第6話 休日の朝、おなかが空いたから

 休日の朝の街並みをしみじみ眺めてみれば、これはこれでなかなかに趣がある。

 春先にゆっくりと開いていくつぼみを眺めているような……という表現はカッコつけすぎかもしれないが。

 れんはそんな気取ったことをつらつらと考えながらあおいと一緒に歩いていた。

 公園のベンチでしばらく休んだおかげか、体調はすっかり回復している。


――周りの風景なんて、ここ最近あまり意識してなかったなぁ。


 平日の朝はいそいそと出勤してばかり。

 決して時間に追い回されているわけではないが、頭の中は一日の仕事とかで一杯になっていて、周囲の景色とか風情をゆっくり楽しめる状態ではなかった。

 休日の朝は一週間で溜まった家事を片付けるか、あるいは昼過ぎまで寝こけているかのいずれかで、やはり街の様子をつぶさに観察するようなことはなかった。

 単純に興味が持てなかっただけという方が正確かもしれない。

 高校を卒業してからずっとそんな調子だったし、何事もなければずっとそんな調子であり続けていたのだろう。

 ……付け加えるならば、つい先ほどまでは身体的な理由で余裕がまったくなかった。

 これからはもう少し余裕を持った生き方を心がけるべきではなかろうか。

 そんなことを考えることができるようになったのも、ひとえに……


「蓮、どうした? 何をにやけている?」


 感慨に耽っていると横合いから葵が訪ねてくる。

 心なしか、その声に不審なものが混ざっているような気がした。

 まったくもって心外だと憤慨してみたくはあるものの……我が身を顧みてみれば、にやにやしながら街を歩いている男というのは、なかなかに危険人物に思えてくるから困る。

 隣を歩く妻からしてみると、こんな夫は堪ったものではないのかもしれない。


「別におかしなことを考えてたわけじゃなくて」


「前置きはいいから」


「いや、ほんとだからね。休みの日の朝も悪くないなって思ってただけだから」


「うん、休みの朝は最高に気持ちいいな。あと金曜日の晩とか」


「それはそうなんだけど、ちょっと違うかな」


「そうか?」


 葵の訝し気な眼差しと声に苦笑せざるを得ない。

 もちろん蓮だって金曜日の夜は大好きだ。

 ここ最近の金曜日といえば『明日は葵に会える』と高揚に包まれるものだが、それを抜きにしても土日の休みを前にすれば自然とテンションは上がる。

 蓮に限らず暦どおりに生活している社会人なら誰だって同じだろう。

 ……休日出勤がなければ、という前提はあるにしても。社会人は色々と辛い。


「僕って日曜日の朝はあまり街に出ないから、何だか新鮮だなって」


「そ、それはそうだな、うん」


 どもってせき込んで視線を逸らす葵。

 いったい何を考えていたのだろう?

 問い詰めてやりたい気持ちはあったが、やめておくことにした。

 葵の顔から『頼むから聞いてくれるな』というオーラをひしひしと感じたから。


「それはそうとして、朝食はどうしようか?」


 妻に問われてスマートフォンをチェック。

 時刻は朝の七時半を過ぎている。

 バタバタしていた今朝の記憶を辿ると……家を出るときには、何も用意していなかった気がする。

 蓮も、葵も。


「今から帰って朝ご飯作るの、結構大変じゃない?」


「確かに。時間がかかりそうだ」


 葵の返事からも、どことなく気乗りしない感じが滲み出ていた。

 家まで歩いて帰って汗だくになった服を着替えて。

 それから食事の用意を始めると……完成するまでに時間がかかりすぎる。

 別にダメと言うわけではない。

 昼まで寝ていることもあるくらいだから多少遅くなっても問題はないし、極端なことを言えば一食抜いたって問題ない。

 ただ、準備をするのがめんどくさいだけ。


「ん?」


 ふいに、空腹を刺激する芳香が鼻先をくすぐった。

 強烈な小麦粉の匂い。甘く、そして香ばしい。

『いったいどこから?』と頭を巡らせてみると――


「こんなところにパン屋があったのか」


「そうみたいだな」


 何気なく呟くと、葵から同意の言葉が返ってきた。

 ふたりとも足を止める。どちらからということもなく。

 ガラスの窓越しに並んでいる焼き立て(推定)のパンに目が釘付けになってしまった。

 蓮も、葵も。

 こうなったら考えることはひとつだけ。

 ちらりと葵の顔を窺うと、葵も蓮の顔色を窺っていた。

 以心伝心。考えていることは同じらしい。


「なぁ、蓮」


「買って帰ろうか?」





 結論から言ってしまえば、パンを買った。

 しかし買って帰ることはできなかった。


「はしたないとわかっているのだが、むぐ……」


「はい、これ。喉詰まらせないでね」


「すまん、恩に着る」


 自販機で購入したアイスコーヒーの缶を渡すと、葵はそっと口づけて喉を鳴らした。

 そんな葵を横目に蓮は手元の袋からアップルパイを取り出してひと口齧る。

 サクサクのパイ生地と、甘く煮込まれたリンゴ。うまい。


「蓮」


「ありがと」


 ひとしきり口内で堪能してから、返ってきた缶コーヒーで喉に流し込む。

 隣を歩いている葵の手にはカレーパン。

 最初はこんなつもりではなかった。

 パンを買って家に帰ってちゃんと食べるつもりだった。

 でも、抱えた紙袋から漂ってくる匂いに負けた。

 蓮と葵のどちらが悪いというわけではなく、どちらも負けた。

 

