただいま」

 玄関から中に発した。親の返答はなかった。自宅に着いたのは三十分後、八時半だった。

 中から食事の臭いがする。動きっぱなしだった今日だから、さすがにお腹が空いている。僕は靴を脱ぎ散らかして家に上がると食卓へと向かった。

「遅いぞっ」

 顔を出した所で父親に言われた。

「連絡くらいしなさいっ」

 これが母親。確かに予定よりは遅れてしまったが、別に深夜、夜遊びをしていたわけではない。

「ごめん。でも、まだ八時だよ」のろのろと食卓に座りながら言った。

「勉強で遅くなったなら何も言わない。お前の場合はまた、くだらない写真でも撮ってたんだろ。貴重な夏休みを無駄にするな」

「………」

 時間が貴重なのは分かるが、僕以外の誰のモノでもない。その貴重な時間の使い道を、高校生が分からないとでも思っているのか。また、使い道は自分に選択肢があるのではないのか。

 確かに、使う内容にはよるかもしれない。だが僕は決して、ただカラオケなどで遊んでいたわけではない。煙草を片手に、自称ヤンキー学生と一緒にいたわけではない。意味もなく、コンビニ前にたむろっていたわけではない。用もなしに街を徘徊していたわけでもない。本当に、純粋に、写真が好きなだけなんだ。撮影が部屋で支障なく行えるなら、もちろん僕はずっと部屋にいる。だが空の撮影は外で行うものなんだから仕方がないだろう。アウトドアと言う項目で言うなら、野球やサッカーと同じはずだ。甲子園を目指し、こんな時間まで汗を流す学生は沢山いるだろう。僕がプロ野球選手を目指していたなら、やはり文句を言っただろうか? 写真に対する偏見ではないのか?

「いいじゃん、別に」僕は呟く。

 それを聞いて父親が続けた。「いい加減にしろっ。メシが食えないとどうしようもないんだぞっ」

 母親も続く。「そうよ、写真家なんかじゃなくても、夢なんて大学に行ってからでも探せるじゃない」

 これが、僕の家の現実だ。ああ…病院での輝きが嘘の様だ。別世界だ。

「ほっといてよ」一度は手にした箸を置いた。

 こんな状態で食事が美味しいはずがない。いくら目の前の食べ物が割烹だろうが、高級フレンチだろうが、今の僕が食べれば『美味』ではなく『嫌味』を感じるだろう。

 席を立つと部屋に走った。強く扉を閉めると、力が抜けたように学習机の椅子に座った。

 深い息を吐く。溜息は幸せが逃げると言うが、僕の場合は勘弁してほしい。これ以上の不幸が待っていたら、僕ではとても耐え切れない。

 リュックをひっくり返した。写真で溢れる机の上に、カメラが転がった。リュックに手を入れ、本日撮影したばかりの写真も取り出す。机の上に置くと、溢れる写真の一部となった。

 その中から一枚を手に取る。

(綺麗だな……)

 これを見るのが楽しみだった。それは、冬美と見た夕日の写真。

 上手に撮れている。あの眩しさを普通に撮影して、よくも綺麗に撮れたものだ。神々しい。あの丘に立ち、眺めている気分になれる。肌を照らす光、空の色、流れる空気、熱されたような海。あの空間は、忘れない。この写真は、ずっとずっと大切にしよう。これを撮影した僕の隣には冬美がいたわけだし……

 色々あったが、一日の終わりを間近に微笑むことが出来た。冬美には本当に感謝しなくてはならない。

「………」

 でも、今日は冬美の笑顔が綺麗に思い出せない。あの話を聞いてしまったからかもしれない。

(父親が、いなかったんだ)

 顔も見たことないと言っていた。まさか、そんな境遇にいようとは思いもしなかった。

 この歳になれば、片親なんて人とは数人くらい出会ったし、噂でも知っている。だが、さすがに人事だ。こんなに身近に感じたことはない。きっと、すごく辛い思いをしたに違いない。小さい頃は、寂しかったに違いない。

 あんなとき、気が利く男なら格好良いセリフでも言ってやるのだろうが、まさか僕が言えるはずがない。本当に仕方のない奴だ。

 ふと、視界に入った物がある。机の隅に置いてあるそれは、読み掛けていた写真の雑誌だった。そう言えば先日、このページを見たまま開きっぱなしだった。それは、写真を投稿して審査され、優秀な作品が雑誌で取り上げられるコンテストの内容が書かれているページ。

 優秀作品になれば写真家としての階段を一段登れるし、景品として名の知れたカメラも贈与される。確かに投稿の価値はある。投稿者も自然と多い。まあ、当の僕は毎回このページを眺めているだけで終わるんだけど……。まさか入賞なんてできるはずはない。

 だがもし、写真家として何かしら成長を遂げたなら、冬美は笑ってくれるだろうか? 優しい冬美のことだ、きっとあの笑顔で自分のことのように喜んでくれるだろう。冬美が笑ってくれるなら、それだけで多大な価値がある。

「………」雑誌を手に取りを眺める。

 前回の優秀作品者のコメントが書かれている。

『応援してくれた親の期待に答えることができて嬉しい! このコンテストが夢を叶える第一歩になりました!』

 この短い文章を何度か読んだ。撮影者はまだ十八歳。僕にとっては先輩だが、入賞者としては若いだろう。高校三年だろうか。何にせよ、さぞ幸せそうな内容だ。

 掲載されている写真は確かに素晴らしい。説明欄では母親の故郷を写したとされており、平凡に見えるが純粋で美しい野と緑の山々が捕えられていた。タイトルは『ただいま と おかえり』。なるほど、何年の間帰らなくても、故郷の土は全てを覚えている。その地を踏み、ただいま、と呟けば、きっと大地は、おかえり、と優しく受け入れてくれると言うわけか。母なる大地と言うから、人は生まれながらにして二人の母を持っている、とも考えられる。なかなかセンスが良い。僕なんかと違って。才能に満ち溢れている感じだ。

 コメントをまた何度か読んだ。『応援してくれた親の期待に答えることができて嬉しい…』。この一文だけが腹立たしい。先程見た自分の親の様子を思い出す。

(親の応援だなんて、縁のない話だな)

 くだらない写真、と言う言葉を思い出し、僕は雑誌を強く握りしめて部屋の壁に投げ付けた。ぶつかった後で床に落ちる。雑誌に責任はないが、悔しい感情が抑え切れなかった。

 ベッドに転がる。明日からは地獄の勉強漬けだ。早めに眠り、朝から行おう。そうすれば写真を撮る時間が作れるかもしれない。

 空腹で苦しい中、目を閉じる。今日は酷く疲れている、暗い視界に数分も包まれていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

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