第9話 衣擦れと水音と

「落ち着かない……」


 さして広くもない湯船に身体を沈めながら、れんは独り言ちた。

 落ち着かない。実に落ち着かない。身体はお湯で温まっているのに震えが止まらない。

 なぜなら『一緒に寝たい』と願うあおいを前に、首を横に振ることができなかったから。


――いや、葵さんは悪くないだろ。


 ぶんぶんと首を横に振る。違う、そうじゃない。

 今や蓮と葵は夫婦なわけで、夫婦であれば一緒に寝るのはおかしな話ではない。

 二十歳の男女が一緒のベッドに寝て何をするかは言われなくとも理解しているし、お互いに了承済みである。それも含めておかしくはない。

 蓮だって男だ。

 アクシデントとは言え葵と結婚し、葵自身もそれを嫌がっておらず、そしてえっちなことに興味があると聞かされて、これで盛り上がらないわけがない。下半身の分身だって盛り上がっている。こちらの方がよほど素直だ。


 ついにこの日が来た。

 そういうことなのだ。


『据え膳食わぬは男の恥』なんて言葉もある。ご時世的にどうなのかという気はするが。

 ここで葵の申し出を断れば、却って彼女に恥をかかせることにもなる。

 それは間違いない……と思う。

 だから――やる。

 違う。

 蓮は、蓮がしたいのだ。そこを履き違えてはならない。


「……よし」


 心を決めて浴室を出て、身体を拭って寝間着を身に着ける。

 鏡に映る自分に目を向けると、呆れるくらいの動揺が見て取れた。

 大きく息を吸って、吐いて。頭を冷やすために水をかぶろうかと思ったが、さすがにそれはやめた。

 眼鏡をかけると、クリアになった視界の彩度がやけに高い。

 脱衣所を出て、可能な限り平静を装って。


「葵さん、お先に」


 リビングで正座をしていた葵に声をかける。

 そんな声まで、どうしようもなく震えていた。


「あ、ああ。では、次は私が。その、少し待っていてくれ」


「うん」


 葵は油の切れたロボットみたいな挙動で浴室に姿を消した。

 背中に揺れるポニーテールが、心なしか力なく見えた。

 脱衣所のドアが閉まった瞬間、強張っていた蓮の身体から、ほんの少しだけ力が抜けた。


「とりあえず、落ち着こう」


 葵に聞かれないよう小声でつぶやき、冷蔵庫から麦茶を出して呷る。

 冷たい液体が身体に染み透っていくも、全然火照りが収まらない。


――今からこんなんで大丈夫なのか?


 まだ何も始まっていないのに、もうすでに頭も身体も爆発寸前。

 呼吸は荒く、思考は桃色に霞み、股間は痛いほどにいきり立っている。

 

 小さな音が聞こえた。

 そんな気がした。

 葵が消えた浴室から。

 何かがこすれ合うような音が聞こえた。


 蓮が住まうこの部屋は築二十年のアパートで、家賃の割りに暮らしぶりは充実しているのだが、何もかもが完璧とまでは言えない。

 例えば防音。

 先ほど耳にした音が、脱衣所で服を脱ぐ音であることに気づかされた。

 誰が?

 葵だ。

 もともとひとり暮らしを想定した部屋なので、ふたりの人間が暮らすことを想定していない。だから、室内で他の人間が音を立てるなんてシチュエーションになると、その音がもうひとりに丸聞こえになったりする。隣り合う部屋同士の防音性は意識されていても、同じ部屋の内側に対するガードが甘いのだ。

 そのことに、今頃になって気づかされた。

 引っ越してきて一年と少々、この部屋に蓮以外の人間が足を踏み入れたことがなかったから。

 ……まぁ、そんな考察はどうでもいいのだ。重要なのは、重要なことは。


 葵が服を脱いでいる。

 自分の家で。

 ドア一枚隔てた彼方で。


 その事実は、その想像は蓮を激しく動揺させた。

 心臓は風呂に入る前からメチャクチャに打ち鳴らされっぱなしだし、事ここに至っては体内の血液が逆流しているのではないかと思うほどに動揺している。

 せっかく風呂に入って汗を流したのに、すでに全身からおかしな汗が噴き出している。

 だったらさっさとリビングに戻ればいいのだが、人として残念なことに蓮の足は脱衣所の前で釘付けになっていた。

 衣擦れの音は、ずいぶん長く続いている。

 今は五月。春過ぎて夏に近づく頃合いである。

 葵がそれほど何枚も着込んでいるようには見えなかったのだが。

 これはいったいどういうことだろう?

