第7話 リベンジディナータイム 本戦!

 とんとんとん、とんとんとん

 リズミカルな音色が、れんを深い闇から浮上させる。

 混濁している記憶、微睡む意識。

 重たい目蓋を持ち上げながら唇を震わせた。


「んあ?」


 茶色のボブカットな女性。

 オムレツと緑茶。積み重なった書類の束。

 良く晴れた青空と、見慣れたはずの街並み。

 いつも隣の席に座っている年上の後輩。

 そして――妻となったポニーテールの元同級生。


――あれ?


 脳内に再生される画像に前後の脈絡はなかった。

 やむ無く自らの意識で並び変えて繋ぎ合わせる。


――えっと……何がどうなっているんだっけか?


 息を吐いて、吸って。記憶を最初から見直していくと――

 買い物から帰ってベッドに横になって目を閉じて。

 体調不良があおいにバレたおかげで気を張る必要もなくなって。

 間近で見張られて物凄く気になってはいたものの……どうやらいつの間にやら眠っていたらしい。

 目蓋を上げると視界がぼんやりしたままで、枕元に置いた眼鏡をかける。

 帰宅するまでは鉛のように重かった身体が、まるで羽が生えたように……とまではいかないにしても、平常モードと呼んで差支えない程度には回復していた。

 病気の類でなくてよかったと心の底から思った。

 せっかく来てくれた妻に移してしまったら、申し訳ないにも程がある。


「~~~♪」


 キッチンでは、その妻こと葵が上機嫌で料理を作っている。

 ポニーテールな黒髪がピコピコ揺れて、鼻歌が聞こえてくる。

 スラリとした長身を包む衣装は意識を失う以前と変わらないものだったが、エプロンがプラスされている。見覚えがないものだから、この家に元からあったものではない。


――持ってきてたのかな?


『そういえば昼飯を作るつもりだったみたいだし』と納得した。

 横たわったまま目だけで葵を追いかける。

 さして広くもないキッチンをリズミカルに踊る長い脚。

 その上には引き締まったお尻があって、更に上へ上へと視線をずらすと、横を向くと豊かに盛り上がった胸が強調されて見える。

 凛とした顔立ちに穏やかな笑みを浮かべながら料理している手つきに違和感はなく、葵が母から正しく薫陶を受けていることが見て取れる。

 漂ってくる香りも決して刺激臭の類ではない。

 俄然夕食が楽しみになってくると――腹が鳴った。

 思いのほか大きく響いたその音が、葵の耳を震わせる。


「ん? 蓮、起きたのか」


 起こしてしまって悪かった。

 そう言葉を続けながら近づいてきた葵は、そっと蓮の額に手を当ててくる。

 滑らかな白い掌は少し冷たくて、心地よい。


「うん、熱はなさそうだな」


「……おかげさまでゆっくり休ませてもらったから。放ったらかしにしてごめんね」


「気にするな。気づかずに買い物に連れ出した私の方こそ申し訳なかった」


 お互いに頭を軽く下げて、ふたりで笑いあう。

 僅かに視線をずらして時計を見ると午後六時に近かった。

 かなり長く眠っていたらしい。


「それにしても……よほど疲れていたのだな。凄いいびきだったぞ」


「別にいびきぐらいって思うんだけど、なんか恥ずかしいな」


「何の何の、すぐ慣れる」


――ん?


 朗らかな笑みを浮かべてキッチンに戻る妻の背を追いながら、心の中で首をかしげる。

 ふたりは既に結婚していて、いずれは寝食を共にすることが当たり前になって。

 そうすれば……まぁ、慣れてもらうことにはなるのだろうけれど。

 何と表現すればいいのだろう、言語化し難い違和感を覚える。

 足元から這いあがって、全身に絡みつくような――


「もうすぐできるから、少し待っていてくれ」


「う、うん。急いでないから、落ち着いてね」


「蓮は心配性だなぁ……って、熱ッ!」


 言った傍からこの有様だけど、あえて茶化すことはしなかった。

 自分のために真剣に料理をこしらえていてくれると思うと嬉しかったし、ちょっとドジなところは可愛らしいと思ったから。


「葵さん、火傷?」


「た、大したことないから」


「晩御飯は後でいいから、ちゃんと水で冷やしてね」


「む、むぅ」


 軽くむくれるその仕草すらあまりにも可愛らしかったので、先ほど忍び寄ってきた不可思議な感覚に思いを馳せることはなかった。


 



「おお……」


 さらに三十分ほどの時を経てテーブルに並べられた色とりどりな料理を前に、蓮は思わず感嘆の声を上げた。


 甘やかな香りが鼻をくすぐってくる肉じゃが。

 たくさんの野菜を乗せた鮭のホイル焼き。

 このあたりは、まぁ……見ればわかる。


「グラタン?」


 ホワイトソースとチーズに満たされた皿はどう見てもグラタン。

 レンジでチンする既製品ではない。あれはあれで美味いと思うが。

 それは置くとして――葵は確か和食を得意としていると言っていたはず。


――グラタンって和食だっけ?


