4


 一週間が経った。今日は終業式。明日から夏休みだ。毎年写真を撮る日々が続くが、きっと今年はさらに写真尽くしになるだろう。何せ、見せる相手がいるのだ。それだけで、やる気は何倍にもなる。

 僕は朝食を済ませると家を出た。今日は天気が良い。清々しく終業式を迎えられると言うものだ。学校は昼には終わるし、この天気ならば写真を撮りに出掛けることもできる。良かった。これはチャンスだ。

 ここ一週間、余り天気が安定していなかった。必然、冬美にあげる写真も映せない。晴れの日だけに良い写真が撮れる、と言う訳ではないが、今回、冬美には青空をプレゼントしたかった。いつでも病室で、青空が見られるように……

 是非、午後になっても崩れないで欲しい。

「……いい空」呟く。

 やはり大気の青色と言うものは美しい。もちろん乾燥している冬の季節の方が良く見えるのだが、夏の青空も悪くない。

 空と言うのは、一面が青いわけではないんだ。地平線辺りでは霞んでいるし、太陽の周辺はやや白い。一番青い部分は太陽から離れた高い位置にある。これは空気分子の影響で、見る場所によって視界に入る青の量が違うからだ。

 そしてその空が青いのは、大気があるから、と言う訳ではない。大気の厚さ次第では、一日中、夕方のような空色にもなる。もちろん、月のように大気が無ければ宇宙が透けて見えるために黒になる。地球の青空は偶然の賜物だ。

(カメラ、持って来れば良かったな)

 登下校中には良くこう思う。何せ、自然が創りだす風景は待ってくれない。できれば常に持参したい所だが、学校への持ち込みは当然禁止。見つかって取られたりでもしたら終わりだ。諦めるしかない。僕は下を見て歩いた。

 教室にはすでに沢山の生徒が登校していた。いつもは眠そうな顔が並ぶが、本日は活き活きしている。自分もその仲間だった。きっと気が付けば学校は終わっているだろう。終業式の間は、今日の計画でも立てておこうか。

 担任が入ってくるとホームルームが始まり『夏休みは休むためにあるんじゃない』とか『勉強は朝のうちにしろ』とか聞き飽きたテンションの下がる話を始めた。厚い宿題を配り『達成感を感じろ』とも言っていた。皆が勉強で同様の達成感を得られるのだろうか。写真を撮ることで達成感を感じた、と言ったら教師は褒めてくれるだろうか。

 それから瞬く間に数時間が経った。案の定、無意識のうちに終業式は終わっていた。長い話に疲れきった顔の生徒たちの列が、各々の教室へと流れて行く。

 そんな中で僕は一人、壁を見つめて足を止めていた。早く教室に帰りたい所だが、この場所に来るとつい足を止めてしまうのだ。

 終業式が行われた体育館から自分のクラスへと向かう途中に、額に入れられた写真が飾られている廊下がある。約三十センチ四方の花や風景を撮影した写真だ。誰かの趣味なのだろうか、僕が入学したときは桜の写真が一枚だけだったのに、今見ると向日葵と学校の写真が増えて三枚になっている。

 僕は入学してから何回かこの廊下に足を運んだ。写真の技術もあるし、勉強になったからだ。誰も立ち止まることはないし、写真が飾られていることすら認識している人は少ないだろうが、僕にとっては唯一この学校で好きな場所だと言えた。

 桜の写真には『心咲く春』とタイトルが貼られていた。散り始める前に撮影していて、まだ地面は綺麗だ。これには本当に勇気を貰えるし、名前のセンスも良い。部屋に飾りたいくらいだ。

 新しく増えている向日葵の写真には『一緒に空を』と題名が張られていた。確かに、写真の中の向日葵は上を向いている。向日葵が、一緒に空を見よう、なんて洒落ている。ちなみに、もう一つの写真は風景写真で『また来ます』だった。これは母校だろうか、学校が撮影されている。一枚の写真なのに、立体的に捕えていて上手い。

 また、写真が増えるのが楽しみだ。作者名はないが、何処かのプロの作品だろう。吸収できるだけ吸収しようと思う。

 教室に帰り三十分もすると学校は終わりを迎えた。生徒たちは喜びの声を上げたり、さっそく外へ飛び出して行く人もいる。僕も早く帰らなければならない。自宅にカメラが待っている。

