第11話 恋してないけど その1

 テーブルにマグカップをふたつ置く。

 中に入っているのはホットミルク。

 特段寒い季節ではなかったものの、落ち着いて話をしたいときは暖かい飲み物がよいと思った。


あおいさん、ちゃんと話をしよう』


 同意を得てベッドに入り、手をつないでキスをして、そして葵を身体を重ねようとしたところで、れんは見てしまった。

 何かに耐えようと身を縮こませる葵の姿を。

 何かを恐れるように涙をこらえる葵の姿を。


 何に?

 蓮だ。


 そこまではすぐに思い至った。

 しかし理由がわからなかった。

 もちろん蓮だって今日この時をもって一線を越える気ではいたけれど、どちらかというと葵の方が乗り気だったように思えたから。

 わからない。わからなかったから、やめた。やめて声を届けた。

 恐る恐る蓮を見上げた葵は――泣いた。さめざめと、わんわんと。

 幼子のように泣き濡れる妻をなだめてホットミルクを用意して、今に至る。


――さて、何をどう聞いたらいいものか。


 わからなければ聞けばいいとは思うのだが、どう聞いたらいいのかがわからない。

 じっと見つめていると責め立てているように見えてしまいそうだったので、腕を組んで天井を見上げて思案に耽っていると、ぽつりぽつりと葵が心の内を言葉に表し始めた。


「その……すまない」


「ううん、別にいいよ」


 ぐすぐすと鼻を鳴らしながらの謝罪の言葉に、即座に答えた。

 視界を下ろして葵を見据えた。泣き止んではいたが、葵の視線は定まらない。

 つくづく思う。止められてよかった。あのまま突き進んでしまうよりは、ずっといい。

 これは本音だった。

 妻がどうとかいう前に、嫌がる女性と関係を持つことに生理的な嫌悪感を覚える。

 否、むしろ妻であるからこそ無理強いしたくなかった。


「私は……私たちは夫婦だから、その……私……」


「……」


 虚ろな眼差しのまま言葉を繰り返す葵を、ただ待った。

 焦らせる必要はない。焦らせてはいけない。

 今の蓮に必要なものは真実であり、忍耐だった。


「……私たちは夫婦になったのだから、蓮に抱かれなければならないと思った」


 そういう関係にならなければならないと思った。葵はそう続けた。

『ならなければならない』という言い回しが、どうにも引っ掛かる。

 性的関係を持つために夫婦になる、というのは違う気がする。

 別に夫婦にならなくったって関係を持つ人はいるし、別に咎められることでもない。

 不貞行為の類は別として、婚前交渉なんて珍しくもない。

 少なくとも現代日本では『よくある話』のひとつに過ぎない。


――いや、逆か。


 夫婦になったからこそ、なってしまったからこそ肉体関係が必要となる。

 葵はそう考えていたのだろう。

 熟年夫婦ならともかく、若年でセックスレスは離婚の原因にもなりうるなんて話を聞いたことはある。真偽のほどは知らないし、調べようとも思わないが。


「そんなの、別に焦らなくてもいいんじゃないかな」


 あえて気楽に言っては見たものの、葵の顔は晴れない。

 むしろ余計に曇った。解せない。

 

「でも……」


「でも?」


「蓮が……蓮が」


「僕?」


「……私のせいで、蓮の人生がメチャクチャになってしまった。だから、私は……私にできることは何でもやらなければならないと……償わなければならないと、だから」


――え?


 聞き捨てならない言葉を聞いてしまった。

 いつの間に自分の人生はメチャクチャになってしまったのだろう?

 本人にすら自覚がないのに、何で葵はそんなことを思い込んでいるのだろう?

 やっぱりわけがわからない。わけがわからなさすぎる。わからなければ――聞けばいい。


「その、言いにくいかもしれないんだけど……僕の人生がメチャクチャになったって、どういうこと?」


 反応は激烈だった。

 俯いていた葵が勢いよく顔を上げた。

 

「だって、私たちの結婚は……私を嵌めるために誰かが仕掛けたものだろう? 蓮は巻き添えを食っただけだ。犯人は私を苦しめるためだけに、蓮を、蓮を……私……それで、私は……」


 また俯いてしまった。

 今度は頭を抱え込んでいる。

 おかげで蓮は顔を見られずに済んだわけだが。

 蓮は――どんな顔をすればいいか、よくわからなかった。

 どんな顔をしているか、よくわからなかった。


――その辺の話は先週したけど、納得できてなかったのかぁ。


 さもありなんと思う。

 泥酔の果てに結婚してしまった蓮と葵。

 お互いたまたま高校三年生の時に同じクラスだっただけで、これといった関わりはなかった。

 葵はクラスの中心人物のひとりで、蓮はそこらに生えている雑草的存在。

 普通に考えたら釣り合わない。

 そんなふたりを奸計をもって結婚させるというならば、それは葵を狙った罠に違いない。

 生涯独身がシャレにならない蓮の側からしてみれば、葵と結婚できて損をすることはないのだから。

 だから犯人のターゲットは葵。

 それはふたりの共通認識だったはずだ。

 蓮は思いっきりコケにされた形ではあるが、実際のところどうでもよかった。

 関わり合いにならない人間の評価なんて、心の底からどうでもいい。

 同窓会だって、元々参加するつもりはなかった。

 当時のクラスメートなんて、その程度の存在としか認識していなかった。

 葵はしばらく距離を置きたいと言っていたが、蓮はもう二度と会いたくない。

 そんな相手がどう思おうか知ったことではないし、いてもいなくても同じようなもの。


「別に僕は葵さんと結婚したことを後悔とかしてないし、人生メチャクチャにされたわけじゃないよ。むしろラッキーって思ってるくらいだし。そりゃ、ちょっと路線変更は考えないといけないなぁとは考えてるけど……まぁ、どうにかなるでしょ」


「でも!」


 なおも言い募る葵の、その顔を見て唐突に答えに至ってしまった。


――つまるところ、葵さんが積極的に見えたのは罪悪感の裏返しなのか。


『償う』と彼女は言った。

 蓮の人生を狂わせてしまったことを償いたいと。

 すなわち罪悪感だ。

 罪悪感が葵の情緒を乱し、頓珍漢な方向に暴走させた。

 でも……それは決して彼女の本心ではなくて、最後の最後で拒絶反応が出た。


――ムカつくな。


 考えれば考えるほど腹が立ってきた。

 罪悪感からの行動に出た葵に対してではない。

 ここまで葵を追いつめた犯人に対してである。

 なるほど今は妻となった目の前の女性を苦しめるという目的は、見事に達せられている。

 それを思い知らされて、なおさら腹立たしくなってくる。


――葵さんは関わりたくないと言っていたけれど、これは何か考えないと……ま、それは後でいいな。急ぐことでもない。優先順位を間違えてはいけない。これ、基本ね。


 何よりも一番に考えなければならないこと。

 それは蓮の前で押し潰されそうになっている妻を救うことに違いない。

 他のことは後回しでも構わない。

 

――罪悪感……罪悪感かぁ。


 葵が抱いている罪悪感とは何か。

 蓮を巻き込んだこと。

 巻き込まれた側としては気にしていないのだが、彼女の中では人生を狂わせるほどの大問題扱いになってしまっている。

 なぜ?

 妙な気がする。

 何か引っかかっている。

 食い違っている。噛み合っていない。

 考えて、考えて、考えて、考えて――


「つまり、葵さんは僕との結婚は嫌だったってこと?」


 あまり口にしたくない答えだったが、はぐらかすわけにもいかない。

 葵の行動がおかしかったのは、罪悪感ですらなかったという可能性を無視できなかった。

 

「……じゃない」


「……」


「嫌、なんかじゃない。ドキドキしたのは本当なんだ」


「それは、恋に恋するとかそんな感じじゃなくて、僕のことを好きになってくれてるってこと?」


「そ、それは……でも、嘘じゃないんだ。信じて、お願い……」


 葵の泣き顔を見て、嫌なことを尋ねたと思った。

 先週の段階で彼女は『恋愛感情を抱いてはいない』と答えていたのに。

 あの時はシチュエーションに酔っていた。初めての体験に興奮していた。

 そういうことだろう。

 でも――時間が経って醒めた。冷静になって現実と向かい合った。

古谷 葵ふるや あおい』は『古谷 蓮ふるや れん』に恋をしていない。

 しかし夫婦ではある。自ら肯定してしまっている。

 蓮を巻き込んだことに対する罪悪感にも苛まれている……と思いたかった。

 とにもかくにも、ゆえに――ことさらに夫婦を装った。


 家の中に足を踏み入れた葵は、まず最初に『妻として』するべきことを探した。

 昼も夜も『妻として』食事を作ることに拘った。

 スーパーで蓮の後輩と顔を合わせた時に『妻』と紹介されてホッとした。

 そして夜になって――夫婦のカタチを強固にするために肉体関係を求めた。

 あくまで形式的に、かくあるべきものとして。


――そういうことか。


 その答えに辿り着き――ならば、蓮が告げるべき答えは決まっていた。


「葵さん」


「……」


「葵さん、僕の話を聞いてほしい」


「……うん、ちゃんと聞いてる。何でもする」


「あの……そういう話じゃないから。あと男に『何でもする』とか言っちゃダメだから」


「……すまない。そういうことは、本当にわからないんだ」


――本当でござるかぁ?


 シリアスな状況であっても、その点については疑わずにはいられなかった。

 夫婦になって一週間。

 葵はサムライガールな佇まいとは裏腹に、結構あざといところがあると思った。

 ここまでの話を聞く限りでは、ある程度ワザとやっていた疑いはあるものの、根本的に天然なんじゃないかという疑惑もある。

 本人の中でもごちゃごちゃになっているのではなかろうか。

 今はどうでもいいことではあるものの、いずれちゃんと話をするべきかもしれない。

 傍から見る分にすら、危うすぎる。

 それはともかくとして。


「葵さん」


「蓮……」


 恐る恐る顔を上げた葵に、思いを告げる。

 台本はなかったが、詰まることもなかった。


「葵さん、恋愛しよう」


「え?」


 キョトンとした顔。

 何を言われたのかわからない、そんな顔。

 年齢よりも幼く見えるそういう顔は、すごく可愛らしい。


「普通の人は……まあ、こういう話の普通ってのはよくわかんないけど、大体は恋愛して結婚して、そしてセ……する。セ……なことと結婚は前後することもあるけど、それは今は置いといて。でも、僕らは違う。まず結婚した」


「うん」


「葵さんは僕との結婚なんて不本意かもしれないけど……僕は嬉しかったし、別にいいんじゃないかって思ってる」


「別にいい?」


「そ。ちょっとぐらい順番が違ってたって別にいいじゃない。結婚から初めて、恋愛して、それからそういうことをしよう」


「でも、私は……」


 葵の声が途切れる。

 弱弱しく降られる首に合わせてポニーテールが悲しげに揺れる。

 恋を知らない。

 恋をすることができない。

 永らく彼女の心を苛んでいた心の凪、そして渇望。

 仮初のドキドキに心躍らせて、心迷わせて……それが今日の醜態を招いた。

 今にも押し潰されそうな葵の心中を察することは叶わない。

 でも――


「大丈夫だよ。だって――」


「だって?」


 心細げな子どものような葵の声に、蓮は精いっぱいの笑顔で答えた。


「だって――僕が葵さんをから」

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