第12話 恋してないけど その2

『だって――僕があおいさんを惚れさせるから』


 穏やかに微笑んだ。

 声が裏返ることはなかったし、顔が強張ることもなかった。

 精一杯の強がりであり、100パーセントの本気だった。


「ど、どうやって?」


 目をパチクリさせながら、おずおずと葵が訪ねてくる。

 恋を知らない自分を惚れさせるという夫。

 あまりに恋を知らなさ過ぎたから、疑わざるを得ないのだろう。


「それはこれから考えます」


「……れん


 残念な話ではあるが、現段階で蓮には葵を惚れさせる具体的な手段なんて思いつかない。

 高校時代だけを考えても、『新堂 葵しんどう あおい』に告白して玉砕した男は数知れず。

 中には男同士であっても『あいつはいい男』と認めるほどの奴もいた。

 でも、ダメだった。誰もダメ。誰であろうとダメ。何がダメなのかわからないくらいダメ。

 だからといって――それは葵が恋できないことを意味しているわけではない。

 ならば諦める必要はなく、諦める理由にはならない。


「先に結婚という結果が出てる状態で惚れさせるなんてズルい気もするけど……まぁ、少しぐらい順番が違っててもいいんじゃないかな。最後に辻褄があってれば」


「だ、だったら私も……」


 蓮は首を横に振って、葵の言葉を遮った。

 彼女が言わんとするところは予想がついた。

 多分『努力する』とかそういう類のワードだ。


「葵さんはありのままでいて。無理強いしたら意味がない。僕がやる。僕が必ず惚れさせてみせる」


 方法はわからない。わからないなら考えよう。試そう。

 何度失敗しても諦めない。絶対に諦めない。

 挑んで挑んで挑んで挑んで――


「それでも、ダメ……だったら?」


 か細い葵の声は、きっとこれまでの人生の積み重ねの末に生まれたもの。

 絶望と自己嫌悪、諦観。蓮が知らない様々な感情や思い出。

 窺い知ることも、推し量ることもできない。

 同情することもできないし、迂闊に『わかる』なんて口にもできない。


「ダメだったら――シェアハウスっていうの? 同居人とか共同生活とか、そういうのはどうかな? でも、どうしても僕のことが無理というなら……離婚もまぁ、視野に入れざるを得ないかと」


 離婚という単語を口にした瞬間、葵の身体が跳ねた。

 あんまり言いたくはなかったものの、最悪の可能性は想定しておかなければならない。

 諦めないとは言ってみても時間は有限。人生をリトライするには早い方がいい。

 それもまた確かな現実であった。夢見てばかりもいられない。


「幸いと言うべきなのか、僕らってまだ二十歳だし。最近は晩婚化とかそういう話もあるし、十年ぐらいの長期戦で考えておけば、何とかなるんじゃないかな……じゃなくて、何とかします。いや、でも……十年は長いか」


 十年たったら三十歳。

 そこまで待たせるのは気が引けるけど、半分で考えても二十五歳。

 これなら離婚しても次の人生を始めるには遅くない。


「蓮」


「ん?」


「ひとつ聞きたい」


「僕に答えられることなら」


 何を問われるかはわからなかったが、何でも答えるつもりだった。

 今はただ、誠実にあろうと思った。


「何で、そこまでしてくれるんだ?」


「何でって」


 曖昧に過ぎる問いだった。

 しかし……その問いは、あまりにもシンプルな答えを有していた。


「だって、こんなのおかしいだろう。私はお前のことをここまで馬鹿にしてコケにして、人生メチャクチャにしたんだぞ。何で、何でそんな私を……」


「好きだから」


「蓮、私は!」


「好きだったから。高校時代から好きだった。初恋だと思う。今も好き。そんな人が結婚してくれるって言うんなら、人生まるごとだって賭けられるよ」


 なんでも答えるつもりだった、誠実に答えると決めていた。だから答えた。

 こんなことを問われるとは思ってなかったけれど、それは筋を曲げる理由にはならない。


「……」


「……」


「……え」


「……何?」


「い、今、なんて?」


「葵さんのこと、ずっと好きでした。憧れでした。今でもずっと好きです。ハッキリ言って今回の話メチャクチャラッキーだってガッツポーズしたいぐらいです……って、カッコ悪いから、あまり言いたくなかったんだけど。こんなタイミングで言いたくなかったんだけど」


