第11話 最近親友がウザいと愚痴る愛華さんと一緒 その1

『最近あおいがウザいのよ』


 アルコール交じりの吐息とともに、テーブルの向かい側に座っている女性が吐き捨てた。

 深みのある茶色の髪を緩く波打たせ、大人びた雰囲気をまとっている女性だ。

小岩井 愛華こいわい まなか』というその女性は、今やれんの妻である『古谷 葵ふるや あおい』にとって幼馴染であり無二の親友でもあった。

 彼女が口にする『葵』とは、その葵に他ならない。

 磨き上げられてはいるが、派手さはないネイルの手には大きな――とても大きなジョッキが握られている。中は空っぽだが、つい先ほどまでは黄金色の液体が溢れんばかりに輝いていた。

 落ち着いた色合いの唇の周りには白い泡が残っている。

 つまるところ、愛華はビールを干した直後だった。


 ここは蓮の地元の駅前、とある居酒屋の奥まった席。

 平日とは言え宵の口、店内には多くの客の姿があり、それなりに喧騒もある。

 密談するにはちょうどいいロケーションだ。

 ふたりは葵に隠れて、ここでしばしば顔を会わせている。

 彼らが人目を意識した席を選んでいるのは、浮気が云々などとインモラルな関係にあるから……などと言う爛れた理由ではないが、ふたりが交わしている会話は他人に聞かれたくない話題ではあった。

 高校三年生の同窓会の夜のこと。

 しこたまに酔わされた蓮と葵は、どこぞの誰かの手引きによって結婚させられた。

 幸いなことに、ふたりは現在良好な夫婦関係を築くことができている。

 過ぎた過去より未来を見据えようと語り合い、この件の犯人捜しはしないと決めた。

 ――しかし、その裏側で蓮は葵の親友である愛華を巻き込んで犯人を捜している。

 葵の前向きな考え方は尊いと認める反面、あくまで現実的な脅威となりうる存在である『犯人』を特定し、これに備えることもまた必要であると考えているから。

 この点において蓮と愛華は意見を一にしている。

『犯人』の目星が付くまで、葵には黙っておくことも同じだ。

 そうしてふたりは葵の目を盗んで『犯人』を捜しつつ、定期的に情報交換を行っている。

 ……まぁ、『犯人』の話題だけだと陰気に過ぎるし疲れるし、顔を突き合わせるだけで煩わしいことは確かなので、お互いの近況を語り合ったりもする。

 蓮は愛華の私生活には興味はない。

 愛華だって蓮自身には興味はない。

 ふたりにとって共通の話題、それは葵であった。

 蓮は大学に通っている妻の日常を知りたい。

 愛華は差し障りがない程度には親友の新婚生活を知りたい。

 お互いの利害は、ここでも一致していた。


「ウザいって……喧嘩でもしたの?」


 枝豆を口に運びながら蓮は続きを促した。

 目の前のコップにはウーロン茶がなみなみと注がれている。

 同窓会の一件は結果として望ましい展開を迎えたとはいえ、基本的には酒による失敗であることは認めざるを得ず、あの日を境に蓮は外で酒を口にすることを自らに禁じている。

 ジョッキを掲げて店員にお替りを頼む愛華に、思わず眉を顰めた。

 そんな蓮に向けられる愛華の眉も、不快げに顰められている。


「アンタたちと違って、自分の酒量くらい弁えてるから」


 そう嘯く彼女もまた蓮の同級生であり、二十歳であることに違いはない。

 夏の訪れを待つこの時期までの間に、弁えるほど酒を飲む機会があったのだろうか。

 あまり深く追求するとロクでもない方向に話がズレていきそうだったので、考えることを止めた。


「で、葵がウザいんだけど」


「親友だよね?」


「幼馴染であろうとも、親友であろうともウザいものはウザいわけ」


 蓮は大学生活を知らない。

 高校卒業後、大学に進学することなく即座に今の職場に就職したからだ。

 脳内に思い描かれる華やかで浮ついたキャンパスライフは、世間で謳われるような偏見混じりなものにならざるを得ず、その妄想の中で親友同士である(はずの)葵と愛華が裏で互いを罵りあっているなんて、考えるだけでもウンザリせざるを得ない。