「買い食いなんて久しぶりだな」


「そうか?」


 歩きながら食べるなんて行儀が悪いとわかっていても、止められない。

 よく晴れた青空の元、焼き立てのパンを頬張るのは楽しい。

 可愛らしい妻と一緒だと、もっと楽しい。

 こういうのも悪くないなと心の中で独り言ちる。


「葵さんは買い食いとか普通にやるの?」


「……ま、まぁそれなりには?」


「ふぅん」


 他意はなかった。

 社会人になってからというもの、食事をとるのは家か職場か、あるいは外食か。

 いずれにしても外を歩きながら何かを食べるという機会がほとんどなくなった。

 葵は大学生だから、友人たちと買い食いや食べ歩きなんかを普通にするのだろう。

 そう思っただけだ。


 葵の方に目をやると、チョココロネを口に放り込んでいたところだった。

 蓮の記憶に誤りがなければ、三つ目のはずだ。

 週末に食事を共にするようになってから、しばしば『葵さんはよく食べるなぁ』と感心していたものだが、その健啖ぶりは今日も存分に発揮されているらしい。


「どうした?」


「ううん、なんでもない」


「『目は口ほどに物を言う』ということわざを知っているか、蓮?」


「……知ってます」


「一応言っておくが、これくらいは普通だからな」


「別に何も言ってないし」


『普通ってなんだろう?』という深刻な疑問が湧き上がってきたが、口にすることは憚られた。妻とは言え女性相手に『よく食べるね』なんて迂闊に尋ねるのは危険極まりない。

 見える地雷を踏むバカはいない。


「うう……ほら、私って剣道部だっただろ」


「そうだね」


「だから、その、ひと汗流してからおなかに何か入れるのは別におかしなことじゃなくて」


「高校時代からずっと早弁してたってこと?」


 反射的に尋ねると葵は頬を赤く染めながらそっぽを向いてしまった。

 にもかかわらず手は蓮の方に伸びてきていたので缶コーヒーを渡す。

 葵はそっと口に運んだ缶を傾けていた。少し汗ばんだ白い喉が前後している。


――ふむ……


 蓮の記憶の中に存在する『新堂 葵しんどう あおい』に、早弁のイメージはなかった。

 高校の頃から葵に想いを寄せてはいたものの、そんな細かいところまで見ていなかったと思い知らされた。

 他の男子たちはどうだったのだろう?

 ふとそんな考えが脳裏をよぎり、慌てて振り払う。

 関係ない。

 今の彼女は『古谷 葵ふるや あおい』で蓮の妻なのだから。

 ……でも、自分に都合のいいところだけをピックアップして勝手に妄想を膨らませていたことに、一抹の申し訳なさを覚える。


「蓮?」


「え、あ……なんでもないです」


「何でもないって顔してないぞ」


 缶コーヒーが返ってくる。

 喉に流し込んだ液体は甘かったけれど、少しぬるくなっていた。

 

「……僕は葵さんの何を見ていたんだろうって思った」


「え?」


「葵さんは早弁なんかしてないとか、そんな勝手なイメージを押し付けてたなって」


「できればそのイメージはそのままにしておいてくれ」


「そういうもの?」


「そういうものだ。あと、勝手に私を腹ペコキャラにしないように」


「でも……」


 葵を見やると、その手にはあんパン。

 数え間違いでなければ四つ目だ。

 蓮の手にも同じあんパンがあった。

 数え間違いでなければふたつ目だった。


「蓮……そんな顔をしないでくれ。頼むから」


「あ、はい」


「ちゃんと食べてちゃんと運動する。それが一番健康的なんだ」


 隣から垂れ流されてくる葵の健康論は正しいようでいて、どこか言い訳めいていたが、わざわざツッコミを入れるほど、蓮は無粋でも無謀でもなかった。

 何度となく目にしてきた葵の肢体は今日もスラリとしていて美しい。

 だから彼女の言葉に嘘はないのだろう。

 そういうことにしておいた。


「蓮、目は口ほどに……」


「何にも言ってないし、何も考えてないから!」


 若干声が上ずってしまったのは、きっと修行が足りないから。

 慌ててあんパンを口に突っ込んで、むせた。

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