第3話 思い通りにはいかない
『女の子を床に寝かせられないでしょ』と
『布団があれば十分だ。部屋に押しかけているはこちらなのに、ベッドまで奪っては厚かましいにも程がある』と
一緒に連れ添って買い物に行く間も。
向かい合って夕食を口にする間も。
ダラダラとテレビを見ている間も。
交代で風呂に入って汗を流す間も。
ふたりの意見はひたすらに平行線をたどり続けた。
どうしたものかと悩んだ末に『先に布団を占領してしまえばいいのでは?』と湯船に浸かっている間に妙案らしきものが蓮の脳裏に閃いたが……時すでに遅し。
風呂から上がった蓮が見たものは『絶対に退かないからな!』との意思を瞳に漲らせたまま布団に横たわる妻の姿だった。
――まぁいいか、布団ぐらい……
結局、蓮が折れた。
もともとそれほど重大な問題というわけでもない。
ほかならぬ本人が納得しているのだから、別にいいじゃないか。
せっかく葵とふたりで過ごす週末を、こんなしょうもない揉め事で無駄にしたくない。
なんとも満足そうに笑みを浮かべる葵を前にわざとらしくため息をついて見せたものの、葵はまるで意に介する様子はなかった。
結婚して二週間。
まだ、たったの二週間しか経過していない。
ふたりで共に過ごす時間だけを拾い上げれば、ほんの数日。
……にもかかわらず、あれやこれやと悩みの種は尽きない。
何をするにしても、ことごとく思い通りにいってくれない。
世の夫婦たちはいったいどうしているのだろう?
葵と共に過ごす時間が増えるごとに、謎が深まる一方だった。
★
「うう~ん」
夜が更けて、『おやすみ』と言葉を交わして、それぞれの寝床に横になって。
程なくして悩まし気な葵の声が聞こえてくる。
今夜はちゃんと眠れているようだ。
実に羨ましい。
身じろぎひとつとれないまま、蓮は心の中で独り言ちる。
蓮は――今日も眠れていなかった。
もともと寝つきが悪い方ではない。
普段ならベッドに入って物の数分で意識は消える。
昨夜だって葵の来訪を思ってドキドキしてはいたものの、ちゃんと眠ることはできた。
でも、今日はダメ。
同じ部屋に葵がいるというだけで、全然ダメ。
彼女の声どころか吐息すら気になって仕方がない。
――先週みたいに密着してるのならともかく、これで寝られないってのはどうなんだろう?
闇の中で目蓋を閉じて、蓮はひとり悩んだ。
妻の声を耳にするだけで、平静を保っていられないなんて……これから先、本当に大丈夫なのだろうか?
こんなこと、誰にも打ち明けることができない。
「ああ……ダメだ、蓮。それは……だめ。まだ早いからぁ……」
葵の寝言が耳を通って脳に侵食してくる。
どうやら彼女の夢の中に自分が出てきているらしい。
夢の中の自分は妻にいかがわしいことをしているようだ。
いや、夫婦なんだから別におかしくはないのだろう。何をやっているのかはわからないが。
――羨ましい……
現実の自分は同じ部屋にいるだけで悶々として眠れないでいるというのに。
決して相まみえることができない、葵の中の自分に嫉妬せずにはいられない。
あまりにも情けなさすぎて目じりに水滴が浮かんだ。違う、これはきっとあくびを我慢したからだ。そうに違いない。
「だめ……やめて……私、もう……私……」
時を追うごとにボルテージが上がる一方の葵の声。我慢の限界だった。
耐えきれなくなって上体を起こし、床に敷かれた布団に横たわる妻を見やる。
掛け布団を抱きしめながら夢の世界に没入している彼女は――とても幸せそうだった。
より正確に表現するならば、いつもはキリッとしている顔が思いっきり緩んでいた。
「葵さん、風邪ひくよ」
頭を振ってため息ついて、ギリギリで踏みとどまった。
そうっとベッドから降りて葵の腕から布団を奪い、肩のあたりまでかけ直す。
近づくほどに、葵の匂いが濃度を増した。
腕の中に抱きしめた肢体の感触が甦る。
今、蓮の目の前に、妻の身体がある。
無邪気で、無意識で、無防備で……
――触ってもバレないのでは?
邪しまな心が胸の奥から湧き上がってくる。
むにゃむにゃしている唇が、自分を誘っているように見えてくる。
そういうことはしないと誓ったのに……こんな姿を見せられると決意が鈍る。
しかも、当の本人が『別にいい』などと嘯いているのだ。どこまで本気かは置くとして。
「……」
「……う~ん」
「……いや、ダメだろ」
葵が自然な姿をさらしているのは、蓮に対する信頼があってこそ。
妻の信頼を失うことは、今後の生活に大きな影響を及ぼすに違いない。
そういうことがしたいなら、葵の意識があるうちに観念して許しを請うべきであって、不意打ちなんて以ての外……のはずだ。
「おやすみ、葵さん」
ちゃんと布団に収まったことを確認してベッドに戻る。
我慢我慢と口の中で唱えながら。
「う~ん、暑いぃ」
葵はかけられた布団を即座に蹴り飛ばした。
さらに寝間着からおへそが覗いている。
艶めかしくて、ちょっとだらしない。
「……葵さん、寝相悪いな」
こんな彼女の姿を見ることができるのは自分だけ。
再びベッドを降りて布団をかけてあげた。
ひたすらに己を慰めながら、戒めながら。
蓮が眠りにつくまでに、この後三回ほど布団をかけ直す羽目になった。
★
気が付けば、そこにいた。
そこがどこなのか、よくわからなかった。
ふわふわとした雲に似ていると思った。
ただひたすらに現実味がない。
――なるほど……つまり、これは夢か。
蓮はうんうんと頷いた。
夢。これは夢。それも自分で気づくことができる類の奴。
だから目の前に葵が横たわっていても不思議ではない。
絶対彼女が身に着けないような、物凄いエロい下着を身に着けていても不思議ではない。
向けられる瞳は濡れていて、かすかに開かれた唇が艶めいていても不思議ではない。
なぜか英語で『ウェルカム』と誘われても、別に不思議ではない。
抗うことすら叶わない誘惑に、蓮の頭の中は桃色一色に染め上げられた。
近づけば近づくほどに葵の匂いは濃度を増して。妻の美貌の解像度が増して。
しなやかな葵の手が蓮の首に絡まって、長いまつげが伏せられて。
差し出された唇に、蓮も自分の唇を合わせて――
「んむっ、むぐ~~~~~~~~ッ」
やけに現実味のある声が聞こえてきた。
『まぁ、でも夢だし』と気にしなかった。
目の前の葵の口づけは情熱的で、お返しとばかりに自分も熱が高まっていく。
幸せがあった。欲望の開放があった。獣じみた本能に突き動かされ、唇を貪り合った。
「んむ……ふぅ」
耳朶を打つ声と、眼前(ただし夢)の光景との隔たりがなくなってきた。
粘着質な水音と、熱を帯びた吐息。腕に抱いた温もり、柔らかな感触。
いつまでも浸っていたい夢のような夢は永遠に続き――
「ん、はぁ……ダメだ……ダメだッ! いい加減に起きろ、蓮!」
その絶叫は雷鳴に似ていた。
頭のてっぺんから足のつま先まで一瞬で貫く衝撃に全身を震わせ、いつの間にか夢のような光景は霧散して、曖昧に過ぎる世界は消失して。
漆黒の闇に差し込む光に手を伸ばすと、そこには頬を紅潮させた妻の顔があった。
「ん……あれ?」
だんだんと意識が覚醒してくる。
どうやら自分は眠っていたらしいと気づかされる。
夢を見ていたのだから当然だと理解する。
そして眼前の光景。
ほとんどゼロ距離に葵。
潤んだ瞳。熱を帯びた頬。濡れた唇。
彼女が離れると同時に、蓮は上体を起こした。
無意識で自分の唇に手を当てると――思いっきりベタベタだった。
カーテンの隙間から差し込んでくる陽光が、やたらと眩しかった。
――えっと、これは、つまり……
欲望に霞む頭で状況を整理すると、答えは案外シンプルなように思えた。
自分はいつの間にか眠っていて、夢を見ていた。妻である葵と熱烈なキスを交わす夢。
しかしてその夢は現実とシンクロしていたわけだ。
先に目覚めた葵が自分を起こそうと近づいたところを捕獲して、寝ぼけたまま唇を奪った。
生々しい感触と耳慣れた声こそが現実で、それ以外は全部夢だった。
おそらくこれで間違いない。
「そういうことはしないと言っていたくせに……」
葵の声は恨みがましそうだった。
ほんの少しだけ期待が混じっているように聞こえたのは、きっと蓮の願望が入り混じっているせいに違いない。
「えっと……その、おはよう、葵さん」
「ああ……おはよう、蓮」
「……」
「……」
朝の挨拶は最低限で、そこから先は続かなかった。
つくづく、この世の中は思い通りにいかないものだと思い知らされる。
『こんな僕で大丈夫か?』と問われれば『大丈夫、問題ない』と胸を張って答えられる男でありたかった。
なお、現実はこの有様だった。
自分の理性とか矜持とか、そういうものは当てにならない。
夢だから。夢だから……本音がモロに出た。
「けだもの」
目元を真っ赤に染めて、両手で身体を掻き抱いたままに呟かれた葵のひと言が、クリティカルに蓮の心臓を貫いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます