第8話 聞いてみたら、もっとわけがわからなくなったけど……

「ふぅ」


 金曜日。

 職場を辞しての帰り道、タイムセールな頃合いを過ぎた総菜コーナーを前に、れんはひとりため息をついた。

 微かに匂いが残る棚にはもうほとんど商品が残っておらず、これから家に帰って自分で夕食を作る手間を考えると疲労感が……ではなくて、


――よくわかんないな……


 脳裏を占めているのは、ここ数日聞かされている隣人な惚気のアレコレであった。

 話を聞かせてほしいと頼んだ蓮自身であり、本人もあまり気乗りしない様子であったから『あまり言いたくないんだろうな』と心配していたのだが、別にそんなことはなかった。

 

「まさか一週間ずっとしゃべり続けるとは思わなかったよ」


 改めて、ため息。

 年上の後輩氏は実に饒舌であり、蓮が『手元が疎かになってるよ』と注意すると『先輩から話を振ってきたくせに』などと拗ねる。

 いい年こいた大人の男が拗ねてもちっともかわいくない。

 今のところ周りからは『君らギクシャクしてたし、その調子で仲良くね』などと微笑ましく見て貰えているけれど、その厚意に甘えすぎていると手痛いしっぺ返しを食らうことは容易に想像できてしまう。

 社会人一年目の後輩に、そのあたりの塩梅を上手く考えるのは難しそうな様子であり、自業自得とは言え蓮の負担が増えた。

 本当にただの自業自得だった。


「しかも、ほとんど何にも収穫なしとか……」


 エピソードの分量に比して、後輩氏たちの関係性がよくわからない。

 特にその推移がサッパリわからない。

『腐れ縁』なんて表現はただの照れ隠しだと解釈していたのだが、話を聞く限りではあながち間違いでもないように聞こえてくるから困る。

 是非とも腐れ縁な彼女の話も聞いてみたいと思ったものの、さすがにそれを切り出すことは憚られた。

 後輩氏にしても、たまたま職場で隣同士になっただけの先輩――出会ってひと月かふた月しかたっていない年下の男――に彼女もとい腐れ縁な幼馴染を会わせたくはないだろう。

 自分の身に置き換えてみれば想像は付く。

 あおいを件の後輩に会わせたいかと問われれば、速攻で首を横に振る。

『独占欲かよ』なんて自嘲したくもなるが、これはそういうものだろうと思う。


「う~ん」


 自宅の冷蔵庫の中に何か食べられそうなものはあっただろうか。

 炊飯器の中にご飯は残っていただろうか。

 寂しくなった総菜コーナーを後にして、スマートフォンをタップして時刻を表示させる。

 腹時計も鳴った。

 とりあえず、ダラダラ考えてもいられなさそうということだけはわかった。


――なんかもう、カップラーメンでいいかな。


 残骸を葵が目にしたら、きれいな眉が吊り上がりそうな気がしなくもない。

 でも、たまにはそういうことがあってもいいような気がする。

 むしろホッとされるかもしれないまである。


「……現実逃避してる場合じゃないな」


 ラーメンを物色しながら、独り言ちる。

 後輩の惚気に付き合わされた結果、ほとんど唯一の収穫とでも呼べるべきこと、それは……彼は特別なことは何もしていないらしい、ということ。

『ほんとかよ?』とオブラートに包んでツッコんでみたが、逆にきょとんとした表情で『ほんとですよ』的な反応が返ってきて面食らわされた。

 彼の話をそのまま信じるとするならば――あのふたりは幼い頃から傍にいて、ずっと一緒に育って、そのまま何となく現在の関係に至っているらしかった。

 ドラマティックなエピソードは何もなかった。

 ありふれた日常がひたすらに積み重なっていた。

 彼女を意識して、何かしらカッコつけようとしたりもしなかった。


――要するに、一緒に過ごした時間が重要ってことか?


 燃えるような恋とでも呼ぶべき激しい感情に突き動かされたわけではなく、ただ静かに穏やかな日々を共に過ごした。

 その果てに今のふたりがある――ということらしかった。


「だったら僕も……」


 このまま葵と同じ時間を過ごせば、いずれは彼らのような間柄になるのだろうか。

 そうかもしれないと思った。

 それではいけないとも思った。

 どちらが正しいのか、蓮自身には判断がつかない。


――でも……葵さんが求めているのって、そういう関係ではないような気がする。


 求めていないと言うわけではない。

 紆余曲折を経て、最終的には穏やかで仲睦まじい関係になることが望ましいように思える。

 それは葵もきっと同様で……でも、彼女は過程も求めている。

 わがままと呼ぶには、可愛らしくて。

 叶える側としては難物で。

 

「そうは言ってもなぁ……ドラマティックなイベントって、要するにトラブルだろ?」


 学生時代だったら文化祭とか体育祭とか修学旅行とか、それっぽいイベントは目白押しだろうが……その手のあれやこれやを『煩わしい』と避け気味だった当時の自分をぶんなぐってやりたくなる。

 お前はいったい何をやっていたのか、と。

 大人に――ではなく、社会人になってしまった現状、生活を大きく揺り動かし得るシチュエーションなんて、何らかの揉め事ぐらいしか思いつかない。

 蓮としては、別にトラブルなんてお呼びではないのだが……

 自分の想像力が欠如しているだけで、もっと何か良い方法が存在しているのだろうか?

 考えてみても、何もネタが浮かんでこない。

 

「はぁ」


 どこぞの有名なラーメン屋が監修したというエビ味噌味と、激辛を売りにするひたすらに赤い大盛りカップで迷い、両方ともかごに入れた。

 賞味期限を気にするようなものではないから、そのうち食べるだろう。

 どうでもいいことに脳のリソースを割きたくなかった。

 他に何か買い忘れはなかったかと首を捻り……カップ麺ふたつだけ持ってレジに向かう。

『袋はどうされますか?』と問われたので『あります』と答える。

 仕事帰りに買い物する機会は多く、仕事用の鞄には普段からエコバッグを忍ばせている。

 店から出ると、生ぬるい風が肌を撫でる。風は湿り気を帯びていた。

 空を見上げると嫌な感じの黒雲が広がっている。


「やばいな、ひと雨来るか」


 折り畳みの傘はあるし、家に洗濯物は干していない。

 それでも雨は嫌だ。

 スーツが濡れると乾かすのがめんどくさいし、肌に張り付く感触は不快だ。

 学生の頃は、そこまで雨が嫌いだった記憶はない。

 むしろ世界が静かになるような、あの雰囲気を好んでいたような気がするのだが……


「蓮」


 ふいに、涼やかな声が耳を震わせた。

 

「え?」


 驚いて振り向くと、頬に尖った感触。

 でも、痛くない。滑らかな指だった。

 そんな子どもっぽい悪戯をする指の先には――


「葵さん、何で?」


 葵がいた。

 腰まで届くストレートの黒髪はポニーテールでまとめられている。

 自分の妻である『古谷 葵ふるや あおい』であることを見間違えることはないのだけれど……いつもとは少し様子が異なっている。

 

「葵さん、なんかちょっと違うね」


「ん? ああ、学校帰りだからな」


 なるほど、と思った。

 いつもより化粧が薄いのだ。

 あっさりしているけれど、存在感はある。

 むしろ、こちらの方が自然な佇まいに見受けられた。

 

――ということは、


「いつも僕の家に来るときって、結構気合い入れてたりする?」


「……今頃気付いたか、はぁ」


 これ見よがしなため息は、喜ぶべきか悲しむべきか反応に迷う。

 

「でも、何でここに? 明日じゃなくて?」


「待ちきれないから会いに来た、ではダメなのか?」


 物悲し気な眼差しを向けられ、ねじ切れそうな勢いで首を横に振った。

 まさかまさかである。

 現に、つい先ほどまで胸の中でとぐろを巻いていたモヤモヤはどこかに吹き飛んでしまった。

 本当に、ただ驚いただけなのだ。

 

「そんなことはないけど、ちょっとびっくりした。連絡くれればよかったのに」


「それは……連絡したらサプライズにならないだろう?」


 可愛いこと言われると、細かいことはどうでもよくなる。

 こういうことを自然に口にできる葵を、素直に羨ましいと思った。

 自分には到底真似できない……はずだ。たぶん、いや、きっと。


「と、とりあえず帰ろうか」


「そ、そうだな」


 頬を水滴が叩いた。

 やっぱり降ってきたかと、鞄から折り畳みの傘を取り出す。

 隣の葵は手のひらを頭の上に掲げていた。


「葵さん、傘ない?」


「ない」


「じゃあ、これ使って」


 手元の傘を差しだすと、葵の頬がぷーっと膨れた。


「蓮、それは違うだろう」


「違うって?」


「私たちはふたり、傘はひとつ。そして雨。ならば……あとはわかるな?」


「……相合傘したいってこと?」


 葵は視線を逸らし、頬を赤らめた。

 反応はともかくとして、正解なのだろうと推測できた。

 曲がりなりにも夫婦なのだから、一緒にひとつの傘に入っていても何もおかしなことはない。

 ただ……


「これ、小さいからふたりは入れないよ」


「わかってないなぁ、蓮は。それがいいんじゃないか」


「そうなの?」


「そうだ」


 腑に落ちないまま傘をさすと、葵が身を寄せてきた。

 ほぼゼロ距離。お互いの吐息が触れ合うほどの距離。


――なるほど。


 ぽつりぽつりと降ってきた雨が肩を濡らす。

 でも――これはいい。

 妻の言わんとするところが、よくわかった。


「蓮、何か悩みでもあるのか?」


「え?」


 いきなり問われて、心臓が跳ねた。

 思いっきりど真ん中にブッ刺された気分。

 首筋の後ろを流れ落ちる水滴が、やけに冷たい。


「いや、その……難しい顔をしていたから、何かあったのかと」


「悩みって言うか……別に」


 あなたを喜ばせるにはどうすればいいか。

 毎日そんなことを考えています。

 ……言ってもいいのだろうか?

 せめて人目のないところにしてほしい。

 公衆の面前で白状させられるなんて、それは羞恥プレイもいいところだった。


「あるのだな。話せ」


「せめて家に帰ってからでいい?」


「そうだな。時間はたっぷりあるから、じっくり聞かせてもらおう」


 穏やかに目じりを緩められたその笑顔を前にすると、つくづく『勝てないな』と思わされる。

 自分はこんな人間だっただろうか?

 もともと、こんな人間だったような気がした。

 苦笑を浮かべると、横合いから頬を指で突っつかれた。

 こんな時間をふたりで積み重ねていくのも、それはそれで悪くないと思えた。

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