第2話 う~ん、そうじゃない
『
平日に片づけられなかった洗濯やら掃除やらをはじめとする家事をやっつければ、後はこれと言って何かすることがあるわけでもなかった。
図書館で借りた本や購入した電子書籍に目を通したり。
あとは一週間分の食材を買い込んだり。
まぁ、それぐらい。
誰かと会話することもなく、テレビや動画を愉しむ習性もなく。
特にこれといった趣味の類にのめり込むわけでもなく。
ゆえに、蓮の休日は静謐であった。
これまでは。
「すぅ……すぅ」
音のない部屋の空気を耳慣れない声が震わせ、蓮の耳朶を打った。
極力そちらを見ないようにはしていたが、気にしないようにと意識すればするほど気になってしまうのが人のサガと言うもの。
ついチラチラと横目で様子を窺ってしまい、おかげで蓮は眼前のタブレットに表示されているテキストに先ほどからまったく集中できていなかった。
「ん……んぅ」
甘やかな声。
悩ましげな声。
少し苦しそうな声。
先ほどから断続的に繰り返される音に、蓮は思わずため息ひとつ。
眼鏡の位置を直して、時計を見た。
時刻は午後二時を過ぎようとしている。
いまだ夏には届かない頃合いで、窓から差し込む光に殺意はない。
裏を返せば夏ほど昼間は長くなくて、どこかへ行くならそろそろ動かなければならないとも言える。
――だから、仕方ないよな。
うるさくしたくなかったので言葉には出さないず、ひとり自分を納得させる。
色々な意味であまり触れたくなかったものに、触れなければならない時が来た。
ただ、それだけのこと。
ここで問題をスルーすることは可能ではあるはずだが、それは実際のところ問題を先送りにするだけで何の解決にもならないことは明白で。
また、ため息ひとつ。
眼鏡を外して眉間を指で揉んだ。
再び眼鏡をかけて、首を九十度横に曲げる。
そこには――ひとりの女性が横たわっていた。
身長は160センチを超えており、これは女性としては長身の部類に入るだろう。
顔立ちは整っている。整いすぎていると言ってもいい。
今は閉ざされた目蓋の裏には煌めく漆黒の瞳があることも、よく知っている。
トレードマークでもあるポニーテールはこれまた艶やかな黒。長さは腰のあたりまであって、見るたびに『手入れが大変そうだな』と思わされる。
飾り気のないシャツは胸のあたりで大胆に押し上げられている。巨乳だ。
巨乳に布地が上部に引っ張られているせいか、あるいは単に寝相が悪いのか、おへそが丸見えになっている。
下半身は今日も動きやすそうなパンツルックだった。
高校卒業以来、彼女がスカートをはいているのを見たことがない。
つまるところ、蓮の隣に横たわっているのは妻である『
唇から微かに漏れる吐息に合わせて胸元が上下している。
葵が眠っている。蓮の隣で。買ってきたばかりの布団に身体を横たえて。
――ご飯を食べてすぐ寝ると牛になるっていうけど……
スラリとした葵の肢体を見る限り、そんな兆候は見られない。
夫としては喜ばしいことであるし、今後も是非そのままであってほしいと思う。
それはそれとして――
「葵さん、そろそろ起きて」
「ん~、あと五分」
肩を揺さぶると、葵の白い手が蓮の手を振り払う。
衣服越しに肩に触れるだけでも気合を入れざるを得ない蓮とは違い、葵はこの程度の接触は何とも思っていないらしい。
……まぁ、眠っている現時点では彼女に意識はないだろうが。
蓮と葵が結婚して、何やかんやあって新しい生活が始まった。
週末の土曜日。
今日も今日とて葵が家にやってきて、買ったばかりの布団を目にして腹を立て、話し合って昼食を食べて。あくびを噛み殺していた葵は、気が付いたら布団に寝っ転がっていた。
止める間はなかった。
すやすやと眠っているものだから無理に起こすのもはばかられて我慢していたが、今日はこれから夕食の買い出しに出かけなければならない。別に蓮がひとりで買いに行っても何の問題もないわけ……なかった。
そんなことをすると、葵がへそを曲げるのが目に見えている。
だから、起こす。
たとえ葵の機嫌を損ねようとも。
『起こしても起こさなくても、どっちにせよ気分を害するのでは?』という理不尽を滲ませる疑問は胸の奥に飲み込んで蓋をした。
「葵さん起きて。ほら、晩御飯作ってくれるんでしょ?」
「ば、ばんごはん……んんっ」
口をもごもごとさせ、眉間にしわを寄せ。
幾たびか寝返りを打ち、身体を揺さぶる手を煩わしげに払いの超えること数回。
諦めることのない蓮に根負けしたらしく、葵の目蓋がゆっくりと開かれる。
「おはよう、葵さん」
「おはよう? うん、おはよう、蓮。あれ……私は?」
のそりと上体を持ち上げた葵は、ゆるゆると頭を振った。
ポニーテールが頭に合わせてフラフラと揺れる。
状況に意識が追い付いていないらしい。
「のど乾いてない? 何か飲む?」
「……麦茶」
「うん。持ってくるね」
ふわぁ~と少々はしたないあくびを背にキッチンに向かった蓮が麦茶を持って戻ってくると、葵はまだぼんやりした表情で虚ろな眼差しを向けてきた。
「はい」
「ありがと」
「落とさないようにね」
「……蓮は少々過保護ではないかな?」
しっかりコップを握らせて念を押すと、葵は不満げに鼻を鳴らしつつ麦茶を口に運ぶ。
白い喉がこくこくと前後し、唇の端から水滴が垂れ落ちる。
そんな妻の姿はどこか扇情的で『わざとやってるのか?』と問いかけたくなるところを必死に我慢させられる。
「ふう。すまない、眠ってしまっていたか」
「一時間ぐらいだけど。昨日何かあったの?」
「ん? いや、愛華と電話してたくらいだけど」
「ふ~ん」
愛華。
『
葵の幼馴染であり親友。
近日中に葵に紹介してもらって顔合わせすることになっている。
そんな女性と――実は蓮は既に顔を突き合わせ、あるいは連絡を取り合っている。
あろうことか妻に内緒で。
学生時代に蓮と彼女はことさらに仲が良かったわけではないから、これはとても例外的なことだった。
別にいかがわしいことをしているはないが、葵にはバレないようにしなければならないミッションではある。
ゆえに顔合わせの際に変な挙動を見せてしまわないか、今から戦々恐々としているところだった。
……なんとなくボロを出すとしたら自分の方だろうと言う根拠のない自信さえある。
「蓮」
「え、何?」
来たるべき愛華との対面(初対面)の日に思いを馳せて悩んでいるところに、いきなり名前を呼ばれて声が裏返ってしまった。
現段階ですら動揺をまるで隠せていない。
「いや……その、見てた?」
葵の問いは要領を得ないものであった。
愛華とのかかわりを疑っているようではなさそうなので、蓮はとりあえず胸を撫で下ろす。
もちろん心の中で、である。
「見てたって何を?」
「……私の寝顔」
プイっと横を向いて、頬を赤らめて。
葵はそんなことを口にした。
――女の子って、何で寝顔を見られるの嫌がるんだろう?
実家の妹もそんな素振りを見せることがあった。
なお妹の場合はリアルファイトに突入することもあり、たいてい蓮が平謝りしていたが。
葵は妹ほど狂暴ではないにしても、やはりぞんざいな扱いはするべきではない。
そんなことは言われなくてもわかっているが、さりとて嘘八百並べ立てるのも気が引けた。愛華との一件は棚に上げた。
「あまり見ないようにはしてました」
「そうなのか?」
「そうなのです」
「そうか……」
頬を膨らませている妻を見ていると、どうも選択肢を間違えたらしいと気づかされる。
ガン見しておくのが正解だったようだ。
つくづくわけがわからない。
「今度機会があったらじっくり見ておくから」
「いや、見なくていい」
食い気味の反応に戸惑わざるを得ない。
見るべきなのか否か、本当にわけがわからない。
怒っているように見えるけれど、実は怒っていないのかもしれない。
これまで異性と接する機会が少なかった蓮には、葵の心の動きが把握しきれなかった。
「ま、それはそれとして買い物だな」
「そうそう、夕飯作ってくれるって言ってたでしょ」
「ああ。腕によりをかけるから楽しみにしていてくれ」
「もちろん」
これは嘘偽りない素直な本音だった。
葵の料理の腕は確かなもので、しかも蓮とは得意なジャンルが異なっている。
彼女の手料理を食することができると言うだけでも、週末が楽しみで仕方がない。
「しかし……せっかく蓮が買ってくれた布団にしわが寄ってしまったな」
「え?」
ふいに、おかしなことを聞いた気がした。
思わず問い返すと、葵と目が合った。
お互いに首をかしげる。
「布団。これ、私のために買ってくれたのだろう?」
ぽんぽんと布団を叩く葵の手をしげしげと見つめて、彼女の言わんとするところを理解した。
何やら深刻な勘違いがあるらしいと気づかされもした。
だから、蓮は首を横に振った。
「それは僕が寝る用の布団だから。葵さんはベッドで寝てね」
「……」
「……」
今度は葵が『何を言われているのか、よくわからない』といった表情を浮かべた。
そんな妻を見て『葵さんも感情を隠さなくなったなぁ』などと喜ばしく思った。
永年思い悩んでいたコンプレックスを家族にすら話していない彼女が、自分(と愛華)にだけは本音を見せてくれる。
不快感を露わにする葵と向かい合って微かな優越感する覚えるあたり、自分もたいがい始末に負えないと自嘲せざるを得ない。
……などと現実逃避はほどほどにして。
今のひと言が彼女の機嫌を今日イチで損ねたことは明らかだった。
放っておくとえらいことになりそうなのも明らかだった。
「なんでそうなる?」
「それは僕のセリフなんですが」
――相互理解の道は遠そうだな。
蓮はそっとため息をついた。
でも、まったく不快ではなかった。
ひとりで過ごす平穏で静謐な休日を懐かしく思うことはあるにしても、妻と過ごしてアレコレ揉める休日もまた、何事にも代えがたいと思えるから。
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