 早足で学校を出ると家へと急ぐ。僕は空を見上げた。太陽、雲、青空…絶好の写真日和だ。今日はうんと素晴らしい写真を撮ってやろう。今回は自分の物じゃないんだし。

 もし、今日、綺麗な写真が撮れたら、冬美に渡しに行こう。写真家を志していると言ったからには、半端な写真は渡せない。……勝負だ。

 僕は自宅に着くと、すぐに支度をして自転車に飛び乗った。グッとペダルを踏み走り出す。

(まず、あの場所へ)

 行き先は決まっていた。それは家から十五分も走ればある公園だ。大きさは学校の校庭程度。世間では『花公園』と呼ばれて親しまれ、住宅街にあるために休日には沢山の家族で賑わう。名前通り、その季節に合った花が日々姿を魅せていた。公園だからベンチもあるし水道もある。疲れたときには良く使わせてもらっていた。

 今日は花公園の花を撮影してスタートにしよう。学校で桜や向日葵の写真を見たら、自分も撮影したくなった。花公園は総合記念病院と同じ方向だし、都合も良い。僕は立ち漕ぎで自転車を走らせた。

 十数分が経ち、僕は公園の入口近くに自転車を停めた。中には沢山の人の姿がある。僕は疲れもなく、さっそく花壇へと向かった。

 サルスベリ、ナデシコ、ペチュニア。夏の花も色々あるが、やはり今日はアレにしよう。僕は向日葵の壇に近付いた。

 距離を取って全体を写し、次に綺麗な奴を選びアップで撮った。

「……よし」写真を見て頷く。

 やはり元気を与えてくれる花だ。この写真は落ち込んだときに眺めれば最適だろう。

 僕は『一緒に空を』のタイトルを思い出した。何気なく空を向日葵と一緒に眺めてみる。たまには花と友達になり、共に空を見上げるのも悪くないかもしれない。きっと、花も空が好きなんだ。だから強く根をはり、空を目指し、上へ上へと背を伸ばす。少しでも近くへ、行くために。

 向日葵と一緒に見上げた空には、ちょうど花の様な形をした雲が流れていた。マーガレット、と言った所か。これは珍しい。僕は迷わずシャッターを切った。きっと、向日葵が教えてくれたのだと思う。

 

 あれから三時間、様々な所を回った。街に行ったり、海の方に行ったり、ときには林の中にも入ったりした。撮った写真は四十枚以上になる。

 僕はコンビニから出て来ると買ったばかりのスポーツドリンクを喉に流し込んだ。そして深く息を吐く。暑い。

 撮影した写真を取り出し一枚一枚確認する。そして頭を掻く。どれも綺麗だけど、まだ納得いかない。一秒でも早く冬美に会いたいのが本心だが、半端な気持ちではあげたくない。

 どんどん時間が過ぎて行く。それは冬美との面会時間が短くなっていると言うことだ。果たして、今日中に会えるだろうか。僕は写真と飲み物をリュックに入れて自転車に乗った。

(一度、花公園に戻ろう)

 気持ちを改めようと思った。根気を必要とする撮影には大事なことだ。

 昼間とは空の表情が変わってきた。現在は四時。確実に暮れてきている。全面が青色を保つのは、あと一時間と言った所だろう。僕は常に上を気にしながら自転車を走らせた。

「あっ」つい声が出た。

 ちょうど、太陽と雲が重なった。太陽の光は雲の背にぶつかり溢れる。

 空の上で、カーテンが揺れた。

「天使のハシゴ」

 雲間から光の筋が地に伸びる。ヨーロッパでは天使のハシゴと呼ばれる『光芒』と言う現象だった。皆、一度は見たことがあるだろう。光の筋が具現化されたように空から差し込む現象だ。

 これを見ると、誰もが幸せな気分になる。青い空から大地に降り注ぐ、太陽の柱。天界と現世を繋ぐ入口とも見える。これを、収めたい。

 すぐにでも撮影しようと僕はカメラを構えた。

「――っ」

 苦い顔でカメラを下ろす。ここは入り組んだ住宅街だ。この場所から撮影しては周囲の家や電信柱が綺麗に入ってしまう。しまった。せっかく絶好の機会だと言うのに。

 キョロキョロと見回す。何処かいい場所があるだろうか。障害物が何も入らない場所。

 何回も見回すが、無い。自転車を飛ばし住宅街を抜けるのも手だが、それには三分は掛かる。そうしたならば空の表情はとっくに変わっているだろう。

(一分と少し)

 雲の大きさと風を読み、光芒の停滞時間を予想した。

 さらに見回す。こうなれば、あの手段しかない。僕は自転車を停めて近くの民家に走った。慌ててベルを鳴らす。運良く、住人はすぐに玄関に顔を出した。このご時世に有り難い。

「すいませんっ、上がりますっ」

 住民が良く分からないまま、目を丸くして小さく頷く。

 住宅街よ、電信柱よ、僕を見くびらないで欲しい。写真家の撮影に対する執念は恐ろしい。近くの住宅を選び、二階に上がらせてもらえば障害物が入らない可能性がある。以前は建設途中の家にだって上がらせて貰ったことがある程だ。

 僕は走って二階に上がり込みベランダに出てシャッターを切った。

 ――撮れた。まだ空は表情を変えていない。

 住民が驚いた顔で僕を眺めているのに気付く。入院している知人に写真をプレゼントしたくて、と慌てて説明する。相手はなんとか納得した様子だ。良かった。綺麗な写真のためとは言え、こんな強引な撮影は控えなければならないと毎回反省する。そのうち警察のお世話になる可能性もある。僕は深々と頭を下げて家を後にした。

 路地に出た所で写真を見つめる。慌てて撮影した割には良く撮れている。……よし、これならば自分でも納得できる。

 僕の視界に写真が映っていたのは数秒のこと。その代わりに映ったのは、満開の笑顔を返す冬美だった。

(よし、行こう)海の方角に視線を向けた。

 総合記念病院に向かう道はいくつかあるが、今日は一番近道を選んだ。早く着くに越したことはない。この現状こそ、一秒でも早く、と言う場面だろう。

 自転車は橋の上を走っていた。向かう途中、海に真近い河川に架かっている。五十メートル程の長さで、連なる白いアーチ状の手摺りに挟まれた綺麗な橋だ。前回は雲を見上げ、彩雲を待ち遠回りをしていたものだから通らなかったのだが、今日は必然的に通過することとなった。見ると、左手に広がる海には所々船が浮かんでいた。港もあることから、この辺りは観光地としても人気があると聞いている。この辺りには僕も何回か写真を撮りに訪れたことがあった。久しぶりに来ると新鮮な感覚を受ける。また、改めて撮影に訪れたい。

 橋を過ぎ数分走ると、もう少しで長い坂が見えてくる。病院に辿り着くために越えねばならない試練でもあった。僕は呼吸を整える。冬美に会える嬉しさからそれ程の疲れはないが、あの坂は長い。途中で息を切らし、歩いて登ることになっては更に面会時間が短くなると言うものだ。グッとハンドルを握り気合いを入れた。

 病院に踏み入るだけで、ここまで緊張したことはなかった。多分、自分が入院して手術をする際の方がもう少し楽だと思う。

 院内の冷房に吹かれ、滲んだ汗は引いている。入口にある時計を見ると五時前だった。これは努力賞だ。坂道で足をついていたら五時を回っていたと思う。

 自分と同様のお見舞い客や仕事後の通院患者もいて、院内は混雑している。冬美の病室は何処だろう。僕は受付に尋ねた。

「あの、北川冬美さんは何号室ですか?」

「北川冬美さんですね」

 職員は愛想良く答えた。慣れた手つきでパソコンを叩く。返事はすぐに返ってきた。

「三階の363号室になります」

 良かった。冬美はまだ退院してない様子だ。早く治って欲しいけど、今回は有り難い。

 冬美は三階。あの休憩室で二度も会ったのだから、それはそうだろう。僕はお礼を告げて階段へと向かった。今日はエレベーターは使わない。だが決して健康などを気にしているわけではない。ここにきて緊張した。すごく緊張した。僕は今、好きな女の子のために写真を撮り、病院まで持って来ているんだ。こんなこと生まれて初めてだ。

 本当に、こんな僕が会いに行ってもいいんだろうか。冬美に彼氏がいないと決まった訳じゃないから、もしかしたら来ているかもしれない。冬美の両親がいても気まずいだろう。そもそも『写真をまたくれる?』なんて本心で言ったのだろうか。冬美の優しさ故、気を使ってくれたのではないだろうか。

 階段を上がる足取りが遅れる。本当に根性がないと思う。しかし、止まる訳にはいかない。この青空を、届けたい。

 三階に着くと、あの休憩室を通り過ぎて歩く。隣を看護師が会釈して通り過ぎて行った。

(……363号室)

