第10話 吐息と体温と

古谷 蓮ふるや れん』と『古谷 葵ふるや あおい

 ふたりは夫婦で、部屋にはふたりきりで。

 ふたりともお風呂上がりで、ふたりとも寝間着を着ていて。

 ふたり揃って同じベッドに腰を下ろしていて。

 ふたりはこれから何をするのか。ふたりはこれからどうなるのか。

 ふたりの意見は、答えは既に一致していた。そのはずだった。


 しばらくの間、何もなかった。


 ふたりとも見つめ合うこともなく、虚空に視線を投げかけたまま。

 ただ――耳を澄ませていた。

 時計が時を刻む音と、お互いが唾を飲み込む音。

 他の音は何も聞こえてこない。


「えっと」


「あ、ああ」


「その……まずは手をつなぐというのは……どうかな?」


「……そうだな」


 同意は得た。

 同意は得たが身体は動かない。


――こういう時は僕から動かなきゃダメだろ!


 蓮は己を叱咤しながら、ゆっくりとゆっくりとベッドについた手を葵の方にずらしていく。

 誰にも見つからないように匍匐前進するかの如く。

 1ミリ、また1ミリ……


「あ……」


「あ……」


 触れた。ベッドのシーツでない何か。

 暖かくて柔らかいそれは、きっと葵の手に他ならず。

 ちらりと横に目を向けると、葵はこくんと頷いた。

 ゆっくりと、更にゆっくりと手を重ね合わせていく。

 葵の手を完全に下に敷き、蓮はそっと手を握る。

 反発はなかった。

 ただ、沈黙。


「その……次はどうするのだ」


「……」


――次? 手をつなぐ次って……えっと……


「じゃ、じゃあ……キス……とか?」


「キス!?」


 葵の声が裏返った。

 失敗しただろうかと、心臓が大きく跳ねる。

 落ち着いて、落ち着いて……心の中で何度も唱えた。


「あ、ごめん、ダメだった?」


「い、いや、そんなことはない。そんなことはないが……そうか、手の次はキスか。そうだな」


 うんうんと頷くと葵のポニーテールがゆらゆら揺れた。

 いつも白い彼女の白いうなじが桜色に染まっている。

 見ているだけで、頭がくらくらしてくる。

 吸血鬼でもないのに『美味しそうだな』なんて思えてしまう。


――本当にあってるのか、これで?


 葵が納得している横で、蓮は首をかしげていた。

 何か順番を飛ばしている気がするのだが、頭が沸騰して考えられない。


「キス、キスか……では」


「うん」


 お互いに身体を向かい合わせにする。

 葵の顔は真っ赤に染まっていて、瞳は潤んでいて。唇は艶めいていて。

 蓮の方が身長は高いのだが、腰を下ろすと視線の高さは同じだった。


――キス、キス、キス……ってことは……


 唇と唇を合わせるのだから、顔を近づけなければならない。

 幸いと言うべきかふたりの頭の高さは似たり寄ったり。

 少しずつ顔を近づけていくと、同時に身体も重なり合った。

 薄い寝間着に包まれた、暖かくて柔らかな葵の身体。

 しかし――そちらに意識を傾けることは、ほとんどなかった。

 蓮の視界に入っているのは――


――葵さん、まつ毛長いな……


 普段はあまり意識していない細部までしっかり見える。

 整った顔立ち。きめ細やかな肌。透明感のある瞳。

 自分はいったいどういう風に見えているのだろう?

 ふとそんなことを考えているうちに、違和感。


――あれ?


 しかしてその違和感の答えに辿り着くことなく、ふたりの唇が重なり合う。


「む」


「んむっ」


 葵の唇のあまりの柔らかさに。

 葵の唇のあまりの瑞々しさに。

 葵の唇のあまりの美味しさに。

 頭の配線が瞬く間に焼き切れた。


「む……、うむっ……」


「ん~」


 貪るように唇を合わせた。

 葵もまた蓮と同じく唇を求めた。

 一度火がついてしまったら、もう止められなかった。

 たちまち唇だけで足りなくなって、さらに欲しくなって、舌で葵の歯をノックする。

 はたして閉ざされたドアはすぐに開かれて、葵の舌に迎え入れられる。接触。

 否、もはやどちらが迎えどちらが迎えられたのかなんてわからない。どっちでもいい。

 ただ本能の赴くままに求め合った。そして――


「ふぅ……はぁ」


「はぁ……はぁ、はぁ……」


 唇が離れると、お互いの間を透明な橋が繋ぎ、そして落ちる。

 呼吸を荒げたまま、ただ見つめ合う。

 蓮の瞳には葵がいて、葵の瞳には蓮がいる。


「あ」


 唐突に、違和感の正体に思い至った。


「ど、どうした、蓮。私……何か間違っていたか?」


「いや、そうじゃなくて……」


「じゃなくて?」


「その……目を閉じるの忘れてたな、って」


 漫画でもドラマでも、カップルが唇を重ねるときは目を閉じていた気がする。

 なぜそうするのかはわからなかったし、閉じなくても不都合はなかったが。


「……」


「……」


「その、もう一回する?」


「……うん」


 今度はちゃんと目を閉じた。





 口づけは、もちろん『もう一回』では済まなかった。

 何度も何度も繰り返した。何度繰り返したかはどちらも数えていない。

 いつの間にかふたりは抱き合ってベッドに横たわり、激しくお互いを求めあっていた。


「はぁ……はぁ……」


「……ふぅ」


 お互いの吐息が、お互いの肌を撫で合わせている。

 蓮が上で、葵が下で。ふたりの距離はほとんどゼロで。

 仰向けに寝転がる妻の瞳が蕩けて潤んでいる。

 あられもない姿に強烈な欲求を刺激された蓮は、そのまま覆いかぶさるようにその肢体を抱きしめる。

 咄嗟に身体を抱いて横向けになった葵。

 ポニーテールの側頭部に顔をうずめた蓮は――


「あ……ああ……ダメ、吸うなぁ」


 弱弱しく首を振る葵の頭に腕を回し、思いっきり鼻から空気を吸い込んだ。

 声は――抗っているように聞こえた。求めているようにも聞こえた。

 しばらく続いていた声は――甘く蕩けて蓮を誘うように震えた。

 だから、やめなかった。もっと、もっと欲しい。

 本能に忠実に、そして、そして――何度も何度も葵を吸った。


――葵さんの匂いがする。


「あ……」


 途切れ途切れな葵の声がいい。

 鼻を通って体内を満たす葵の匂いがいい。

 全身で感じる葵の体温が、その柔らかな肢体の感触がいい。


――これが、このすべてが……ぼくのもの……


 とてもではないが正気ではいられなかった。

 何度も何度も葵を吸っていると、だんだん匂いが濃密に変化していく。

 抱き込んだ身体のうちから熱が溢れてくる。どこまでも、どこまでも。

 声が途絶えた唇から、代わりに吐息が漏れている。

 熱い吐息。甘い吐息。拒むような、欲するような。


 ベッドの上でふたりがもみ合っているうちに、葵の寝間着がずらされていく。

 空いている蓮の手が肌を這いまわるように蠢いて、そのたびにぴくんぴくんと身体が跳ねる。

 知らない感触のはずだった。

 でも、知っているような感触でもあった。

 別に誰かに習ったわけでもないのに、どうすればいいのかがわかる。

 頭のうちから囁きかけてくる何者かに導かれるままに、葵を愉しんだ。

 汗にぬめる肌を、言語化し難い感触の手触りを、甘やかな味わいを愉しんだ。

 蓮の手の動きのひとつひとつに敏感な反応を示してくれる。

 そのことに満足感すら覚えながら。

 ずっと葵を吸い続けながら。ずっと、ずっと。ひと時も、余すところなく。


 ぎゅっと抱きしめて、抱きしめ続けて――そして気づいた。だから、気づいた。

 葵が震えていることに。


――え?


 認識した瞬間に、頭の中に冷たい空気が流れ込んできた。

 慌てて身体を離した。そして眼前の光景に愕然とした。

 震えている。そして――泣いている。葵が泣いている。

 未知の体験への恐怖ではなかった。これは、間違いなく拒絶だった。

 自分の腕の中で身を縮こめる妻の姿は――まるで何かに耐えるよう。


 乱れた髪。

 露わになった肌。

 はだけられた寝間着。


 妻は、葵は――耐えている。

 その姿を見て、肝が凍った。


 何に?

 考えるまでもなかった。蓮に、だ。夫に、だ。

 襲う側、襲われる側。状況は歴然としている。


――なんで?


 わからない。

 霞がかった記憶を手繰り寄せてみても、どちらかというと彼女の方が求めてきたように思えるのだが。

 でも、それは、あまり重要なことではないのかもしれない。

 大切なことは、今、目の前にある現実。

 葵が泣いているという現実。

 快活で、清廉で、ちょっとおっちょこちょいで、そして優しい妻が泣いている。


 脳裏を焼いていた狂熱が消えていく。

 昂っていた身体が、心がスーッと冷えていく。

 それは、決して不快ではなかった。


「れ……ん?」


 火照った肌を撫でる空気に違和感を覚えたらしい葵が小さな声を上げ、そして――その濡れた瞳が蓮を捉え、全身を大きく震わせた。


「ち、違うんだ……これは、これは……」


 か弱い声で必死の弁解。泣き濡れた瞳。

 声と仕草との矛盾、自覚のない涙。わからない。

 必死に伸ばされた手にそっと触れて、頬で受けた。

 

――どうして?


 わからない。

 わからないなら――聞けばよい。

 別に会話が通じないわけではない。

 ふたりは獣ではなくれっきとした人間で、同じ言葉を交わすことができるのだから。

 ふたりは夫婦なのだ。だから――葵の頭に顔を埋めて囁いた。


「葵さん、ちゃんと話をしよう」


 少し悲しくて、少しほっとした。

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