後編 妻には見せられない顔 その2
「バレなきゃいいのよ」
「バレると思う。日本の警察をあんまり舐めない方がいい」
『
これまでほとんど交流がなかったとはいえ、彼女がそこまで短絡的な人間だとは思っていない。
一応、一応である。『一応自分は止めました』とどこかの誰かに言い訳するために。
ただ、念には念を入れているというだけ……そう自分に言い聞かせた。
念を入れているだけなのだ。
「フン」
軽い鼻息ひとつで愛華を取り巻いていた緊迫感が霧散した。
それだけでさっきのやり取りが冗談だとハッキリ理解させられる。
ひとつひとつの小さな言動で、愛華は場の空気あるいは雰囲気を思うが儘に支配している。
人の中心にあるもの、人の上に立つものとしての振る舞いがナチュラルに身についている。
とてもではないが同い年の人間とは思えない。こういうところは素直に羨ましいと思う。
「それで、卒アル貸すのはいいけど当てはあるわけ?」
「まずは役所の窓口に当たってみる」
「役所がそう簡単に情報ばらしたりしないでしょ」
「同感。正直あまり期待できないと思ってるよ」
当たり障りのないところから切り込んでみるも、案の定と言うべきか愛華の反応は冴えない。予想どおりではあったから、蓮も軽く流しておくにとどめた。
「その割には落ち着いてるわね」
「まぁね。ラブホの方が本命だし」
サラッと口に乗せると、途端に愛華の顔が歪んだ。
親友である葵と目の前の男がラブホテルで一夜を共にしたという事実が不快らしい。
そんな眼差しで貫かれることは、蓮にとって不快ではなかった。
蓮に向けられる厳しい視線は、愛華が葵を大切に思っていることを顕している。
妻となった女性に、そこまで信愛を向けてくれる友人がいることは喜ばしい。
「あんなところこそ、個人情報なんてなおさら漏らさないんじゃないの?」
「その辺は詳しくないけど、今回の件はほとんど犯罪だからね。いざとなったら警察をちらつかせるつもり。ホテル側にしてみれば犯人を庇うメリットはないんじゃない? それに……」
「それに?」
「情報源なんて基本的に誰かに言うつもりはないし。さっき小岩井さんが言ったとおりバレなきゃいいんだよ」
さすがに警察やら裁判やらにもつれ込んだら黙秘というわけにもいかないだろうが。
お堅い役所と違って民間相手なら、なんだかんだ言ってある程度の融通は聞くと思っている。逆に言えば、役所がこの件で協力的になることはまずないとも思っている。
彼らが動くとしたら、ある意味警察以上に確度の高い証拠を突き付けた場合だけではなかろうか、とも。
「チッ、悪人め」
「お褒めにあずかり光栄です」
言うなりお互いに見つめ合う。決してロマンチックなものではない。
先ほどの愛華の言を引き合いに出した言い回しが癇に障ったらしい。
ある種の睨み合いのまま場は硬直し――愛華が大きく息を吐き出した。
「ま、いいでしょ。犯人に一泡吹かせてやりたいのは私も同じだし。名前わかったら教えなさいよ」
「山に埋めるのはやめてね」
「埋めるところなんてどこでもいいわね」
「僕は犯罪に加担するつもりはありませんので」
あの葵の親友とは思えない過激さだ。
さっきは冗談だと認識していたが、万が一がありうる。
その危うさを含めて周囲の人間をコントロールしているのかもしれない。
どこまでが本音でどこからが冗談か、なかなかその境界を掴ませない厄介な女性だ。
「話はそれだけ?」
「えっと……あとふたつみっつ協力してもらいたい件がありまして」
「アンタ結構厚かましいわね。まぁいいわ。言ってみなさい」
「まずひとつ目。情報収集をお願いしたい」
「情報収集?」
「うん。葵さんに聞いたんだけど、小岩井さんは同窓会の日に風邪ひいてたって」
「……そうね。こんなことになるってわかってたら、意地でも出てやったのに」
そうなったら葵と蓮が結婚させられるなんてことにはならなかっただろう。
喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか俄かに判断できない。
愛華がどう思っているのかも含めて。
「クラスの中心人物だった小岩井さんが同窓会に出席できなかった。だから同窓会がどんな様子だったか知りたがってる。話の流れ的にもおかしくないから聞きやすいと思うんだ」
「まぁ、アンタよりはマシよね」
「僕だったら鼻で笑われて終わりだよ。あの日、誰が何をしていたか。葵さんの周りで誰がどんな話をしていたか。店を出てからどんな組み合わせで解散したか。無理のない範囲で調べておいてほしいんだ」
「了解。今はこれがあるし大した手間でもないわ。でも、みんな酒が入ってたとしたらあまり期待もできないけどね」
愛華は手に握ったスマートフォンを軽く振った。
握った手の鮮やかなネイルが目を惹いた。
「それは仕方ないよ」
泥酔していた当の本人としては、そう言うしかなかった。
自分と葵以外だって似たり寄ったりの状態だったかもしれないという思いの方が強い。
何もしないよりはマシという程度だし、欠席者である愛華なら自然に事を進めやすいと思っただけだ。
「それで、他には?」
「ふたつ目。聞き込みのために僕が地元に戻ってくることが多くなると思うんだけど、その時に葵さんと鉢合わせしたくない。だから、タイミングを合わせて葵さんを引き付けておいてほしい。あるいは、葵さんが動けなくなる状況になったら教えてほしい」
「オッケー。こういう時にスマホって便利よね」
「同感。あと……」
「まだ何かあるの?」
「うん。葵さんを守ってほしい。守るって言うか気にかけておいてほしいって言うか」
「……」
「葵さんから聞いてるかもしれないけど、僕はもう働いていて葵さんと四六時中一緒にいるってことはできない。犯人がどこから何を仕掛けてくるかわからない以上、葵さんの傍にいる誰かの助けを借りないと……守れないんだ」
言うなり頭を下げた。
人目のある店内でなければ、土下座してでも愛華に首を縦に振ってもらわなければならない。
先のふたつの願いとは異なり、これは絶対に譲れない類のものだから。
「アホらし。アンタなんかに言われなくたって、これ以上あの子に手出しとか絶対させないから」
頭を上げて、もう一度下げた。
不思議ではあったが、愛華は基本的に即答する。
だからと言って悩んでいないわけでも考えていないわけでもない。
即決即断と表現するべきか……そういうところも人の心を掴む要因なのかもしれない。
うだうだ迷ったり考え込んだりしがちな蓮とは根本的にキャラクターが異なっている。
「ありがと。本当に助かる。あとは……今は思いつかない。見落としがあるかもしれないし、状況に応じて柔軟に動くことになると思う」
「政治家みたいな言い草だけど、しょうがないか」
すべての用事を終えて、ホッと胸を撫で下ろす。
しゃべりっぱなしで喉が渇いたので、テーブルに置かれていたコーヒーを啜る。
すっかり冷めているうえに苦い。そして不味い。
だからと言ってもう一杯頼む気にもなれなかったが。
いつの間にやらカップを干していた愛華が席を立った。本当に卒がない。
彼女こそ、高校時代とはまるで印象が異なる。まだ学生なのに大人びすぎている。
「ねぇ」
「何か?」
「私が犯人だとは思わなかったの?」
頭上からの問い。
蓮は即座に首を横に振った。
「葵さんが信じてるのに、僕が疑ってどうするのさ」
「そういうところは甘ちゃんね。脇が甘すぎ。私のこともちゃんと疑いなさい」
キツイ物言いの割りには面倒見がよい。
付け加えるならば相当のお人よしでもある。
『小岩井 愛華』という人物を見誤っていたように思う。
なるほど人に好かれる人間には相応の理由があるのだと納得させられた。
高校時代の自分には見えていなかった部分であり、気づくことができるようになっただけ大人になったのだとも思えた。
何もなければ関係を持つことはなかっただろうけれど、彼女とこうして話し合えたことは決して悪いことではなかった。
「理由を話したうえで卒アル貸してくれるってのに、何を疑えっての」
「チッ」
露骨な舌打ちがここまで似合う女性も見たことがなかった。
つくづくよくわからないキャラクターである。
ある意味葵とはお似合いの親友同士なのかもしれないと思う反面、ふたりっきりの時にはどういう話をしているのか気にならなくもなかった。そこまで踏み込む気にもなれなかったが。妻である葵にしても、愛華にしても人に触れられたくないプライベートはあるだろうから。
「アンタさ……葵に『惚れさせてみせる』って言ったんでしょ」
アレコレ物思いにふけっていると、唐突に愛華がそんなことを口にした。
そこまで話しているのかと呆れる。
いや、葵がそれだけ信頼しているのだと考え直した。
「言った。方法は考えてないけど」
「それ、絶対に成功させなさいよ」
「言われなくてもそのつもり」
軽く返事をして驚いた。
愛華の顔が蓮の想像以上のシリアスムードを帯びていたから。
「あの子は……ずっと苦しんできてたから。でも、こんなことになって……喜んでたから。毎日嬉しそうに電話してくるし。だから、ここで『失敗しました』なんてことになったら……」
愛華の様子は、蓮にあることを想起させた。
『まさかそこまで』という思いがあった。
予想が当たっていたとしたら……葵と愛華の絆は、きっと蓮が想像しているよりもずっと深い。
「小岩井さん、葵さんのことを……」
「本人から聞いてる。何年親友やってると思ってんの?」
「お見逸れしました」
「いい? 絶対に惚れさせなさい。失敗したら……」
「僕が粉々にされて山に埋められる?」
「わかってるんならいいわ。それじゃ」
あっさり言い置いて、愛華は去っていった。
ただの一度も振り向くこともなく。
その背中を見送った蓮は大きく息を吐きだしてひと言、
「粉々って冗談で言ったつもりなんだけど……マジか」
その声に答えてくれる者はおらず、仕方なくコーヒーを口に運んだ。
苦い。本当に苦い。でも、なぜか不味くはない。
『この苦さはきっと生涯忘れないだろうな』という確信があった。
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