 もう、冬美の病室は目の前だった。ここまで来たのだから、覚悟は出来ている。僕は深呼吸をして足を踏み入れた。

 一人部屋だ。奥の窓からは、海が綺麗に見える。左手にはベッド。頭側が左の壁に付けられている。

 女の子が座っている。ベッドにテーブルを設置して、紙に何かを書いていた。一秒が随分長く感じる。緊張でどうにかなりそうだ。顔を上げないで欲しい。

 だが、人が入って来たのだ。こちらを向かないはずはない。

「――え」相手が言った。

 僕は軽く頭を下げた。その女の子は……そう。

「勇樹っ」

 まず驚いたような声が飛んで来る。

「久し、ぶり……冬美」遠慮がちに言う。

「本当に来てくれたの?」

「いや、め、迷惑だった?」

 冬美はぶんぶんと首を振った。「嬉しいっ」目を奪われるような、満開の笑顔が返って来た。

 冬美に促され、僕は病室に用意されているパイプ椅子に腰掛ける。どうやら親族も彼氏も来ていない様子だ。良かった。

「本当に来てくれるなんて思ってなかった」改めて冬美が言った。

「や、約束したからさ」

「あんなの、気を遣ってくれただけだと思ってた。ありがとう……」

「………」

 可愛い。頭の中で描いていたより、何倍も……。こんなに純粋に笑える人間が、一体何人いるだろう。

 それから数分、冬美はお礼の嵐だ。嬉しいとか、そんなレベルの話じゃない。会えただけでも嬉し過ぎるのに。

 来て良かった、本当に。今日は僕の中で大切な記念日になることだろう。

「冬美、これ。まだまだ、実力不足なんだけど」

 僕は住宅街で降り注いだ光の筋『光芒』が収まる写真を差し出した。気に入ってくれればいいけど。

 冬美が手に取り覗き込むと、鼓動が高鳴った。

「……綺麗」

 という声を聞いた。まだ視線は落としたまま。表情の反応を待っていた僕には、少し戸惑う空間だった。冬美は笑わなかった。いや、笑わなかった、のではなく。

「綺麗」という声をもう一度聞いた。

 冬美が顔を上げたのは、その後。冬美の左目から、すっと雫が流れた。涙だった。

「ど、どうして泣くの? ごめん、僕っ」

「違うの」冬美は首を振った。「綺麗な空見たら、感動しちゃって」

 そう言って再び写真に視線を落とし、目を擦る。……どんな仕草でも可愛い。

「そうだっ」

 冬美はベットの横に備え付けられている棚に手を伸ばし、青い球体から針が突き出したピンを取り出した。それを使い頭側の白い壁に写真を貼付ける。

 その壁を見て驚く。貼られているのは二枚。今日撮影した写真と、もう一枚は前回あげた彩雲の写真。

 ……貼っていてくれたんだ。

「こうすれば、いつでも綺麗な空が見られるよね」

 僕こそが願っていたことを口にする。そう考えてくれたのならば、有り難い。

 この気持ちは、何だろう。この笑顔を与えているのが、僕の写真だと言うのか? 初めての感覚を受ける。今までは自分だけが見つめていた物を、他人が見つめている。そして笑っている。この変化は、僕にとって奇跡的な価値がある。どれだけ気持ちが楽になることか。

「冬美、ありがとう」心の中で言うつもりが、声になった。

「そんな。お礼は私が言わなきゃ」

「ううん。僕の写真を貰って喜んでくれたの、冬美が初めてだよ」

「えー? そんなの嘘だよ。こんな綺麗な写真、みんな喜ぶよ」

「ありがとう。でも、本当に嘘じゃなくて……」

「じゃあ……えっと、じゃあさ」冬美は言い辛そうに言った。「勇樹が撮った写真、これからも私に、くれる?」

「え?」

「だ、駄目?」

「う、ううんっ、あげるよっ」

「やったあっ、ありがとう勇樹っ」

 あの笑顔が、また見れた。

「あ、冬美。写真あげたいけど、まだ暫く入院してるの?」

「えと、うん。もうしばらく」

「そうなんだ」

「この病室は変わらないと思うから」

「だったら写真、持って来れるけど、大丈夫なの? 足、心配だよ」

「骨を少し痛めただけだし、平気なの」

「それならいいんだけど」

「勇樹、優しいね」

「え? い、いやっ」

 少し暗かった冬美が笑顔を作ったのは嬉しかったが、僕は照れてしまい顔をそらした。冬美の不幸をまさか喜べるはずはないが、これからも病院に来れば会える、という点だけは嬉しく思ったのを覚えている。

「失礼します」

 この声に振り向く。病室の入口から看護師が顔を出していた。まだ若い、女性の看護師だ。

「沙織さんっ」冬美が明るい声を発した。

「お邪魔でした?」

 看護師は陽気にそう言って病室に入って来る。冬美は首を振った。相手に会釈をされて僕も頭を下げる。

「いよいよ冬美ちゃんにも彼氏が出来たかー」

 沙織という看護師は冬美に体温計を差し出しながら言った。本当に彼氏ならばいいものだが。

「もおっ、違うよっ」冬美は看護師の腕を叩いた。

 たしかに、それが現実。

「ごめんごめん。この前話してた写真の人でしょ?」

「う、うん」

 写真の人? 冬美が僕の話をしてくれたと言うのか?

 看護師はにこやかに笑い、僕を見た。

「初めまして。私は沙織。冬美ちゃんの担当してます」

「あ、はい。勇樹です」慌てて答えた。

「すごく優しい、病院代表の美人看護師です」これは冬美が言った。

 ショートヘアーに整った顔立ち。たしかに美人ではある。

「えらい。今日の注射、一本増やしてあげる」

 沙織さんはにこにこしながら人差し指を立てた。

「え、じゃあ撤回っ」

「二本増やしてあげる」

 冬美と沙織さんは友達同士のように笑い合う。それを見て、良い病院だな、と微笑ましく思った。総合記念病院の評判がこの辺りで良い理由が分かる。昔、僕が深夜に高熱を出して訪れた際にも、看護師さんが優しく対応してくれたのを覚えている。そう言えば、『患者は病人ではなく人である』とスローガンが書かれたボードが一階の受付に貼ってあった。温かい人の心が感じられる良い志しだ。この病院にならば入院してみたいと思う。できれば今すぐ、それも三階に……

「よし。熱は大丈夫だね」

 沙織さんは冬美が返した体温計を見て言った。話によれば、もうじき夕食らしい。確かに廊下が騒がしくなっている。もう五時半、それはそうだろう。

「あのさ沙織さん。夕食が済んだら、行ってもいい?」冬美が両手を合わせて言った。

「え? 上? いまから?」

「うんっ」

「んー、体調も安定してるし、大丈夫だと思うけど」

「本当?」

「どちらにしても主治医の先生に許可貰わなきゃいけないから、聞いてみるね」

 沙織さんは手元の紙に体温を記しながらいった。一体、上、とは何処だろうか、屋上? 僕は首を捻る。

「勇樹」と冬美が言った。「まだ時間大丈夫?」

「僕は平気だけど」

「じゃあさ。散歩、付き合って貰えないかな?」

「もちろん、それはいいけど」

「本当? じゃあ夕食、急いで食べるから」

「いや、急がなくても……」

「大丈夫、早食い得意なの」

 だーめ、と冬美は沙織さんからデコピンされていて可愛かった。

 そのあと病室の前が騒がしくなり、外には数々の食事を乗せたコンテナの姿が確認できた。

「じゃあ、六時にまた」

 僕は一応気を利かせ、場所を移ろうと思った。食事中、部屋にいられては気まずいだろう。

 冬美が頷くと廊下を歩いた。待つ場所と言ったら休憩室しかなく、真っ直ぐに向かい身を入れる。自動販売機へと近づき、まずコーラを買った。一口飲んだ後で窓際へと歩く。外を見ると、病院へ来たときとはだいぶ空気の色合いが変わってきていた。時期に、暮れるだろう。

 まだセミが鳴いている。僕に、頑張ったな、と言ってくれてるのかもしれない。病室では常に緊張していたものだから、今さらホッと息を吐いた。本当に、僕がよくも病院まで来られたものだ。

(写真、喜んでくれて良かった)これも今さら思った。

 それにしても、今から散歩とは何処だろうか。この病院の屋上に出られた記憶はない。上階に夕涼みで和める場所でもあると言うのか。まあ、何にせよ冬美と一緒にいられるなら構わない。改めて考えると、現実かどうか疑わしいくらいに幸せな展開である。一息ついた所で、また心が揺れだした。

 窓際から動かないまま三十分が過ぎた。気がつけば、柑橘系を思わせる色合いが上空の青に少しずつ混ざり始めていた。

 風景と言うのは認識できない程に、ゆっくり変化する。ふと気が付けばまったく違う視界を眺めているが、数十分前からの変化は思い出してから気付くことが多い。野外で何かに夢中であれば、視界が闇夜で遮られるまで気付かないこともある。今もそうだが、指を鳴らせば陽が暮れてしまう手品に遭遇した気分に陥ってしまう。

