第10話 わからないけど!
『うん。恋をするとか、しないとか……そんなに重要じゃないような気がする』
唐突な
『恋をできない。誰かを好きになれない』は、永らく彼女を苛んでいたコンプレックスだったはずなのに。
アクシデントじみた結婚を前向きに考えたり、非常識な行動で蓮を驚かせたりするほどには、葵の胸中に深く重く沈み込んでいた苦しみのはずなのに。
それをあっさり前言を翻すようなことを言われても……蓮としては戸惑わされるだけで、どう答えればいいか、とっさに判断できなかった。
「葵さん?」
「どうした、蓮。そんな変な顔をして」
きょとんとした顔でそんなことを言われても困る。
あと『変な顔』もやめて欲しい。
真面目な顔をしているはずなのに。
「いや、えっと……葵さん、大丈夫なの?」
「何が?」
「だから恋愛しないとか」
「うん、それなぁ……こうして蓮と結婚して週末だけとは言え一緒に暮らしていて、今の私はとても満たされている。あんなに悩んでいたのが嘘のように、な」
ほんのりと笑みすら浮かべる顔に偽りはなさそうで、だからと言って素直に頷けない。
葵は自分と関わりの薄い人間との間には線を引いて距離を保つところがあるが、蓮のように親しい(そう思ってくれていると信じている)人間に対しては、どこかしら遠慮したり身を引いたりしてしまうところがある。傍からはどちらも同じように見えるのだが、ちょっと違う。
彼女の唇から零れる言葉が、そのまま彼女の本音を顕しているとは限らない。
だから――蓮はじっと葵を観察する。その心の内側を見通したいと思いながら。
「本当に、もう恋する気はない? 必要ない?」
「……ないとは言えない。それほど重要ではないというだけで」
恋をしなくとも幸せになれる。
誰かの策略から始まった結婚でも、それは変わらない。
だったら別に恋に拘らなくてもいいのではないか。
葵はゆっくりと言葉を紡いだ。
――葵さん、そういうところあるよな。
今回の件については、思い悩む蓮を気遣っての言葉のようだ。
嘘をついている様子はないが、本音はきっと別の場所にある。
確信は持てないが……いや、この見極めには自信があった。
「だったら、いいか」
「うん、だから……」
「葵さんが恋をしたくないわけじゃないんなら、これまでどおりで」
「蓮? 私は別に」
訝しげに眉を寄せる葵に問いを重ねる。
その瞳が、ほんの一瞬だけ輝きを帯びたところを見逃さなかった。
光の理由は、きっと期待だったように思えた。
「恋に興味がなくなったわけじゃないんでしょ?」
「それは、まぁ……したくないわけじゃないし、憧れがないわけでもない」
「だったら僕はこれまでどおり、いや、これまで以上に頑張って葵さんを惚れさせるってことで、何の問題もないね」
惚れさせることに拘っていた。
どうすれば惚れさせることができるか、まるで見通しが立たなかった。
だから、葵の言葉を受けいれてしまえば、ふたりは夫婦として更にステップアップすることができるはずなのに……蓮は妻の言葉を受け入れなかった。
馬鹿なことを口にしている自覚はあったが、葵の中には恋に憧れる気持ちが残っている。
その気持ちを大切にしたいと思った。
彼女のために全力を尽くすのが夫としての自分の務めではないかと思った。
本当に、バカなことを口にしている自覚はあった。
今だってワイシャツ素足な葵にドキドキしていて、目のやり場に困っていて、ついでにベッドをチラ見しているくせに。
完全にただの見栄っ張りだ。
「蓮、どうしてそこまで拘るんだ?」
「そりゃ拘りもするよ。だって葵さんに喜んでもらいたいし」
「いや、でも、それは……」
「それに……僕には他にしてあげられそうなことが思いつかないしね」
自嘲な笑みも自虐的な言葉も好きではないが、事実は事実として受け入れなければならない。
『
葵が――世の女性が求めているようなものは、何も持っていない。
そんな自分と結婚してくれたのが、よりにもよって憧れで初恋の葵(旧姓:
そう、妥協だ。
「幸せって、妥協するものじゃないと思う。葵さんはもっともっとわがままになっていいと思う。僕がそれを叶えてあげられるかどうかはわからないし、自信もないけど……まぁ、やるだけのことはやってみたいな、と。結婚してから大して時間が経ったわけでもないしね」
完全に僕のわがままだけど。
そう付け加えるや否や、全身に暖かくて柔らかい衝撃に襲われて、押し倒された。
『何事!?』なんて驚くことはなかった。妻に抱き付かれただけである。
「あ、葵さん!?」
