第9話 わからないけど……わからないけど?

「ふぅ」


 小さな折り畳み傘で妻と身体を寄せ合って。

 傘からはみ出た半身は雨に濡れて冷たくて。

 家につくなりシャワーを浴びて、ホッとひと息。


『せっかくだから一緒に入ろうか?』


 などと自爆気味なことを口走って耳まで顔を真っ赤に染め上げていた妻のあおいが、今は素知らぬ顔でベッドに腰を下ろしている。当然といえば当然(れん的に)の話ではあるが、もちろん彼女を先に浴室に放り込んだ。

 その段階では全くもって気が付いていなかった。

 自爆ジョークはそれなりに蓮から冷静さを奪っていた、と。

 ゆえに――眼前の光景がある。


――これは……ッ!


 蓮は感極まって拳を握り締めた。ただし心の中で。

 スラリと伸びた肢体、豊かに盛り上がった胸を隠すのは蓮が貸した薄手の白いワイシャツのみ。裾からは長い脚が大胆に伸びている。

 ポニーテールだった黒髪は解かれたまま、濡れたまま。

 そして、上気した白い肌が何とも言葉にしがたい雰囲気を醸し出している。


――裸ワイシャツ、彼シャツ……否、夫シャツ!


 いつもの葵は土曜日にやってくる。

 本日は金曜日。曰く『サプライズ』のために学校帰りに赴いたとのこと。

 もちろんお泊りセットの類は持参しておらず(そんなものをもって大学に行っていたらとんでもないことになりそうだ)、着替えなんてあるはずなかった。


「先に言っておくが、下着は途中のコンビニで買ったからな」


「まだ何も言ってないよ」


「目が言っていた」


「……」


 好意的に表現すれば以心伝心。

 身も蓋もないことを言えば……蓮は首を横に振った。

 そんなことを考えても意味はない。


「……さっさと話を聞きたいところだが、先に夕飯にしよう」


「そ、そうだね」


「蓮がシャワーを浴びているうちに湯を沸かしておいたから、さっき買っていたラーメンでいいな」


「そ、そうだね」


「蓮?」


 向けられる怪訝な眼差し。

 本能的に視線を逸らすと、葵のため息が耳を撫でた。

 実に心外だった。距離感がおかしいのはそっちのくせに。


「……話はあとでゆっくり聞かせてもらおう」


 時間はたっぷりあるからな。

 そう言いつつ葵は時計に目をやった。

 金曜日の夜だ。午後7時を回ったあたり。

 少なくとも半日以上余裕はあるし、1回多く夜を挟む。

 

――さて、どうしたものかな。


 意味深すぎる言い回しは、ワザとなのかそうでないのか。

 口に出すわけにもいかなかったので、現実逃避気味に考えた。

 もちろん、答えは出なかった。





 カップラーメンだけでは足りなかった。

 冷ご飯に残り物の野菜を適当にぶち込んで作った炒飯を平らげて、ようやくひと息。

 食器を洗い終わった葵が部屋に戻ってきて、蓮の向かいに腰を下ろした。

 ついでに持ってきてくれた麦茶を口に運ぶ。冷たい麦茶はいつ飲んでもうまい。


「それで……蓮、いったい何を悩んでいたんだ?」


 麦茶を口に運ぶことすらせずに、いきなり切り込んできた。

 余裕綽々といった風情だったが、別にそんなことはなかったらしい。

 ここまでの間に色々考えて、あらかじめ答えは用意しておいた。


「葵さん、大学でもモテてるだろうなって。みっともない嫉妬してた」


 しれっと口にした。

 嘘はついていない。

 それも確かに考えてはいた。

 ただ――


――言えないんだよなぁ、本音は。


 葵を墜とすとっかかりが見つからない。

 男女交際的な意味で。結婚しているのに。

 広く流布している情報の類はおろか、後輩氏から聞きだした話もロクに役立ちそうにない。

 手っ取り早い解法は本人に直接尋ねることなのだろうが、それはできなかった。

 葵自身がこれまで恋をしたことのない自分に嫌悪に近い感情を抱いている。

 だから、聞けない。

 悩んでいることすら悟られてはいけなかったのに。


「モテる……まぁ、言いよられることはあるな、まだ」


「まだ?」


 シャツの裾から伸びた足を組み替えながら、ウンザリした口ぶりで肯定する。

 心なしか不機嫌そうですらあった。


「入学したばかりの頃は本当に喧しかったが、最近はそうでもない」


「そうなの?」


「ああ。興味がないと態度で示し続けていれば、わざわざこんなめんどくさい女に声をかけようなんて暇人はそうそういないということだ」


「さっき『まだ言いよられることはある』って言ってなかった?」


「……細かいなぁ、蓮は」


 麦茶をひと啜りした葵がボヤいた。


「私も二十歳を過ぎて酒が飲めるようになったから、飲み会の誘いはある。そういうところに行くと酒の勢いで言いよってくる輩はいる」


「どうしてるの?」


「……愛華に助けてもらっている。あと、『酒で失敗したことがあるから飲まないようにしている』と言って逃げてる」


「それは、大丈夫なの?」


 飲み会をサボり続けると周囲から浮いたりしないのだろうか。

 自分の身に置き換えると、それは社交的に悪手ではないだろうかと思えてしまう。

 心の底から愛華に感謝しながらも、頭のどこかで心配せずにはいられなかった。

 

