第4話 休日の朝なのに
目を覚ますなり雷を落とされた
自分がやらかしたことを気づかされて羞恥を覚えていた。
そして――それ以上に眼前の光景に違和感を覚えていた。
「
だから、葵の機嫌が治るのを待つことなく尋ねてしまった。
割と反射的に疑問を口にしてしまったのは、きっと頭が回っていなかったせいだろう。
「ん?」
顔を背けていた葵が、再び蓮と向かい合う。
ついで自分の身体を見下ろして首を傾げてた。
頭の動きに合わせて、ポニーテールが揺れている。
――かわいいなぁ。
起きたばかり(と思われる)葵はシンプルな衣装を身に着けていた。
上は無地のTシャツで、下はハーフパンツ。裾から伸びた白くて長い脚が眩しい。
髪はいつもどおり頭の後ろで束ねられていて――まぁ、それだけ。
服装だけを見るなら、休日の蓮と似たり寄ったりの恰好と言うか。
これまで目にしてきた葵のファッションセンスとは、どこかズレていた。
ただ、そのズレに関してそのまま口にすることは本能的に危険を感じた。
よって、何とも無難にオブラートに包んで意見表明することにした。
……実際に口をついて出たのは、割と直球な問いになってしまったわけだが。
「ずいぶんラフな格好してるな……って、早っ! まだ6時じゃん!」
葵を横目に捉えながら枕元のスマートフォンで時刻をチェックした蓮は、表示されていた数字を読んで驚きの声を上げた。
声には少なからず不満が混じるどころか、割と露骨に滲み出てしまった。
めんどくさいアレコレを土曜日のうちに終わらせて、日曜日はのんびり過ごす。
それが『古谷 蓮』の週末だった。日曜の朝6時に起床なんて想定されていない。
「どこって……走りに行くんだが?」
何でもないことのように葵の言葉が返ってきた。
あまりにもサラッとした反応だったせいか、蓮は耳を通して入ってきた単語を脳内で咀嚼し損ねてしまった。
つまり妻が何を言っているのか、よくわからなかったのである。
残念なことに、寝ぼけているせいではなかった。
――走る?
思わず眉をひそめた。
社会に出てわかったことのひとつとして、人間が日常で走るシーンなんてほとんどない。
急ぐのであれば自転車なり車なりを利用するし、あるいはバスもタクシーも電車もある。
むしろ走ることは奨励されていない気さえする。街中でもショッピングモールでも、人が大勢いるところを無理に駆け抜けようとするのは迷惑ではないだろうか。
学生時代は体育なんて授業までわざわざ設けられていたが……なんであんなに走らされていたのか、今となってはサッパリ理解できない。
「蓮、見ろ」
「はぁ」
葵が指さす先を見れば、窓から陽光が差し込んできている。
手をかざして目元に影を作った。
眩しすぎて目が痛い。
「今日は日曜で、外はこんなにいい天気だ」
「そうだね」
「なら走りたくならないか?」
「ならないね」
率直に答えた。
『いい天気だから走る』なんて意味不明だった。
『いい天気だから洗濯する』なら素直に首を縦に振れるのだが。
『いい天気だから二度寝する』ならば首を何度でも縦に振れそうだった。
さて。
目の前で、葵が瞳を潤ませていた。
今にも泣きだしそうな顔をしている。
そう、まるで捨てられた猫のような――
「……ならないか?」
「……」
すがるように問われると、再び否とは答えづらかった。
本音を口にしてよいならば、まったくもって走る気分になどならなかった。
何が悲しくてこんな朝も早よからランニングなんて、逆に愚痴りたいぐらいなのだが。
それでも、この状況で妻にそんな顔をされると……
「……たまには走ろうかなって気になってきた」
心にもないことを口にすると、葵の顔がぱぁっと晴れた。
メチャクチャかわいい。お嫁さんが超かわいい。
蓮は心の中で『かわいい』を連呼した。
――まぁ、いいか。
この顔を見られただけでも、朝イチでランニングしていいじゃないか。
そう自分を慰めた。
『習慣になったら嫌だな』とは思っていたが、口には出さなかった。
★
――どうして、こうなっちゃったんだろう……
蓮は心の中で独り言ちた。
より正確に表現するならば、言葉を口から発することができなかったので、心の中で吐き出すしかなかっただけだった。
着替えて家を出て戸締りをして、ふたりでストレッチして軽く体をほぐして。
程よく身体を暖めてから葵と一緒に走り出した。
そこまではよかった。