「………」時計を見た。

 三階の廊下からコンテナの走る騒音もなくなっている。六時十五分だった。気がつけば六時を過ぎている。冬美の病室に行かなくてはならない。

 休憩室にはいつの間にか数人が座っていた。無心で外を眺める僕を不思議に思ったかもしれない。僕はぬるくなったコーラを飲み干し、缶を捨てると扉へ歩いた。

「いたいたっ」

 休憩室へと入ってきた冬美に指をさして言われた。車椅子を沙織さんが押している。どうやら主治医からの許可は取れた様子だ。

「良かった。帰っちゃったかと思った」胸に手を当てて冬美が言った。

「ごめん。今、行く所だったんだけど」

「無理、させてないよね?」

「ううん、全然」

「ならいいけど……」

 心配そうな顔つきを返されるが、無理などしているはずはない。望んでいるのは僕の方だ。

「冬美ちゃんの車椅子、押してあげてね」

 沙織さんは冬美が乗る車椅子のグリップを指さして言った。

「え? はい。でも、どこへ?」

「外っ」これは冬美が言った。

「いってらっしゃい」沙織さんが続いた。

 ここは三階なので、外ならば上ではなく下だと思うのだが、本当に何処へ行くのか。だがまあ、外に出てみれば分かるのだろう。僕は冬美の車椅子の後ろに回った。

「多分、押すの下手だと思うけど」動かす前に言った。

「いいの」冬美は首を振ると「ごめんね」と手を合わせた。

 エレベータに乗り込み、一階へと降りると外を目指す。出ると、橙色へと近づく空が頭上一杯に広がった。


  5


「やっぱり外はいいな」

 冬美が両手を上に伸ばして言った。確かに、病室よりは心地が良いだろう。天井がないだけでも相当違うと思う。

「何処に行くの?」車椅子を停止させて聞く。

 冬美は見上げて上を指さした。僕はその指に従い見上げた。なるほど、上、か。

 この病院は長い坂を上った場所にある。しかし、坂の終点がこの病院、と言うわけではない。病院までの道ほど綺麗に塗装されてはいないが、まだ坂は上へと続いているんだ。冬美が指をさすのは、その坂の上だった。空気も良いし解放的、最適な散歩コースだ。

 坂を上り始める。ちょっとしたことでも気遣う冬美が、車椅子を押してと頼むので不思議に思っていたが、確かにこの坂道を一人で上るのは大変そうだ。病院までの坂ほど急なわけではないが、滑り落ちでもしたら大変だろう。

「何かあるの?」後ろから尋ねる。

「うんっ、すごく景色が良い所」

「景色?」

 写真家を目指す僕にとっては嬉しい言葉だ。病院から眺める風景も決して悪くない。それなのにわざわざ上を目指すと言うことは、それ以上、という期待が得られる。さらに冬美と見られるとなれば疲れ知らずの僕。坂道を強く踏み進む。

「そこには、よく行くの?」再び尋ねる。

「たまに、ね。一人じゃ行けないから、たまに。いつもはお母さんとか、沙織さんに押してもらうんだ」

「そっか」

 彼氏、と言う言葉が出てこなかったのでほっとしてみる。僕で良かったらいつでも連れて行くよ、と言いたい所だが。そんなことを言えるはずがない。

「あ、変な形の雲っ」冬美が空を指さして言った。

 竜が吐き出す炎、という比喩ができそうな雲が浮いていた。

「巻雲だね」

「けんうん?」

「そう。風の影響であんな形になるんだ。日本ならもっとも高い位置に発生する雲だね」

「へえ。じゃあ、あれは?」

「レンズ雲。形がレンズみたいでしょ?」

「うんうんっ。勇樹、なんでも知ってるんだねっ」振り向いて笑った。

 僕の知識で笑顔を作ってくれるなら、いくらでも話したいと思った。

 坂道が少しずつ細くなってくる。沢山の木々に囲まれ、ここからでは海も見えない。近くで低い声で鳴く鳥が飛び立った。

 あれから十五分が過ぎた空は、もう夕暮れだ。徐々に坂が緩やかになってくる。冬美が「あと少し」と言った。

 古ぼけたセメント質の地面が終わると、緑色の芝へと変わる。少々車椅子が重くなったが、弱音は吐けない。一歩一歩、強く地面を踏む。もう坂道は終わり、平になっている。

「――っ」目を閉じた。

 前方から光が飛び込んできたのだ。少しだけ目を開く。

「勇樹っ着いたよっ、先まで行こうっ」

 眩しい視界の中から冬美の声が聞こえた。僕は頷いた。

 そう、これが君と初めて来た、あの場所。感情ではなく、君と一緒にいた、ってことを何より覚えている。

 僕は手で光を遮りながら、辺りを見た。一帯は芝の生えた広場のようになっていて、さっきまで覆っていた木々たちも背後で終わっている。周囲はスッキリ見渡せる環境と広さだ。