 悩んだところで答えは出ないだろうし、ドアを開ければ一目瞭然だ。

 ……などと考えはしたものの、結局蓮は動けなかった。動けなくてよかったとも思った。

 そうこうしているうちに浴室のドアが開く音がして、次いで水音が蓮の耳朶を打った。


 葵が身体を洗っている。

 蓮の自宅で。よくよく見知った浴室で。

 一糸まとわぬ姿で。

 蓮のために、その肢体を洗っている。


『蓮のために』のくだりは蓮の勝手な妄想だが間違ってはいない。

 間違ってはいないと理解してしまって、さらに頭がおかしくなりそう。


――僕のために、僕のために、僕のために、僕のために……


 後から後から唾が湧きだしてきて、それを何度もゴクリと喉に流しこんだ。

 だから口の中はずっとカラカラで、喉だってずっとカラカラだった。


――鼻歌、聞こえてこないな……


 ふと、そんなことが気になった。

 今日の葵は、名前呼びを始めてからは終始上機嫌で、しばしば鼻歌を歌っていた。

 風呂に入れば気が緩むのが自然な流れだろうから、やはり鼻歌が聞こえてきてもおかしくないはずなのだが。

 まぁ、蓮自身も今日は風呂でリラックスなんてできなかった。

 これから訪れる本格的な夜、そこで行われるアレコレを思えば。

 蓮には性的な経験がない。葵はそもそも異性と交際した経験がないから、きっと性的な経験もない。

 つまりどちらも初めてで、緊張しているのは当たり前。

 頭の中では、理屈ではわかっている。

 わかっていても、動揺を鎮めることは叶わない。

 世の中は、あるいは人間というものは、そんなに単純にはできていないのだろう。


 シャワーの音が聞こえる。きっと身体を洗っているのだろう。髪かもしれない。

 ちゃぽんと水音が聞こえる。きっと湯船で身体を暖めているのだろう。

 しばらく音が消えた。きっと――


 がらり。


 浴室のドアが開く音が聞こえた。

 ビクリと身体を震わせた蓮は、慌ててその場を後にした。

 あまりに焦りすぎていたせいで、足音がやけに大きく響いてしまった。

 築二十年な安アパートの床は、動揺する童貞に容赦なかった。


――ヤバい!


 気づきはしたが、もう遅い。

 リビングに引っ込んで、正座して。

 大きく大きく深呼吸しようとして、失敗した。

 うまく息が吸えない。うまく息が吐けない。

 幸い過呼吸とか、そういう問題には至らなかった。

 目を閉じてまんじりとすることしばし――


「待たせたな、蓮」


 頭上から声が降ってきた。


「葵さん、その……目を開けていい?」


「……大丈夫だ。その、まだ服を着ているから」


「そ、そう?」


 葵の言葉につられて、ゆっくり目蓋を上げる。

 眼前に立っていた葵は――確かに服を着ていた。

 特に珍しくもない、普通のパジャマだった。

 

「……」


「……」


 しばし見つめ合う。

 お互いの黒い瞳が、視線が重なり合い、そしてふたりの頬が朱に染まる。

 

「その、私も座っていいか?」


「も、もちろん。あ、麦茶飲む?」


「いただこう」


 向かい側に腰を下ろした葵は、ずっとそわそわしている。

 蓮が麦茶を持ってきても、手を付けようともしない。

 お互いに沈黙。そして――


「蓮、ひとつ確認しておきたいのだが」


「なんでしょう?」


「その……さっき聞こえた足音なんだけど……」


「ごめん。その……本当にごめん」


 素直に頭を下げた。

 他に言葉が見つからなかった。

 確かにふたりは同意のうえでセックスすると決めた。

 それはいい。それはいいのだが――盗み聞きは良くない。

 わかる。わかっている。わかっていたが、足が動かなかった。

 たった一枚のドアを隔てた向こうから葵が奏でる音が、蓮の耳を通って足を釘付けにしてしまった。

 何を言っても言い訳にもならない。

 ただ頭を下げて許しを請うのみ。


「い、いや別にそれはいい。いや、よくはないのか。いや、そんなこともない。ただ、その、心の準備ができてなかったから……そういうことをするのなら、事前に教えてくれていると、ありがたい、かな」


 おかしなことを聞いた気がした。

 そろりそろりと頭を上げると、葵はそっぽを向いている。

 頬を染め、視線を逸らせながら、途切れ途切れにそんなことを言う。


「いいの? 怒らないの?」


「……どうなのだろう。恥ずかしくはあるのだが、腹立たしくはない。蓮だって男だし、そういう趣味があるのはおかしくないと思うし、私たちはこれから――をするのだから、別に怒るほどのことでもない、ような気がしている」


 葵はメチャクチャなことを口にしている。

 自分のことを棚に上げて、ついツッコみたくなった。

 あと、蓮には別に盗聴趣味なんてない。

 そこは自信の名誉のために訂正しておきたかったが、自分の所業を顧みるとまるで説得力がなかった。

 ちらりと時計を見ると、時刻は夜の十時を差していた。

 

――十時か、こういうのって何時ぐらいからするんだろう?


 深刻な疑問だった。

 高校の保健体育にも性教育の授業はあったが、そんなことは教えてくれなかった。

 だったらインターネットで調べておけよと思わなくもなかった。さっき葵の風呂を盗み聞きしている暇があったら、グーグル先生が教えてくれたかもしれないのに。

 今となっては、何もかもが後の祭りだった。


「蓮」


「葵さん?」


 唐突に声をかけられて背筋がピンと伸びた。

 葵を見つめると――その瞳は潤んでいて、頬はこれ以上ないほどに紅潮していて。

 いつもよりもひと回りほど艶やかに見える桃色の唇から、その言葉は紡がれた。


「蓮、そろそろ……」


 葵は立ち上がって蓮のベッドに腰を下ろし、隣をポンポンと叩いた。


「こっちに……来てほしい」

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