「勘違いしないでほしいんだけど、別に仲が悪いわけじゃないから。ただ、ちょっとイラつくだけ」


「はぁ……まぁ、そういうことはあるかもね」


 賛同しているのか否か、自分でもよくわからない相槌を打っていた。

 交友関係が広いとは言えない蓮であっても、想像することぐらいはできる。

 例えば実の両親。どこにでもいそうな普通の父親と母親だし、当然と言うべきか仲は良い。

 そんなふたりでも、ふいに愚痴をぶつけあう程度のことなら何度でもあった。

 どんなに仲が良かろうとも、あらゆる局面において完全に意思の統一が図られるはずもなく、何らかの形で揉めることはあるだろう。

 それは決して珍しいことではない。

 行き過ぎて、すれ違って、破綻しなければ問題はない……そんな気がした。

 法的にはすでに結婚しているにもかかわらず、いつまでたっても夫婦の距離感とか価値観とか、その手の話題はいまいちピンとこない。


「それで、僕は『どうして?』って聞けばいいわけ?」


「話が早いわね。ちなみに原因はアンタ」


「僕?」


 冗談めかして尋ねてみれば即答された。

 しかも原因は自分にあるときた。

 全く身に覚えがない。

 そもそも愛華と蓮は別に親しくないし、親友同士のいさかいの種になるとは想定外にも程がある。


「ほかの連中が傍にいるときはいいのよ。葵は私以外の人間にアンタとの関係を話してないから」


「それはそうだろうね」


『実は私、もう結婚してるんだ』なんて吹聴して回る葵の姿は想像できない。

 表向きは依然と変わらないように努めているとは、本人の口からも聞かされている。

 ……本人以外の口からは一切聞こえてこないので、現実がどのようになっているかは窺い知れなかったのだが、愛華の口ぶりから推測する限りでは概ね上手く行っているようだ。話の筋からは逸れているだろうが、ちょっとホッとした。


「だからかしら……私とふたりっきりになると、あの子ってアンタの話ばっかりするわけ」


「それは……そうなんだ。ちなみにどんな感じって聞く流れ?」


 ここまでの話の流れと愛華の表情を見れば、あまり愉快な話題ではないのだろう。

 しかし、目の前の女性は同窓会から始まる一連のトラブルにおける蓮の数少ない協力者である。友好的である必要は感じていないが、良好な関係を構築しておく必要は感じている。蓮の目が届かないところ――主に大学――において、葵を見守ってくれるよう頼んでいることもあり、ガス抜き程度の愚痴を聞くぐらいは構うまいと己に言い聞かせた。


「また勘違いしてると思うけど、別に葵はアンタのこと悪く言ってはいないから。むしろ良く言いすぎるからウザいわけ」


 呆れた声。

 深いため息。

 眉間に刻まれた皺。

 相当参っていることが窺えた。

 曰く、


『パソコンに向かっている蓮の横顔がカッコいい』


『何を作っても美味しいと喜んでくれる蓮がカワイイ』


『風呂上がりの蓮は色気があって困る』


『バカなことをした私を諭してくれる蓮は優しい』


『寝顔を見てるだけで幸せ過ぎる』


 などなど……

 

「うわぁ」


 変な声が口の端から漏れた。

『どこの誰だよ、それ!』と当の本人をしてツッコまざるを得ない。

 聞いているだけで鳥肌が立ってくるほどの圧倒的べた褒めの嵐。

 親友である愛華に語っているところから本心であることは疑いなく、その事実はとても嬉しいのだが……一方で聞かされる方としては堪らないだろうなと同情の念が湧く。


「ま、そんな調子で何かにつけてアンタの話ばっかりしてくるわけ。乙女かっつーの」


「葵さんが乙女なのは間違っていないのでは?」


「そりゃそうだけど……正直、私はアンタがそこまでの人間だとは思わない」


「率直に言って、僕も自分がそこまで褒められる人間だとは思わないな」


『そうよね』と愛華は頷いて、再びビールを呷った。

 ノータイムで同意されても腹は立たない。

 極端に自己評価が低いとは思っていない。

 客観的に見て、周囲と見比べてみればわかる。

『古谷 蓮』はどこにでもいる平凡な男だ。

 本来ならば『新堂 葵しんどう あおい』と結婚してしまうなんて想像することすらおこがましい。

 しかし、現実にふたりは結婚していて、今のところは円満であるのだから世の中というものはつくづくわけがわからない。


 三杯目のビールとともに料理がテーブルに並ぶ。

 ウーロン茶を持て余していた蓮の箸が伸び、愛華も続く。

 華やかな雰囲気とは裏腹に、愛華はなかなかの健啖家だった。

 みるみる間に料理は姿を消し、さらに追加で注文を飛ばす。

 愛華はさらにビールを頼んだ。

 四杯目。

 かなりハイペースに見えるが、酔っている様子はない。

 己の酒量を弁えているという言葉に嘘はなさそうだった。酒豪か。


「こんなことアンタに聞かせてどうなるってわけじゃないけど……私、これまでに何回か葵に男を紹介したことがあるわけ」


「へぇ、それは初耳」


 その言葉は完全な不意打ちであり、まったくの本音だった。

 葵からも、そんな話は聞いたことがない。

『アプローチをかけられたことはあるが、気が乗らなかった』

 それが妻の見解だったはずだし、疑いを持ったことはなかった。

 だから……蓮は平静を装いながらも、続く言葉に耳をそばだてずにはいられなかった。

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