インタールード
前編 妻には見せられない顔 その1
惚れさせてみせると
かつては金色に染められていた髪は幾分落ち着きを増した深みのある茶色に。
若々しさが先行していたメイクも、身にまとう服も記憶の中の姿より大人びて見える。
『
妻である葵をして一番の親友と言わしめる女性であった。
葵よりも背が低いのに、葵よりも圧力がある。
用がなければ絶対に近づかないタイプの女性でもあった。
★
待ち合わせ場所に先についていたのは蓮だった。
注文を取りに来たウェイターにブレンドコーヒーを頼んで以後、腕を組んだまま目を閉ざし、口を閉ざして椅子の背もたれに身を預けることしばし、さほどの時を置くことなく待ち人である愛華が姿を現した。
「ずいぶん余裕ぶってるわね」
開口一番、険の籠った声が降り注いだ。
目蓋を上げた蓮の瞳に映ったのは、声にたがわぬ険しい顔だった。
葵の親友であるから一定の配慮はしなければならないし、これから話す内容について協力を仰ぎたい相手であるから失礼な応対は厳禁だと心の中で戒めつつ、それでもなお威嚇の意図が前面に出過ぎている彼女の姿には苦笑を禁じえなかった。
「おかげさまで」
向かいの席を進めると愛華はそっと腰を下ろし、じっと蓮を見つめてくる。
間近からずけずけと向けられる眼差しと、キュッと引き結ばれた唇。
かすかに鼻先をくすぐる香水の匂い。耳に煌めくピアス。
『大学生ってこんな感じだっけ?』なんて考えていると、
「アンタって、こんな奴だったっけ?」
「どういうこと?」
いきなり放たれた先制パンチに眉を顰める。こんな奴ってどんな奴?
似たり寄ったりのことを向こうも考えていたらしい。
蓮は自分のことを思いっきり棚に上げた。
「葵からアンタと結婚したって聞かされてビックリして、そのアンタが私と会いたがっているって聞かされて二度ビックリ。
愛華は自ら持参した大き目のバッグから一冊の本を取り出した。
高校の卒業アルバムである。蓮が頼んで持ってきてもらったものだ。
そこには高校時代の蓮が写っているはずでもある。自分の写真なんて別にどうでもいいが。
「社会に出て揉まれたから、ちょっとは成長したのかも」
「まだ一年しかたってないけど」
「男が変わるには三日あれば十分だよ」
おどけて肩を竦めて見せると、正面からの視線が一段階きつくなった。
本当にあの葵の親友なのかと疑いたくなる半面、記憶の中に存在した『小岩井 愛華』の姿と物の見事に被る仕草ではある。
「何言ってんの、アホなの?」
「うるさいなぁ」
アルバムに伸ばした手を愛華が払いのける。
威力はないが抗えない。
ひとつひとつの仕草が葵とは別の意味で洗練されている。
人をあしらうことに慣れているとでも言うべきか。
「その前に話を聞かせなさいよ」
「確かに、それはそうかも」
手を引っ込めて背もたれに身体を預け、腕を組んだ。
眉間にしわを寄せ、唇を閉じて思考に耽る。
――さて、どこから話したものか。というか、小岩井さんはどこまで知ってるんだ?
葵と何もないまま一夜を過ごしたのち、スマートフォンを介して『小岩井さんを紹介してほしい』とメッセージを送った。
結婚していきなりほかの女を紹介しろというのは無理筋かとも思ったのだが、葵は大喜びでこれに応じ、愛華に相談したのちに連絡先を交換してくれた。今度の休みに三人で会うことになっている。
今日ここで顔を合わせることにはなっていない。
ただ……愛華が連絡先の交換に応じたこと、そしてここに姿を現したことから察するに、それなりに事情に通じていることが窺えた。
「ちなみに葵さんは?」
「今日は実家の道場の手伝い。一応様子も見てきたから間違いない」
「抜かりないね」
「本人に内緒で新婚の旦那と会おうってんだから、それくらいは考えるわ」
「お気遣いありがたいことです」
素直に頭を下げた。
葵を交えずに愛華と会うことには罪悪感を覚える。
騙しているようで……否、実際に騙しているようなものだ。
ここに葵が踏み込んできたら、そのまま修羅場に一直線。きっと蓮は死ぬ。
「事情はどれくらい聞いてる?」
「葵が嫌っていうほど話してくれた」
「……どの辺までか聞いていい?」
「あの子と一緒に寝て何もしないとか、ひょっとして不能なわけ?」
「何でそんなところまで話すんだ、葵さん……」
いきなり頭が痛くなってきた。そこまで話しているとは思わなかった。
夫婦の夜のアレコレって、いくら親友だからと言って早々口にするものだろうか?
これは葵に物申しておくべきことなのか、とても迷う。
「ということは概ね話はご理解いただいているという認識で?」
「概ねっていうか、ほぼ全部よ」
「そう。なら話は早い。その卒アルを使って犯人を捜そうってこと」
『犯人を捜す』
そのひと言に愛華の瞳が鋭さを増した。
『そんなに怒ると可愛い顔が台無しだよ』とか『年取ったら皺が増えるよ』なんて冗談は間違っても口にできない。
する気もないが。
「葵は犯人捜しなんてしないって言ってたし、アンタもそれに同意したって聞いてるけど?」
「最初はそのつもりだった。でも考えを改めた。別に珍しくないでしょ」
話が違うじゃないと愛華は言っている。
前言を翻すなんて珍しくないと蓮は応じた。
空気が張り詰めていく。いつまでたっても愛華のもとにウェイターが訪れない。
ふたりの間には、不可視の火花が散っていた。
「葵に何も言わないままってのが問題だって言ってるんだけど?」
「最終的には葵さんにも話すよ」
いつかは話す。
いつ話すかは決めていない。
「はぐらかさないで。貸すの止めるわよ」
「……犯人が許せないって思った。それが半分」
「犯人ぶち殺すってのは同意。それで残りは?」
「僕は殺すとまでは言ってないけど……まぁ、このままだと危ないなって思った」
「危ない?」
愛華の圧力が緩んだ。
『危ない』という言葉が想定外だったらしい。
とりあえず話を聞いてみようという気配を感じる。
蓮はほうっと息を吐きつつ、首元のネクタイを緩めた。
「そ。僕らが幸せになって犯人に見せつけるって葵さんの案は、まぁ前向きな復讐だって思うし、彼女らしいなとも思うんだけど……あとでよくよく考えてみて危険だとも思った」
ようやく近づいてきたウェイターに愛華がコーヒーを頼んだ。
お互い余計なものは注文しない。
用が済んだらさっさと席を離れたいという意図を、相手に見せつけるかの如く。
ウェイターが離れていくのを確認してから、愛華が目で先を促してくる。
「犯人に幸せな僕らを見せつけて地団太踏ませるって話にはさ……犯人がこれ以上何もしてこないって前提があると思う。泥酔させて結婚させて『さぁ困れ、怒れ、悔しがれ、そして泣け』って待ち構えてる奴らからしてみたら、僕らが幸せにしてたらムカつくだろうね。だったら地団太踏む前に次の手を打ってくるんじゃないかって」
「次の手?」
「何をしてくるかはわからない。でも、何もしてこないとは思えない。だったら僕もこのまま指をくわえて待ってもいられない」
ベッドで涙を流す葵と向かい合ったあの日の夜、葵を生涯を守ると心に決めた。
心の中で誓うだけで何もしないというのでは、話にならない。
葵との約束は守りたい。嘘ではない。でも、それ以上に葵自身を守りたい。
そのために葵を裏切ることになるとしても。優先順位の問題だと割り切っている。
「それで犯人捜し? 犯人見つけてどうするの?」
「今は何もしない。葵さんの手前もあるしね。ただ、何かあったときに即座に動けるようにはしておきたい。犯人の正体、あの日に何があったのかの確認。誰の目にも明らかな証拠。ちゃんと手元に確保しておいて、いつでも警察に駆け込めるようにしておきたい」
犯人が何もしてこなければ何もしない。
でも、こんな非常識な手管を使ってきた連中だ。
思考回路が読めない。ある種の狂人と認識しておいた方がいい。
相手のイカレっぷりがどのレベルかは判然としないが、最悪は警察を動かして物理的に処理することも視野に入れておきたい。
とは言え警察は容易には動いてくれない。
彼らを動かすためには、相応の手続きを踏む必要がある。
めんどくさいが、これは仕方がない。
「犯人が確定したら機を見て葵さんとも話すよ。黙ってことを進めたことも謝る」
「……回りくどいとは思わないの?」
「回りくどい?」
回りくどいという愛華の言葉の意図がわからなかった。
穏便に、隠密に。決して事を荒立てないように。
確かに回りくどいという気はしなくもないが……
「ええ、私だったら犯人拉致ってクラッシャーして山奥に埋め立ててやるわ」
「クラッシャー?」
「産廃施設とかにある奴よ。岩とか大体なんでも細かく粉々に砕いてくれるわ」
「サラッと怖いこと言うね」
ジョークの類だと思いたかったが、愛華の顔はマジだった。
『そういえばこの人、建設会社の社長令嬢だっけ?』なんて呆れてしまう。
高校時代から羽振りがよかったような記憶もある。関りがなかった蓮には何の恩恵もなかったし、その点についてケチをつけるつもりもないが。
「親友を勝手に見知らぬ男と結婚させられたのよ。当然じゃない」
「見知らぬ男ってところはあえて否定しないけど、親友が人殺しになったら葵さんが泣くよ」
「バレなきゃいいのよ」
しれっと言われると、たとえ冗談だとわかっていても怖かった。
暗に『葵を泣かせたらお前も破砕してやる』と言われている気がしてしまった。
目の前の愛華を見る限り、あながち蓮の被害妄想でもないように思えてしまう。
――犯人はとんでもない人を敵にまわしちゃったな。
同情する気なんて微塵も起きなかったが。
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