第5話 休日の朝の公園で
白みがかっていた空に青が載せられて色づいていく。
日曜の朝特有の冴え冴えとした空気が頬を撫でた。
静かな街並みが目を覚まし、少しずつ華やいでいく音が耳を震わせた。
「うぇ~~~~~」
そんな爽やかな世界で、
さながら砂浜に打ち上げられた魚のように。
眼鏡のレンズは曇り、瞳は輝きを失っていた。
陽光に晒された肌は、噴き出す汗で滑光っていた。
だらしなく開かれた唇の端から、舌がだらんと垂れていた。
傍から見れば死体と間違われかねない有様で、実際のところ公園に足を踏み入れた誰もが蓮を遠巻きにして近づこうとしない。
ぎょろりと視線を動かしてみると、その先にはビクリと震える三十代のおっさんがいた。手元のスマートフォンに指を這わせている。
――どこに電話しようっていうのさ?
警察か?
救急車か?
それとも――
「待たせたな、蓮」
益体もない考えに耽っていると、頭上から涼やかな声が降ってきた。
人影が日光を遮断して陰になった。
慌てて姿勢を正そうとするも、伸びてきた手に止められた。
「無理をするな。ほら、ジュースを買ってきたぞ」
声の主は、腰まで届く黒髪を頭の後ろでポニーテールに纏めた美しい女性だった。
ピンと伸びた背筋のせいか、あるいは蓮が下から見上げているせいか、とても背が高く見える。
無地のシャツにハーフパンツとラフな格好であっても、その整った容姿はいささかも陰ることはない。
「ごめんね、
妻の葵だった。
昨日から蓮の家に泊まりに来ていた彼女は、朝起きるなり蓮をランニングに誘った。
気乗りしなかったものの拒否することもできず、見栄を張って走り出したら、あっという間に日頃の不摂生が祟ってノックダウン。
休憩と称して公園のベンチに陣取って、蓮はずっとこの有様。
『飲み物を買ってくる』と言って離れていく彼女の背中を見送ることしかできなかった。
――情けない……これで惚れさせるとか言ってるんだぜ、僕……
缶を受け取って、ため息ひとつ。
葵の手が背中に回されて、そっと上体を起こした。
手元の缶は有名なスポーツドリンクだった。人体を構成する水分とほとんど同じ成分でできていると言うアレ。
プルタブを開けて口に運ぶと、かすかな甘みと酸味を伴った水が喉を通って胃に落ちる。
しばらくの間、ただひたすらに水分を補給し続けた。
身体が、本能が水を望んでいた。
隣に腰を下ろしている葵も、同じ柄の缶に口をつけている。
こちらは蓮とは違いゆっくりと喉を鳴らしている。
「蓮、そんなに急いで飲むと危ないぞ」
苦笑めいた声。
優しく背中を撫でる手。
まるで――
「なんだか一気に年を取ったみたいだ」
元クラスメートであり、すなわち同い年であるにもかかわらず、この差は何だろう?
自分には若さが足りていないのではないかと、かなり真剣に悩まざるを得ない。
缶から口を離した蓮のコメントに滲み出る悲嘆を察して、葵は眉尻を下げた。
「そんな悲しいことを言うな。これから鍛えればいいだろう」
「……」
「……蓮?」
「あ、いや……運動を止めるって発想はないんだな、と」
「ないなぁ。私が思うに、蓮は運動不足なんじゃないか」
「否定できないっていうか、卒業してから運動なんてした覚えがない」
どこかで甘く見ていた節がある。
別に無理して鍛えたりしなくたって、まだ二十歳なんだからどうということはない。
放っておいても身体は健康であるし、病気もケガもないないない。
思い返してみれば、職場の上司たちは休日に運動しているような話をしていた。
ゴルフなんかは『いかにもおっさんだな』と内心で呆れ、マラソンなどは『わけわからん』と首を振った。
他にも水泳やらボルタリングやら様々な趣味を持っている彼らを、どこか別の世界の住人のように遠目から見やっていた。
彼らは決まって口にする。
『若いうちからやっておけ』と。
『健康に気を遣うのは早ければ早いほどいい』と。
その手の忠告は適当に聞き流していたが、どうやら自分が間違っていたと認めざるを得ない。
ほんの少しでも彼らの言うとおり運動を習慣づけていたら、妻とランニングに出て即座にへばるような醜態をさらすことはなかっただろう。
「葵さんは運動ってどんなことしてるの?」
「私?」
「うん。葵さんが何やってるのか、あんまり知らないなって」
大学生であることは知っている。だから勉強はしているのだろう。
実家が剣道の道場であることも知っている。素振りとか稽古とかしているのだろう。