 そして。正面の光の主を確認する。

 ――素晴らしい。

 神々しい夕日が浮かび。下には輝く海の絨毯。快晴ではなく雲が浮んでいるものの、上手くバランスがとれ逆に美しい。

 一番先は崖になっていて危ないが、ギリギリまで歩いた。そうすることでさらに伝わる、この壮大さ。病院から下る際に見える夕日も綺麗だと感じたが、これを見てしまうとまるで質が違う。この光は、緋色? いや、この夕日は、まさに金色だ。貴族が贅沢にも金棒を溶かし、それを絵の具替わりに使って画家に描かせたならば、この絵になるに違いない。

 僕の思考は壮絶な早さで脳を回っていた。色々と考えた時間は、多分一秒程の間だ。二秒が経った今、僕はカメラを構え。三秒が過ぎるとシャッターを切っていた。何も難しいことは考えていない。無心で、本能で、この瞬間が必要だと悟ったのだ。

「綺麗でしょ?」

 横から聞こえた。この数秒は冬美がいることも忘れてたいたから、声に少し驚いた。それくらい、景色に夢中になれる空間だった。

「すごく」と返事をした。

「沙織さんに教えてもらったんだ。とっても、大事な場所なの」

 冬美は一度そっと目を閉じる。初めて来た日を思い出しているような、そんな感じだった。これだけ綺麗な場所なのだから、個々の思い入れがあってもおかしくない。連れて来てもらえて、本当に良かった。

「冬美、ありがとう。こんなに綺麗な夕日、初めて見たよ」心から言う。

「ありがとう? それは私のセリフ。写真のお礼がしたかったんだから」

「そんな、僕は何も」

「もう。お礼くらいさせてよ」

 車椅子から上目使いの冬美。このときに僕が目を反らしたのは、そんな君が眩しくて見ていられなかったのと、もう一度、君とこの場所に来るための言葉を探したからだった。

「僕で良かったら、また車椅子押すからさ。ほら、沙織さんとか親が忙しいときとかさ。そしたらここ、来れるでしょ?」

 先ほど言えなかった言葉を口にできた。夕日に勇気を貰えたのかもしれない。

「え? そんなこと、頼めないよ……」

「いいって。僕だって、また来たい場所だし」

 また君と来たい……この一心で言っていた気がする。写真を持って来る際の楽しみも増えるし、口実にもなる。冬美に会えないなんて、僕の方こそ入院してしまいそうだ。

「………」冬美から返事はなかった。黙って夕日を見つめている。

「ふ、冬美?」やはり、僕と来たいはずなどなかったか?

「ねえ勇樹」

「なに?」

「今日は、どうして来てくれたの?」

「え?」ストレートな質問にたじろぐ。

「どうして、会いに来てくれたの?」

「どうしてって」それは、君のことが……

「勇樹?」

「いや、写真あげるって約束してたしさ」……まさか言えるはずがない。

「……そうだよね」

「うん。どうかしたの?」

「なんでもない。でも、どうして私なんかのために来てくれたのかなって」

「………」

 私なんかのため? 違う。冬美だから会いに来た。言えるものなら、大声で言ってやりたかった。

「夕日は、どうしてオレンジ色に見えるの?」夕日を見つめながら冬美が訊いてきた。

「それは大気のせい。夕暮れ時は地面に対して鋭角に光が差し込むから、必然的に光は大気の中を通過する時間が増える。その過程で青色が散らばって赤色だけが残るんだ。その赤色は上空の塵や雲なんかにも当たるから、太陽だけじゃなくて空一面が夕焼け色になる」

「塵? 空気中の?」

「うん」

「じゃあ、空気中の塵が少しもないくらい綺麗になったら?」

「もちろん、夕焼けが淡くなる。空気のゴミは問題だけど、夕焼けの色を助ける効果もあるから複雑な話だよね」

「……そうなんだ。確かに、複雑だね」

 少しの間、沈黙が走る。金色から燃えさかる赤に変色した夕日が、少しずつ海へ下がって行くのが分かる。あと三十分もすれば、輝くマグマの様な水面に沈んでしまうことだろう。

「勇樹は本当に空が……写真が、好きなんだね」

 この空間に気を利かせてくれたのか、冬美が言った。

「うんっ」これには大きく頷く。

「だってさっき写真撮ったとき、本当にいい顔してたもん」

「そ、そう?」

「うん。かっこよかった」

「ん?」

「あ、ごめん。気にしないで」

「……うん」気にします。

「でも、夢がある人は本当にかっこいいと思うの」

「ああ……」そう言う意味か。だが、どちらにしても嬉しい言葉。

「写真家かあ。すごいなあ」冬美はしみじみ言った。

「そんな。すごいなんて」

「すごいよ。自分でやりたいこと見つけて、努力して」

 嬉しい。嬉しいけど、僕は小さく息を吐いた。

「親には、反対されてるんだ。写真家になるなんて、無理だって」視線を落とす。

「反対? 無理?」

 親の声が頭の中に聞こえてくる。意味のない娯楽だと、罵ってくる。

「写真を喜んでくれたの、本当に冬美が初めてなんだ。本当に。親には馬鹿にされてる」

「……そうなの?」

「うん。でも確かにそうだよね。写真家とか、馬鹿みたいだよね」

 自分で口にはしたくないが、一般的な意見だ。冬美はその優しさ故に励ましてくれるが、きっと僕が公務員を目指すと言った方が褒めてくれるに違いない。

「そうかも。馬鹿かも」冬美が言った。

 心がチクリとする。「だよね……」

「無理って言われるような夢を持つ、馬鹿がつくほど、勇気がある人」

「え?」

「勇樹のご両親も、昔は夢があったはずなのにね。それを見失って、いつの間にか『楽』と『楽しい』を同じものだと勘違いして、夢を持つ人が眩しくて仕方なくなって、その光を消してやりたくなる。自分の意見こそが一番だって強制したくなる。……でも夢を持つ本人が、一番考えているんだよね。大体『難しいから諦めろ』なんて考えを大人が覚えさせたら駄目だよ」

「冬美……」

「なんてね、沙織さんからの受け売りなんだ。それにごめんっ、勇樹のご両親を馬鹿にしてるんじゃないんだよ?」

「あ、大丈夫。わかってる」心から。

 沙織さんも、大人なのに人間味がある考え方をするものだ。看護師を目指すにあたって反対でもされたのだろうか? 何にせよ、そんな大人に出会うと嬉しく思う。

「でも、勇樹は諦めないよね?」心配そうに問う。

「うん」言うまでもない。

「じゃあ、私がファン一号でもいいかな?」

「も、もちろんっ」

「あははっ、やったあ。私が世界のみんなに教えてあげなきゃね。勇樹の写真の素晴らしさ。本当に、綺麗だもん」

「………」

 冬美、ありがとう。

「あっそうだ」そろそろ海に浸かりだす夕日見て冬美が言った。「手紙送らなきゃっ」

「手紙?」

「うん」

「誰に?」

「お父さんっ」笑顔で答えた。

「あ、そうなんだ。じゃあ早いうちに病院に戻らないとね」

「ここでいいの」笑顔を崩さずに首を振る。

「ここでいいって?」

 当然、理解できるはずがなく首を傾げる。そんな僕の様子を見て冬美は言った。

「私ね、お父さんの顔、見たことないの」

「え?」

 父親を知らない?

「私が生まれてから、すぐ死んじゃったんだって」

「そう、なの?」

「あはは、いきなりゴメンね。不幸自慢だと思ってくれていいから」

「あ、いや」まさか、そんな風には思えない。

「すごく優しいお父さんだったって、お母さん言ってた」

「………」冬美のような子供が生まれるならば、それはそうだろう。

「私ね、信じてるんだ。こんなに高い所から手紙を送れば絶対に天国に届くって」

 冬美はそう言うと患者服のポケットから一枚の紙を取り出した。それを慣れた手つきで折っていく。完成には三十秒も掛からなかった。目にしたそれは。

「紙ヒコーキ?」

「うんっ、私が書いた手紙で作ってるんだ……それっ」

 手紙で折られた紙ヒコーキは空を舞った。

 夕日へ向かって。一直線に突き進むその姿……

 僕たちは、その素晴らしくもどこか寂しい目の前の風景を見つめた。

 冬美がこの場所に時々来る理由。それは、この素晴らしい風景を見るためだけじゃなくて。手紙を書いた紙で作った紙ヒコーキを、会ったことのない父親宛てに飛ばしていたんだ。

 そろそろ見えなくなる紙ヒコーキ。共に沈黙が続いていた。その間、僕は何を考えただろう? 次に何て声をかければいいかとか、あの手紙はどんな内容だったのかな、とか。そんな感じだったのだと思う。

 でも、実はそんなの一割の話で。

 君は笑顔の裏に本当はすごい寂しさを抱えている気がして酷く辛くて、ただその笑顔に癒され、助けられているだけの自分が、酷く嫌で情けなくて。……そして。

「つまらない話、聞いてくれてありがとう。また来ようねっ」

 こんな僕に、やはり笑顔を作ってくれる君を、愛しく思った。

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