 恥ずかしかったけど、口にすればするほど勢いがついていく。

 否。違う。そうではない。自分が恥をかくぐらい、どうでもいい。

 それで葵の罪悪感が少しでも薄まってくれるなら。

 恥なんて、いくらだってかいてやる。


「そ、そんな話聞いてない」


「そりゃ、言ってないし」


「高校時代から私のことが好きだというのなら、その時に――」


「あの時に言ってたら断られてたよな~」


「……」


 以前に葵自身が口にしていた。

『断ることばかり考えていた』と。

 高校時代に蓮が告白しても、きっと断っていた。

 自覚はあったらしく、葵は口をパクパクさせることしかできなかった。


「あ~、ほんとラッキーだなぁ。嵌めてくれた奴はムカつくけど」


「蓮、私は……」


 葵は顔を赤らめ、蒼褪めさせて。

 泣いて怒って照れて笑って。

 目蓋をぎゅっと閉じて、歯を食いしばって俯いて。

 それはまさしく百面相。

 顔を両手で隠してうずくまって、そして立ち上がった。

 同じく席を立った蓮を抱きしめて、そっと耳に囁く。


「蓮、私はお前に恋していない」


「うん」


「恋していない。恋してないけど……愛してる」





『どこの誰かは知らないが、蓮と結婚させてくれたことだけは礼を言ってやりたい気分だ』


 爽やかな笑みを浮かべた葵と、温め直したホットミルクを飲んだ。

 話し合っているうちにすっかり夜は更けていて、ふたり揃ってあくびする。


『じゃ、僕は床で寝るから』


 無理に肉体関係を持つ必要がなくなったから、一緒にベッドで寝る必要もなくなった。

 だから自分は床で寝る。実に合理的な判断を下した蓮の裾に、葵の指が絡まった。


『一緒に寝よう』


『いやいや、何でそうなるの?』


『蓮は私を惚れさせて、それからそういうことをしたいのだろう』


『そうだね』


『なら、私が惚れるまでは蓮は絶対にそういうことをしないということだろう』


『……まぁ、そうなるね』


『うんうん。それならば、わざわざ床で寝る必要はない。だって……それなら蓮は私にとってこの世で一番安全な男ということじゃないか』


『え……えぇ?』


 その発想はなかった。

 

『勝手に乗り込んできて勝手に寝床を取って、家主である蓮を床で寝かせるなんて申し訳が立たない。嫌だというのなら私も床で寝る』


『ないない、女の子を雑魚寝とかさせられないから』


『ならば……あとはわかるだろう?』


 挑発的な笑みにカチンときて同じベッドで寝た。

 これまではどこかで葵に遠慮があった。それはもうない。必要ない。

 売られた喧嘩は買ってやるし、挑発されたら乗ってやる。

 まぁ、寝ると言っても性的な意味ではなく、普通に横たわるだけだが。

 ただ……もともとひとり用のベッドだったし、蓮と葵の体格はそこまで大差ない。

 おかげで物凄く狭かったし、背中合わせすら無理だった。

 壁側に陣取る葵はともかく、蓮は朝起きたら落下している可能性が高い。

 仕方がないから葵を背中から抱きしめる形で、密着するようなポーズをとった。


『蓮』


『何?』


『当たってる』


『生理現象だよ。葵さんはもう少し危機意識を持ってね』


『私は……いつでも構わないぞ。言ってくれれば何だってする』


『だから、そういうのはナシだって。何でもするとか、それ禁止ワードね』


『生理現象なのだろう? 無理は良くない』


 揶揄うように、くすくすと笑う葵。

 その後頭部に頭を埋めて思いっきり吸い上げてやった。

 すると葵は『あ……ああ、それダメ……』なんて喘ぐのだ。

 弱いくせに調子に乗るなと言ってやりたかったが、葵の口から否定の声は出なかった。


 そして翌朝、葵は去っていった。

 昨日駅で会った時とはまるで異なる、憑き物が落ちた顔で颯爽と。

『ゆっくりしていけばいいのに』とは思わなかった。

 なぜなら――ふたりとも一睡もしていないから。

 きっと自宅に帰って思う存分眠るのだろう。ここにいたら昨夜の二の舞だ。

 

「はぁ、僕……頑張ったよね」


 答える者のいない部屋の中で独り言ちた。

 昨晩は控えめに言って拷問だった。天国のような地獄であった。

『何でもする』なんて気軽に口走る美女を抱いて、しかし手を出すことはできない。

 身体は勝手に反応するし、反応した身体に葵は反応するし、もうどうしていいかわからなかった。

 カッコつけた手前、情欲に身を任せることもできない。

 頭がおかしくなりそうなまま、眠ることもできないまま夜を明かした。


「ノーベル恋愛賞とかあったら、僕、絶対取れてるだろ」


 まともに働かない脳みそが、わけのわからない言葉を吐き出した。

 かすかに残った理性が『ないな』と自嘲する。

 そんな賞があるのなら、そんな賞が取れるのなら、葵を悩ませることも苦しませることもない。ついでに自分だって頭を悩ませることもない。


「惚れさせるって……よく言うよ」


 何の根拠もない妄言だった。

 何の成算もない暴言だった。

 でも――あの状況で最も正しい選択肢だった。そう思う。


「これからどうするかは……寝てから考えよう」


 ベッドに倒れ込むと、いい匂いがした。

 昨晩ここに葵が横たわっていたから、その残り香かもしれない。

 疲弊しきった蓮の脳みそが誤認しているだけかもしれない。


――残り香の方がロマンチックだよな。


 変態的思考がロマンに繋がっていることに自覚がなかった。

 スマートフォンが震えた。

 葵からだ。


『ありがとう。愛してる』


 素っ気ないそのメッセージに口元が緩む。

 それは偽りのない彼女の真心に他ならなかった。

 演技ではない。疑いようもない。

 やはり、あれが正解だったのだ。


『僕も愛してる。おやすみ』


 満足感とともに、蓮の意識は闇に落ちた。

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