「どうだろう? あまり気にしていない」


「気にしてないって」


「そんなことより、蓮の方が大切だからな」


 口元を緩めながら、サラッと嬉しいことを言ってくれる。

 彼女が手にしているのはアルコールではないし、頬を染めてもいない。

『それが当たり前』と言った感じで気負いも羞恥もない。

 自然体な葵の佇まいに感動すら覚える。


「それで、蓮」


「ん?」


「何を悩んでいたんだ?」


「ん?」


 おかしな質問を聞いた気がした。

 というか、質問が最初に戻っている。

 もう答えたのに。


「だから」


「あんなにあっさり口を割るようなことを延々と悩んだりはしないだろう」


 それも割とつまらないことを。

 またもやサラッと口にしていたが、葵の目はまったく笑っていない。

 むしろ、ちょっと怒っているように見えてしまう。

 錯覚であってほしくて、蓮は目を閉じて瞼を揉んだ。

 再び目を開けて……でも、何も変わっていなかった。


「葵さんが僕のいないところで他の男に言いよられているのは全然つまらないことじゃないんだけど」


「そう言ってもらえるのはとても嬉しいが、取り繕ってももう遅いぞ」


「いや、別に……」


「さしずめ『私の男の趣味がわからない』とか、そんなところか」


「……」


「図星か」


 ど真ん中に剛速球が飛んできて動けなかった。

『そのとおりです』と暴露しているようなものだった。

 葵の言うとおり、今さら取り繕っても――もう遅い。


「な、なんでわかったの?」


 どうにか、それだけ絞り出した。


「何でと言われてもなぁ……蓮が頑なに私をごまかそうとしているようだったから、私に聞かせたくない類の話だろうと思った。そんなことを考えるとなると、それくらいしか思いつかなかった」


「もっと下世話な話だとは思わなかったの?」


「別に下世話な話でも構わないぞ」


『好きにしていい』と言った私に手を出さなかったくせに。

 わずかに口を尖らせながら、クスリと笑った。

 その話はもう終わっているはずなのだが、葵としては不満もあったらしい。

『恥をかかせておいて……』なんて恨み言が聞こえてきそうだった。


「お金がないとか、そっち系は?」


「蓮は節制しているように見えるし、考えたことなかったな。将来的な話は別かもしれないが、現段階では特に問題あるようには見えない」


 葵は薄い笑みを浮かべながら室内を見回した。

 さして広くもない部屋で、これと言って目立つモノはない。

 殺風景と言えば殺風景であり、この部屋で一番華やかなのはベッドに座る妻に違いなかった。


「浮気してるとか、そういうのは?」


「それは……蓮はそんなことしないと信じている」


「浮気とかできるほど器用じゃないって自覚はあります」


「する気もないだろう」


「もちろん」


 最高のお嫁さんを貰っておいて浮気とかするわけない。

 そう付け加えると、葵はちょっと得意げな顔になった。

 調子に乗った妻がカワイイ。


「ほら見ろ。そう考えると、あまりネタが残っていない」


「僕が何も悩みのない人生を送っているように聞こえるなぁ」


「そこまでは言っていないが、悩みがあっても蓮はひとりで解決してしまいそうな気もする」


 出来れば私にも話してほしいものだが。

 寂しそうな口ぶりだった。

 葵に余計な心配なんてかけたくはないが……結婚している以上、ふたりはれっきとしたパートナーなのだ。

 勝手に見栄を張っても、何もいいことはなさそうだった。

 難しい。ひとり暮らしの頃には考えもしなかったことだ。

 本当に難しい。そう思わざるを得なかった。


「で、消去法」


「……はぁ」


 他の悩み云々を考えている場合ではなかった。

 一番知られたくなかったところをクリティカルに踏み込まれた。

 もっと気楽に日々を過ごしているように見えたが……葵を甘く見くびりすぎていたと思い知らされた。

 そこまで怒っているようではなさそうなのが、唯一の救いだった。


「正確に言うと、僕をもっと好きになってもらうにはどうすればいいだろうって考えてた」


「そ、そうなのか!?」


「わかってたくせに、何で驚くの?」


「え? い、今のはちょっとニュアンスが違わないか?」


「ほとんど同じでしょ」


「そ、そう? 何だか感性の隔たりを感じるんだが」


「……そうかなぁ」


 首を捻って考えては見たものの、よくわからない。

 葵の方がおかしいんじゃないかという気がしてならない。


「はぁ……いや、私は蓮のことは大好きだぞ」


「あっさり言うなぁ。僕が言いたいのは恋愛的な意味なんだけど」


「恋愛的な意味……うん、それはわかる」


「でしょ。あまり言いたくないけど」


 恋をしたことがない。

 恋ができない。

 そんなコンプレックスが、今や蓮の妻となった『古谷 葵』の根底にある。

 だから言いたくなかった。

 割と露骨に不満を滲ませてみるも……どうにも反応が妙だった。


「葵さん?」


「うん、蓮が私のために気を回してくれていることは嬉しい。でも……うん、わかっているつもりだったのだが、こうして改めて問われると……うん、あまり意識してなかったな」


「は?」


 眉を顰める蓮の前で、葵は胸に手を当てて目蓋を伏せた。


「うん。恋をするとか、しないとか……そんなに重要じゃないような気がする」


 何だか、とんでもないことを聞かされている。

 そんな気がした。

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