そのあたりを想像することはできたが、いきなり走り出すとは思わなかった。
彼女の身体をまじまじと見つめたことは……あったようななかったような気がしなくもないが、率直に言って健康的ではある。
スラリとした体形で贅肉の類は見当たらない。胸を押し上げるそれは贅肉ではない。
剣道が健康に良いと言う話は聞いたことがない。まぁ、悪いわけはないだろうが。
おそらく葵は剣道以外にも何かやっていると考える方が妥当なのだろうが、具体的なイメージを持つことはできなかった。
「そうだな……休日の朝は今日のように走っているし、道場では素振りもやっている」
「うんうん」
「走るときは犬の散歩を兼ねているし、コースの途中にバスケットのコートがあって、そこで近くの連中とバスケをしたりしてる」
「葵さんは背が高いからバスケは向いてそうだ」
「まぁな。あとは……愛華とフィットネスクラブに行ったりもする」
「へぇ。マシンの上を走ったりする奴?」
「そう。プールとかサウナもある」
プールとかサウナなんて単語を聞くと、思わず邪な想像力が働きすぎてドキドキする。
妄想する蓮に向けられる葵の眼差しは決して冷ややかなものではないが、ちょっと目元に朱が差している。『何を考えているのか丸わかりだぞ』とその瞳が雄弁に語っている。
居た堪れなくなって、蓮はゴホンと咳ばらいをひとつ。
その一方で、どうにも気になることがあった。
話を変えるべきであろうと直感した。
「ところで葵さん」
「ん?」
「勉強は?」
蓮の妻となった女性は身体を動かすことには熱心なようだ。
運動と縁のない蓮とは正反対。健康的であることは羨ましい。
しかし彼女は同時に大学生である。大学生は勉強するものだと思っていた。
葵はずいぶんと忙しそうな日々を送っているように聞こえるが、おおよそこの世のどんな人間であっても、一日は二十四時間しかないはずで、アレコレ手広くやっている彼女は、いったいどうやって学業の時間を捻出しているのか、とても気になった。
……まぁ、ちょっと反撃したい気持ちもあって、軽く突っついてみたというのが本音だった。
「……」
葵は大きく目を見開いて、蓮から視線を逸らした。
再び缶に口を寄せ、スポーツドリンクを喉に流し込み始める。
前後に動く白い喉をじっと見つめることしばし――
「べ、別に勉強してないってことはないぞ。試験前にはちゃんとやっている」
「試験前だけ?」
「いいだろう!? 大学生なんてみんな大体そんなものだぞ?」
「ちなみに単位とかちゃんと取れてるの?」
「……」
「え、そこで黙られると怖いんですが」
蓮は葵の学力を知らない。
でも、ふたりとも高校三年生の時は同じ進学クラスに在籍していたのだ。
合格した大学だって蓮がかつて志望していたところだし、ゆえに葵の学力だってそれなりに高いとばかり思っていたのだが……この沈黙の意味するところがわからない。
わからなくはないが、わかりたくない。
「その、大学の講義は高校までとは違っていて、結構バラエティに富んでいて」
「うんうん」
「……今年は頑張る」
「去年は?」
「もう過ぎた話だ。今さら愚痴っても始まらない」
カッコつけてカッコ悪いことを口にしている。
風に吹かれてポニーテールがふわりと揺れた。
「よし。僕は運動を頑張るから、葵さんは勉強を頑張る。今年の目標はこれで行こう」
「え? いや、私はそこまで」
「三年生になったら就職活動とか始まるんでしょ。早いうちに単位取っておかないと大変なことになると思う」
「就職活動とか、私が今一番聞きたくない単語なのに。蓮はハッキリ言うなぁ……そんな真面目な奴、大学にはいないぞ」
缶を脇に置いた葵は、両手で耳を塞いでイヤイヤし始めた。
子どもがやったら可愛いが、大の大人がやったらみっともないだけ。
蓮の妻は十二分すぎるほどに可愛い女性だけれど、だからと言って笑って許せるものではない。
「葵さん、一緒に頑張ろう」
「うう~、そう言われると断れない」
涙目の葵の頭をポンポンと軽く叩くと、葵はあざとい角度で見上げてくる。
次の瞬間『ぐ~』と腹が鳴った。
ふたりで顔を見合わせる。
頬を染めた葵は最高に可愛いと思った。
「さて、飲み終わったら走って帰るか」
「あ、ごめん。まだおなか痛い。僕は来週から頑張ります」
「蓮!」
脳天に落ちてきた手刀は、幸いなことにあまり痛くはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます