第8話 リベンジディナータイム 延長戦!?

 新妻の手料理を堪能したれんは、まったりと麦茶を啜っていた。

 麦茶。もう何杯目になるかは数えていない。

 キッチンではあおいが食器の後片付けをしている。

『フンフンフ~~~ン♪』なんて鼻歌を歌いながら。

 夕食を作ってもらったのだから、後片付けは自分がやると言ってはみたのだが……笑顔で断られた。  

 解せない。


――楽しそうだからいい……のかなぁ?


 申し訳なさとありがたさが入り混じった胸中に、疑念が灯った。

 いや、まさか、でも、しかし……

 口にするべきか否か迷い、麦茶を口にする。

 もう何杯目になるかは数えていない。





 しばらくして蓮は、いまだに麦茶を啜っていた。

 麦茶。もう何杯目になるかは数えていない。

 テーブルを挟んだ向かい側に葵が腰を下ろしていて、笑顔を向けてくる。

 特に何かをしたわけではないが、彼女の顔を見るにつけて『嬉しそうだな』と思った。

 幸せとはこういうものかと感慨深く噛み締めてはみたものの……しかし、さすがにそろそろ限界だとも思った。色々と。

 ちらりと時計に目を走らせてみれば、すでに午後八時を過ぎている。

 蓮は社会人で、葵だって大学生。どちらも二十歳で立派な成人。

 たかが夜の八時にいちいち目くじらを立てることはないかもしれない。

 蓮が住んでいるあたりは都会というわけではないが決して田舎というわけでもないから、終電には時間がある。まだ慌てるような時間じゃない。

 慌てるような時間じゃないが……念のため、念のために尋ねざるを得なかった。

 昼間からずっと引っ掛かっていた違和感が、そろそろ限界突破しそうだったから。


「えっと、葵さん」


「どうした、蓮?」


 怒らせないように控えめに切り出すと、やはり笑顔が返ってくる。

 その笑顔に思いっきり怯まされる。物凄く、物凄く言いづらかった。

『もう黙ってればいいんじゃね?』と頭のどこかから声が聞こえてくる。

『いやいや、いくらなんでもそれはない』と別のところからも声が聞こえる。

 悩む。悩んだ。悩まされた。妻を前に本当に悩んだ。

 結婚云々とか犯人がどうたらとか語り合うより悩んだかもしれない。

 悩んだ末に、にこやかに微笑む妻に問いかける。


「葵さん、その……そろそろ時間がアレなので、そろそろ帰らないと家族の肩が心配するんじゃないかな、と思うのですが?」


 言った。言えた。言ってしまった。

 然程長いセリフでもないのに落ち着きがない喋りとなったし、『そろそろ』が被った。

 聞きようによっては『いい加減に帰れ』と解釈されかねず、機嫌を損ねかねず、喧嘩になりかねない質問であった。

 でも――スルーはできない。

 蓮が住まうこの部屋はそれほど広くはない。

 ベッドだってひとつしかない。非常に危険な状況であることは間違いない。

 いくらなんでも、そんなことはないと思うが――


「え? 今日は帰らないぞ」


 ここに泊まっていくなんてことは――


「え?」


「なんだその『え?』は? 私たちは夫婦なのだから、別におかしくはないだろう」


 などと言いつつも、葵の頬は僅かに色づいている。

 どう見ても恥ずかしがっているし、無理をしている。

 蓮は蓮でずっと引っ掛かっていた懸念が大当たりだったわけで、心臓が一気に締め付けられるような錯覚に震えた。

 

「……僕らの結婚はご家族にまだ話していないと思っていたのですが」


「ああ、まだ話せていない。すまない」


「謝ってもらわなくてもいいんだけど。今日は帰らないということは、その、ご家族には?」


「それは伝えている」


「どうやって!?」


 話がおかしい。

 結婚していることは話してないのに、男の家に泊まることは話している。

 葵の言い分を纏めるとそういうことになるけれど、それでは辻褄が合わない。


「妙にそわそわしていると思っていたが、そんなことを気にしていたのか」


「気にするよ、そりゃ」


 結婚するまではお互いに清い関係でいようなんて言うつもりはなかった。

 それでも、ふたりの関係を周囲に疑われるようなことはできるだけ避けたいと思っていたし、葵に迷惑をかけることは望んでいない。

 そもそも結婚してから、まだ一週間しかたっていない。

 アクシデントじみたスタートだけに心の準備ができていない。

 いきなり夫の家にお泊りなんて……葵は違うのだろうか?


――女の方が進んでるとか、そういうこと?


