第3章
第1話 これだけは譲れない
「
さして広くもない部屋に響く、不機嫌を隠そうともしない
夫である蓮に向けられた眼差しは鋭く、漆黒の瞳には怒りにも似た光が宿っている。
「何だと言われても、見たまんまだけど?」
対する蓮もまた一歩も引かない。
こちらは機嫌こそ悪くないものの、若干ながら呆れ気味ではある。
以前は妻となった葵に対してどこかしら遠慮するところがあったが、今はもう及び腰な気配は見当たらない。
ふたりの視線がかち合って、虚空に不可視の火花が散った。
『僕が葵さんを惚れさせるから』などと冷静になればなるほど赤面して悶絶するような言葉とともに、『
たった一週間のうちにここまで険悪な睨み合いを繰り広げることになったのは……
「何でこんな必要ないものを買ったりするのかと聞いているんだが?」
「どう考えても絶対にいるでしょ、これ。葵さん、頭大丈夫?」
かつてふたりは同い年で高校三年生の時には同じクラスに籍を置いていた。
現在、蓮は既に社会人として働いていて、葵は現役大学生として大学に通っている。
そんなふたりは結婚したと言っても同じ屋根の下に暮らしているわけではなく、週末になるたびに妻である葵が夫である蓮のもとに通ってくる。ちょっと特殊な夫婦である。
……まぁ『週末になるたびに』などと言ってはみても、まだ二回目だが。
つまり新婚。
特に約定を取り交わしたわけではないし、蓮としてはあまり葵にばかり負担をかけさせるのはどうかと思わなくはないものの、高校三年生の同窓会における泥酔の果てに気が付いたら結婚させられていたという事実と、葵が長年抱えていた悩みが複雑怪奇に絡み合った結果、『まだ家族には知られたくない』という彼女の思いを汲んで現状があった。
そして先週いきなり葵が暴走し、彼女の心中を改めて確認し、夫婦は再スタートを切った。
のだが……
――何でこうなるかなぁ?
蓮は心の中でぼやいている。何度も何度も。
良かれと思ってやったと言うよりは、必要に駆られて買ったものなのだが。
事後報告という形になってしまったにしても、葵の了解は得られると信じて疑わなかった。彼女はスラリとした長身とナイスバディ(今は関係ない)に整った顔立ちと腰まで届く黒のポニーテールと言ったサムライガールな外見を裏切らず、基本的に正道を行く人間であり良識的な人間でもあると思っていたから。
……まあ、ここ最近ちょっとそれは自分の贔屓目というか勘違いだったのではないかという気がしなくもないこともあったりなかったりはするのだが。
それでも、ここまで露骨に不快を表明されるとは想像してもいなかった。
「葵さんだって、これがないと困るでしょ?」
「別に困らないが?」
やや食い気味の反論は、妙に上擦っていた。
嘘をつくのが下手すぎる。
葵だって心の底から蓮に反しているわけではないらしい。
彼女は夫の言葉、その正しさを認めている。
認めてはいるが……反射的に不快感を覚え、それをそのまま口にしてしまった。
あとは売り言葉に買い言葉でボルテージを勝手にアップさせて、腕を組んで胸を張って虚勢を張っている。
多分そういうことだろう。
蓮は軽いめまいを覚えて足元を見やる。
そこにあったのは――ひと組の布団だった。
真新しい布団だった。
★
事は先週の日曜にさかのぼる。
土曜に蓮の家を訪れた葵は最大限好意的に表現しても情緒不安定であり、そんな彼女と紆余曲折のうちに同じベッドで眠ることとなった。
泥酔していたラブホの夜を抜きにすれば、これが新婚夫婦初めてのベッドインだった。
何もしなかった。
いわゆる夫婦の営み的なことは、何もなかった。
性急に形式的な関係を求める葵に対し、お互いに好き合ってから(葵を惚れさせてから)にしようなんて蓮の方がカッコつけたからである。
正しいことを言ったつもりだったし、たとえ時を遡ることができても同じことをするだろうと胸を張って言える。
だが。
法律上の妻となった葵は夫のひいき目を抜きにしても魅力的な女性だった。
しかも二十歳の女子大生。いや、それはあまり関係ない。いやいや、ある。
そんな妻と狭いベッドで抱き合うように眠る――眠れなかった。眠れるはずがなかった。
事実、一睡もできなかった。
翌朝早々に実家に帰った葵とスマートフォンでメッセージを交わし、気を失うようにひと眠り。
目覚めてシャワーを浴びて、空腹を訴える胃に適当なものを詰め込んで、熱い緑茶を飲んでホッと一息ついて。
『これからどうするかなぁ』などと曖昧模糊とした未来予想図を描こうとして。
そんなときに葵からメッセージが送られてきた。
内容はぎこちないにしても割と穏当かつありふれたものではあったが、『来週も行くから』というワードを目にした瞬間、雷鳴に打たれたような衝撃を覚えた。
来週も来る。
きっと来週も泊まるつもりだ。
親友である『小岩井 愛華』をスケープゴートにして。
そこまで書かれてはいなかったが、そこまで察した。妙な確信さえあった。
『これからどうするかなんて考えてる場合じゃないぞ!』
蓮は財布を掴み、慌てて家を後にした。
来週も葵がやってくる。
来週も蓮の家に泊まる。
つまり、このまま待ちぼうけていては昨夜の再演になる。
それは――困る。色々と困る。ありがたいこともあるのだが、とにかく困る。