 思いっきりカタカナ四文字な名前からして和食とは思えない。

 葵に視線を向けるとにこにこ笑っている。


「それは自信作だ。まぁ、話は食べてから聞こう」


「そ、そう?」


 あとはナスの煮びたし。

 味噌汁の実はワカメと豆腐。

 そして――つやつやの白米。

 

 肉があり、魚があり、野菜がある。

 色鮮やかで目にも楽しく、栄養バランスにも気を遣っているように見えた。

 この品目の多さは嬉しい。蓮はひとり暮らしを始めて以来自炊を心がけてきたが、ぶっちゃけめんどくさく感じることもあり、一食当たりの皿の数は減少傾向にあったから。


「……聞きそびれていたのだが、蓮は何か食べられないものはあるか?」


「ううん。別にないよ」


「よかった……高校時代にはそんな話を聞いたことはなかったのだが、確認しておかなかったのは私の不注意だな」


「そんな大げさな」


「大げさなものか。アレルギーとかあったらどうするんだ。初めて振る舞う手料理で夫を病院送りにしたなんてことになったら、一生モノの恥ではないか」


「それは、確かに」


「ちなみに私も食べられないものはないぞ。アレルギーもない」


「了解」


 お互い健康で何よりだと思う。

 さて。

 会話に花を咲かせたことに深い意味はない。

 後ろで見ていた限りではあるが、葵の手際はかなり良かった。

 出来上がった料理は色つやも良く、香りも素晴らしい。

 だから――何の問題もないはずだ。

 目の前からは、葵が物凄い期待に満ちた眼差しを向けてきている。

 まるで時間を引き延ばしているような自分が、あまりにも不誠実に思えてくる。


「いただきます!」


「ああ。いただきます」


 覚悟を決めよう。

 葵がメシマズという話は聞いたことがない。

 きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせて箸を動かす。

 葵は動かない。蓮の反応を楽しみにしているのがありありとわかる。

 どれを食べるか悩み――結局、ホイル焼きを選んだ。

 鮭の身をほぐして口に運ぶ。骨は見当たらなかった。


「う」


「う?」


 尋ね返してくる葵。

 自信と期待と、そしてわずかばかりの不安が見て取れた。

 蓮は心のままに感想を言葉に表した。


「う……うまい! おいしいよ、これ!」


 思わずどこぞの料理漫画のように叫んでしまう。

 美味い。間違いなく美味い。味付けは濃くはないが、素材をうまく生かしている。

 テーブルを挟んだ向かい側では、葵が満面の笑みを浮かべている。

 自信はあると言っていたものの、緊張していたらしいと今さらながら気づかされた。


「すごい、本当にすごいな。葵さんってこんなに料理上手だったの?」


「う~ん、まぁ、子どもの頃から母を手伝ってはいたし、色々教わっていたからなぁ。でも、そこまで褒めるほどの腕前でもないと思うのだが」


「いやいや、僕の母さんよりも全然上手」


「ほほう。いつかお会いした時には蓮がそんなことを言っていたとお伝えしよう」


「え、ちょっと待って、それは勘弁して」


「ふふふ」

 

 何やら物騒な未来を招く失言をかましてしまったが、それにしても葵の料理は美味かった。舌がギュンギュン回るほどに。

 葵の腕前を自分の舌で確かめるや否や、他の料理にも興味が湧いて仕方がなくなる。

『現金な奴め』と心の中で誰かが呆れる声が聞こえた。もちろん無視した。

 さっきから気になっていたグラタンを口に運ぶ。


「これ……味噌?」


「ああ。味噌で味付けしてあれば和食という感じがするだろう?」


「なるほど。僕だとこんなの思いつかないな。でも、すごく美味しい」


 蓮も料理を苦手としているわけではないが、得意としているわけでもない。

 実際のところ、それほどレパートリーは多くない。

 失敗して材料を無駄にするのも腹立たしいので、ついつい無難なものを選択しがちだ。

 こうして葵が作ってくれなければ、こんな料理は一生口にする機会がなかったかもしれない。


「そんなに美味そうに食べてもらえると嬉しくなってくるなぁ。お代わりもあるから、いっぱい食べてくれ」


「うん。僕ばっかり食べてるけど、葵さんも食べてね」


「もちろんだ」


 葵が手にした箸が、悠然と宙に舞う。

 昼間に気づかされたとおり、彼女はとても健啖で。

 かなり多めに用意されていた夕食は、瞬く間にふたりの胃に収められていった。





「ごちそうさま」


「お粗末さまでした」


 葵が入れてくれたお茶を啜ってほうっと息を吐いた。

 

「こんなに楽しい食事は久しぶりだな」


 ふと、そんな言葉が口をついた。


「そうなのか?」


 首をかしげる葵に頷き返す。

 頭に合わせてポニーテールが揺れた。


「別に不満に思ってたわけじゃないんだけど、こうしてふたりで食べると……今までの晩飯はやっぱり味気ないなって」


 栄養補給のための餌とか、口に入りさえすればなんでもいいとか。

 日々の食事をそこまで蔑ろにしてきたつもりはない。

 これといって大した趣味もない蓮にとっては、食事は数少ない楽しみのひとつであることは間違いなかった。

 ひとりで飯を食らう気楽さを堪能したこともあるし、否定する気もない。

 それでも――ふたりで囲む食卓は楽しい。そして美味しい。


「そっか……そっかぁ。これからはこんな機会はいくらでもあるから、私ももっともっと腕を磨くから、楽しみにしていてくれ」


「一緒に食べるだけじゃなくって、一緒に作るのも楽しそうだ」


「それはいいな。どんなものを作ろうか」


「う~ん」


 問われて悩む。

 楽しい悩みだった。


 葵と共に過ごす未来には悩みがたくさんあるのだろうと思っていた。

 そして今日、そのすべてが苦しいものではないことを思い知らされた。

 嬉しい悩み、楽しい悩みも、きっとたくさんあるに違いない。

 葵と一緒なら、何と言うこともない日々の食事でさえ、これほどに楽しいのだから。

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