カーペットが敷かれているとは言え……とてもではないが落ち着いてなどいられない。
葵が上から覆いかぶさっていることもさることながら、今の彼女はワイシャツ一枚。薄手の生地越しに柔らかい肌も、温かな体温もしっかり感じ取れてしまう。
耳に、頬に吐息を感じる。
いつかの再現に近いシチュエーションは、問答無用に蓮の男を刺激する。
「蓮は……すぐにそういうことを言う。サラッと言う」
「いや、僕は別に……」
「私がどれだけドキドキしているか、全然わかっていないだろう?」
責めるような口調に押され、密着している葵の心音を感じようとはしたものの、ふたりの間には大きな隔たりがあった。薄いワイシャツなどではなく、ボリュームがあって柔らかすぎる脂肪。決して太ってなどいない葵が有する巨大な脂肪が。脂肪と呼ぶには失礼にあたるアレが。
容赦なく蓮の理性をゴリゴリと削ってくる生唾モノの誘惑のせいで、葵のドキドキなんて全然わからない。自分のドキドキはわかりすぎてヤバい。
「葵さん、その……」
『お願いだからちょっと離れて』と付け加えたかったのに、ギュッと一層強く抱きしめられる。完全に逆方向に事態が進んでしまっていて、かつて泣き濡れていた葵に誓った言葉が脳内で崩壊を始めかけている。
――いや、これはもう拷問だろ……
そこで完全に欲望に身を委ねることができないところが『古谷 蓮』の『古谷 蓮』たる所以であり、葵がやきもきしているところでもある。
過剰評価も過ぎると困るというのが蓮の本音であるのだが、葵は一向に聞き入れてくれない。蓮は仙人でもなければ聖人でもない。れっきとした二十歳の男であり、理性も性癖も一般人のそれと大差ない。というか、どこにでもいるただの男である。いくら夫婦とは言え、これはちょっと……
――いや、夫婦だったらこれくらい普通なのか?
ふと、疑問が脳裏によぎった。
蓮がよく知る夫婦と言えば、これは実の両親であった。
父と母は確かに仲が良かったように見えたが、ここまでベタベタしていた記憶はない。
あのふたりも、自分たちが目にしていないところで色々やっていたのだろうか?
そんな疑問が浮かび上がってきたが、それどころではなかった。
唐突に見せる葵のスキンシップは、もはやベタベタなんて表現が許される領域ではない。
「蓮……」
切なげな湿り気を帯びた声。
耳朶をくすぐる吐息。
ひとつひとつの所作が蓮の思考を寸断してくる。
ワザとやっているのかと疑いたくなるが、葵は搦め手を使うタイプではない。
これはきっと心から『そうしたい』と思っているに違いなくて……余計に厄介だった。
「ちょ、ちょっと待ってッ!」
あらん限りの力を駆使して葵を引きはがした。
火事場のクソ力とはこういうものかと驚きながら。
顔が熱を持ち、呼吸は荒い。鼓動は乱雑で、血流は加速し続けている。
「はぁ……はあ、はぁ……」
「はぁ……はぁ」
ズレた眼鏡の位置を直し、正面の葵を見やれば――濡れた瞳と目が合った。
頬だけでなく、着崩れたワイシャツから覗く肌もピンク色に染まっていた。
そんな妻の艶姿を目にするだけで、蓮の心臓は大きく跳ねる。
興奮と罪悪感。正しいことをしているはずなのに、何か間違ってしまったような。
ついでに言うと『普通、逆では?』と思わなくもない。蓮と葵の配役が。
「葵さん、何かあったの?」
「何もないが」
呼吸を整えた葵がしれっと答える。
ジーっと見つめると、ぷーっと頬を膨らませた。
色気が減って可愛げが増した。
その表情は、むしろ蓮に安心感をもたらしてくれる。
以前とは異なり、深刻なアレコレは何もなさそうだった。
だからこそ――事態はより深刻で、とてもとても困るのだ。
「葵さん、ちょっとお話があります」
「何だ?」
「今からお説教をします。正座してください」
「説教されるいわれなどないが」
「自覚がないのが困るんです。ほら、座って」
自分を信用してくれているのは嬉しい。
自分に愛情を向けてくれるのは嬉しい。
葵は初めて目にした時よりも、同窓会で再会してからよりも、ずっと素直に感情を表してくれるようになった。誰かの目を気にすることもなく、『かくあるべし』などと自分を勝手に決めつけることもなく。
本当に誇らしいと思っている。
本当はその感情を分かち合いたいと思っている。
思っているが……このままでは身が持たない。
じっくり話し合わなければならない。理性崩壊待ったなし過ぎる。
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