準備万端整えていた妻ほどではないにしても、動きやすい服なら一応用意していた。
『今度一緒にランニングウェアを買いに行こう』なんて微笑みかけてくる葵に頷き――即座に後悔した。
脇腹が痛い。
喉が痛い。
肺が痛い。
頭が痛い。
まともに呼吸できないし、全身から噴き出てくる汗が気持ち悪い。
手も足も鉛を括りつけたかのように重く、持ち上げることすら儘ならない。
眼鏡の位置がずれて視界が定まらない。五感が訴えてくる不快感が半端ない。
優しく降り注いでいるはずの太陽の光さえ恨めしく思えてきた。
――雨が降っていれば、こんなことにはならなかったのに。
幸いと言うべきか、あと少し我慢すれば梅雨に入る。
生まれてこの方、あの忌々しい雨の季節をこれほどに切望したことはなかった。
「ぜひ……ぜひ……」
現実逃避している場合ではなかった。未来どころか今この瞬間こそが問題なのに。
おかしな声を途切れ途切れに吐き出しながら前を見ると、ずいぶん先に言っていたはずの葵がすぐ傍にいた。
いつもきれいな眼差しには若干の呆れと、多分の申し訳なさらしき感情が同居していた。
「その……すまない。私は、その……蓮は意外と何でもできる人間なのだと思っていて……だから、つい調子に乗ってしまって……」
などと言いながらも、葵はその場で軽快に脚を上下させていた。
タンタンタンと軽快なステップを踏み、ポニーテールが溌溂と揺れていた。
むき出しの肌にうっすらと汗は滲んでいるにしても、疲労らしきものは見当たらない。
言葉が途切れ途切れになっているのは身体的な問題ではなく、精神的な原因によるものであることは明白だった。
……と言うか、どう見ても原因は蓮だった。
「な、何でそんな勘違いを、されていたのか……、少し話し合、う必要がある気がしてきた」
『古谷 蓮』は自身をどこにでもいるごく普通の人間だと規定している。
これと言って得意なこともなければ、これと言って苦手なこともない。
……などと言うのは少々見栄っ張りで、実際のところ身体を動かすのは苦手だった。
学生時代だって体育の授業だの体育祭だの球技大会だのは蛇蝎のごとく嫌っていた。
中でもマラソン大会なんてものに至っては、もはや存在意義が理解できないレベル。カレンダーには〇ではなく×をつけていた。
進学クラスであったから、他にも同じように感じていたらしい生徒は多数存在していたし、運動を嫌う自分の気質について特に疑問を持つことはなかった。
高校を卒業して、就職して、ほとんどデスクワークで一日を過ごすようになるとますますその傾向は顕著になり、『運動? 何それ? 人生に必要ある?』と真顔で問い返すような状態だったのに……涙を浮かべる葵の顔に耐えられず、満面の笑顔を浮かべる葵にデレデレして慣れないことを始めてしまって、この有様だ。
「とりあえず、あそこの公園で少し休もう。蓮、動けるか?」
「ちょ、ちょっと待ってもらっていいかな?」
休憩を提案されて情けなく思う余裕は、もはや残されていなかった。
でも――公園に辿り着く体力すら残っていなかった。
婚姻届に署名して以来、葵にこんな情けない姿を見せた記憶がない。
「ほら、肩を貸すから私に寄り掛かって」
足踏みを止めた葵がするすると近づいてきて、蓮の脇から腕を通してくれる。
ふたりの身体が密着して汗にぬめる肌が滑る。鼻先を葵の匂いがくすぐった。
ほとんどゼロ距離に葵の顔があった。
ひとつひとつの要素は、先週のベッド上の一幕を思い起こさせるものばかりなのに、興奮もしなければ色気を感じることもなかった。性的なアレコレより生命維持的なアラートが鳴りっぱなしで、どうしようもない。
生存本能は性欲を凌駕するらしい。
「ごめん……迷惑をおかけします」
「いや、無理を言った私が悪い。何か飲めそうか?」
「うん」
「わかった。あとで買って来よう」
「あ、お金は……」
「余計な心配をするな。ほら、行くぞ」
「……お世話になります」
もはや言葉を取り繕う気力もない。
公園に向かって、ゆっくりゆっくり葵に引きずられてゆく。
周囲から生暖かい視線を向けられているのは気づいていたが、どうにもならない。
――笑われてないだけマシなのかな?
思考回路も物理的にショート寸前だったせいか、自嘲の笑みを浮かべることすらできなかった。
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