というわけで、慌てて布団を購入した。
現代の日本では大抵のものが割と身近で手に入る。
身近になくても通販すればどうにかなる。
便利な世の中になったことを神に感謝した。
頑張っているのはきっと量販店の方たちであって、神様は何もしていないのだろうが。
まぁ。それはともかくとして――またまた何事もなく一週間が経過した。
葵に内緒で『小岩井 愛華』と接触し、この一件の犯人捜しにおける協力を取り付けたりはしていたが……概ね平穏かつ退屈で、ちょっとドキドキする日々を過ごしていた。
つまり先週とあまり変わりなかったというわけだ。
そして再び土曜日の朝を迎えた。
最寄り駅で再会した葵は先週と同じく大き目のバッグを肩に下げていた。
特に確認はしなかったが、きっとその中には着替えやら何やらのお泊り一式が入っているに違いなかった。
己の先見の明を誇りながら葵を家に連れ込み(この表現は厳密にはおかしい)、にこにこ顔の葵の表情が凍り付く瞬間を目の当たりにした。
彼女の視線の先には――購入したばかりの布団があった。
そして現在に至る。
★
「葵さんだって困るでしょ、布団がないと」
「だから別に困らないと言っている」
意地を張っているようにしか見えなかった。
頬に朱が差しているところは可愛いと思う。
「だって先週全然寝られてなかったじゃない」
「なんのことだ? 私はぐっすり朝まで眠っていたが?」
「身体を密着させていた僕にそんなすぐバレる嘘ついてどうするのさ?」
「……」
事実を指摘すると、葵はそっぽを向いてしまった。
眠れなかったのは蓮だけではない。葵もだ。
「何で……」
「ん?」
「どうして私をそこまで邪険にするのだ? それは確かに私はめんどくさい人間だという自覚はある。でも……」
ようやく口にした言葉がそれだった。
力もなく勢いもなく、ともすれば拗ねているようにも聞こえる。
いや、きっと実際に拗ねている。
単に強がりを口にしているだけではなく、心細さも混じっていることは疑いようもない。
今は『古谷 葵』となった、かつての『新堂 葵』の心に巣食っている『恋をすることのできない自分は、人として出来損ない』というコンプレックスは強く、時として必要以上のスキンシップを求めることがある。先週嫌というほど実感した。
同時に、理屈にのっとって説明すれば頑迷に自説を貫き通そうとするほど頭の固い人間ではない……と思うのだ。たぶん。
――要するに僕の説明不足か。
「心配なんだよ」
「あのな蓮、私だってもう二十歳だ。大人だ。あの時だって言っただろう。蓮がしたいというのなら構わないと」
するとか、しないとか。
何をするのかは言わなかったが、何を意味しているのかはわかった。
そういうことはしないと言ってはみたものの、先週みたいに薄手の寝間着越しに密着して横になっていたら、いつ我慢の限界を突破するかわかったものではない。
それはわかるが……そういうことではないのだ。
「葵さん、まずは僕の話を聞いてほしい。あのね……僕はさ、先週葵さんが帰ってから割とすぐに寝られたけど……葵さんは違うよね?」
「……」
「本当は駅まで送っていってあげられたらよかったんだけど、それはごめん。でも、駅から電車に乗って家まで帰るのに結構時間かかったでしょ」
「それはまぁ……それなりには」
「その間に何かあったらどうしようって心配になったんだ」
「蓮……」
嘘偽りのない気持ちだった。
自分はすぐにベッドに横たわって睡眠をとることができた。
では、葵は?
思いを馳せて、ゾッとした。
徹夜してフラフラの身体で地元に戻って家に帰って、葵が眠りにつくまでの間は決して安全とは言えない。
頭がクラっと来たところに車が突っ込んできたら……さすがに考えすぎかもしれないが、可能性はゼロではない。
「僕が葵さんを邪険になんてするわけがない。ただ、夜はちゃんと眠らないと危ないと思うんだ。徹夜なんてするもんじゃないよ」
布団がないまま毎週葵がやってきたら、毎週徹夜することになる。
毎週フラフラになって街を歩いていたら、いずれは……
そう考えたら、居てもたってもいられなかった。
葵は目を白黒させ、顎に手を当てて考え込むことしばし――
「……その、すまない。私の悪い癖だ。一度意地を張り始めると引っ込みがつかなくなる。せっかく蓮がそこまで考えてくれているのに、私ときたら」
「ううん、別にいいよ。ちゃんと説明しなかった僕が悪い。でも……」
「でも?」
「いや、葵さん、僕とそんなに一緒に寝たかったの?」
「……」
「……」
「……」
気になっていたことを問いかけると、葵は耳まで真っ赤にして硬直してしまった。
しばらく視線を宙に彷徨わせて、おもむろに荷物を下ろし、
「さて、まずはお茶でも入れるとするか」
などと宣わって、キッチンに姿を消した。
白々しすぎる妻の一挙手一動作をしげしげと観察した蓮はひと言、
「……思い付きで口にする癖は、どうにかしたほうがいいかも」
そう嘆息せずにはいられなかった。
まぁ、蓮も葵とベッドを共にしたい気持ちがゼロではなかったので、あまり強く出られないという事情もあったのだが……それを口にするのは、ちょっと恥ずかしかった。
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