「安心しろ。うちの家族には愛華まなかの家に泊まってくると伝えている」


「まなか?」


 聞きなれない名前だ。

 その割には妙に記憶中枢を刺激してくる。

 話の流れから察するに葵の友人と言ったところだろうか。

 同時に口ぶりからは蓮が知っていてもおかしくない人物でもあることが窺える。

 しかし、全く心当たりがない。蓮が眉を寄せると、葵も眉を寄せた。


「覚えていないか? 三年の時に同じクラスだった『小岩井 愛華こいわい まなか』だ」


 私にとっては幼馴染で一番の親友なんだ。

 葵はそう付け加えた。


――三年の時のクラスメート……小岩井って……


「あの派手な女子?」


 頭の中をアレコレ掘り返すと、ようやく思い当たる顔に行き当たった。

 葵と同じくクラスの中心に位置するグループの一員だったはずだ。

 清楚なヤマトナデシコ然とした葵とは対照的に、バリバリにメイクを極めたギャル系の女子だった……と記憶している。背は葵よりも少し低くて、葵よりも喧しくて、葵よりもきつそうな印象があった。

 当然のごとく、蓮とは全くかかわりなんてなかった。


「……って、小岩井さんに電話されたらバレるんじゃ?」


 その問いの返答には僅かな逡巡があった。

 伝えるべきか否か、葵の中でも葛藤があるように見えた。

 葵は目を閉じて深呼吸して、おもむろに口を開いた。


「実は……愛華には、もう事情を伝えている」


「そうなの?」


 驚きの回答だった。

 家族には話せないのに友人には話せる。

『小岩井 愛華』は葵にとってそれほど信頼のおける存在ということになる。

 それだけ信頼できる友人がいることを羨ましく思うと同時に、疑問が浮かび上がってくる。


「あれ、小岩井さんって先週の飲み会の時にいたっけ?」


 まったく覚えていなかった。

 いくら飲み過ぎて記憶が虫食いだらけとは言え、あれほど派手な人間の存在がまったく抜け落ちているなんて。

 蓮の疑問に、葵は首を横に振った。


「愛華は、先週は風邪をひいていて、その……欠席していたんだ」


「ああ、なるほど。覚えてないんじゃなくて元からいなかったのか」


 なんて間の悪い女だと心の中で呆れた。

 体調不良は本人の責任でもなかろうし責めるのは筋違いだろうと思う。

 だから納得納得と頷いて――状況がシャレになっていないことに気づかされる。


「小岩井さん、僕らのことを何か言ってた?」


「思いっきり怒られた。呆れられたし……でも、応援もしてくれると言っていた」


 意外な答えが返ってきた。

 少しずつ甦ってきた記憶を参照すると、彼女と葵はずっと一緒に行動していた。

 あれだけ仲が良いのなら、今回の結婚には猛反発してくるのではないかと思うのだが。


――いや、いやいや……重要なのはそこじゃないだろ。


「ちょ、ちょ、ちょっと待って。ということは、小岩井さんは僕らのことを知ったうえで口裏を合わせてくれるってこと」


「ああ」


「それで、葵さんは小岩井さんの家に泊まるって言って家を出てきてて」


「そうだ」


「僕の家に泊まるつもりだったと」


「つもりも何も……まさか、追い出すつもりなのか? 私は追い出されてしまうのか?」


 葵の大粒の黒い瞳が潤みだす。

 両腕を抱いて、目蓋を伏せて。

 きゅっと口元を引き締めて。


――なんか妙だな。


 今日の朝、駅に葵を迎えに行ったあたりから、ずっと気になっていた。

 何と言えばいいのか……感情のアップダウンが激しすぎるというか。

 情緒不安定に過ぎると言うか。あとあざとい。葵はこんな人間だっただろうか。

 怒ったり喜んだり、そして今とても大胆な言葉を口にしてみたり。

 ひとつひとつの言動が、一本の線で繋がっていない。

 別に酔っぱらっているわけでもないのに、これはいったいどうしたことかと疑問が脳裏をよぎる。


「葵さん、この部屋、わかってる?」


「……」


「ハッキリ言ってふたりで過ごすには狭いし、そもそもベッドがひとつしかない」


「実際に足を踏み入れるまでは知らなかったが、今はもう知っている」


 弱弱しかった態度が一変し、身を乗り出してきた。

 その勢いに押されて、逆に蓮が仰け反らされてしまう。

 今度は強気に押し込んでくる。やっぱり解せない。おかしい。


「……まぁ、ベッドは葵さんが使うとして、僕は床で寝ればいいか」


 来客用の布団なんて用意していないが、五月の気候ならば一晩ぐらい雑魚寝でも問題なかろう。

 今日のところは、それでしのげばよい。

 あとのことは後で考えよう。

 問題の先送りに過ぎないが、選択肢としては間違っていない。

 そう思っていたのだが――


「蓮、私は……蓮と一緒に寝たい」


「……」


「……」


 葵、いきなりの爆弾発言。消え得るような声に沈黙が続いた。

 整ったその顔はトマトもかくやと言わんばかりに真っ赤に染まっていて。

 さっきから汗が止まらない蓮の顔もきっと同じ色に染まっている。


「あの……葵さん、自分が何を言っているかわかってる?」


 葵は無言で首を――縦に振った。

 ポニーテールが大きく揺れる。

 蓮は、目を覆って天井を見やった。


――ちょっと待ってくれ、それって……そういうことだよな?


 狭い部屋に男と女がふたりきり。

 二十歳の男女が同じベッドで寝る。

 告げた本人の顔は羞恥に燃えている。

 誤解する余地はない。ない……はずだ。

 ……というか、相手は自分の妻だった。

 誤解もクソもない。結婚しているのだ。

 だったら、することはひとつしかない。

 でも――


――どうするんだ? いや、どうすればいいんだ?


 葵に尋ねるわけにはいかない。

 他に尋ねられる相手はいない。

 蓮が、自分の意思で決めなければならない。

 そして、その選択に自分で責任を取らなければいけない。

 そこまではわかっていて、そして――


「だったら――」

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