第5話 不満げなランチタイム
カチャカチャと食器がぶつかり合う音が、さして広くもない部屋に響く。
あとは、ひたすらの静寂。やや重苦しいくらいの沈黙が室内に横たわっている。
ひととおり書類のチェックを終えた
――さて、どうしてこうなった?
なんとも気まずい雰囲気に押し潰されかけながらも、蓮は心の中で首を捻る。
テーブルの向かい側では憮然とした表情の
妻である彼女が美しい女性であることは普段なら喜ばしいことではあるのだけれど、いったん怒らせると迫力が凄まじいことになると思い知らされた。
これは早急に原因を究明して、解決を図らなければならない。
味のしない料理を咀嚼しながら、蓮は強く強く誓った。
幸いと言うべきか、さして時間は経過していないし、事の経緯はそれほど複雑なものではない。
順を追って検証していけば――原因に辿り着くことは容易なはずだった。
★
頭を突き合わせて書類を挟んでアレコレ話し合って。
ふと気が付けば昼を少し過ぎてしまっていた。
ふたりとも時計に目を向けていなかったが、腹時計が教えてくれた。
どちらの腹時計かは、あえてここでは語らない。それはきっと本題ではないから。
『よし、昼食は私が――』
頬を赤らめ腕まくりして気合を入れる葵に、反射的に蓮は待ったをかけた。
『もう準備してあるから』と言葉を添えて。別に深い意味はなかった。
初めて妻を招くのだから、夫として家主として歓待すべきだろうと。
その程度の思惑に過ぎなかった。繰り返すが深い意味などなかった。
意表を突かれたらしい葵は大きく目を見開いて『あ、ああ……まぁ、別に私は……』などとモゴモゴと言葉を飲み込み、あれよあれよという間にしゅんとしてしまった。
そして――テーブルに並べられた料理を片っ端から口に放り込んでいったのである。無言で。
葵の所作は良家の子女を思わせる洗練されたものだったが、同時に彼女はとても健啖な女性であり、料理を用意していた蓮が心の中で『足りなくなったらどうしよう?』と戦々恐々とするほど。
そんな古谷家の本日の昼食は以下のとおり。
ご飯:白米(炊飯器で炊いただけ)
主菜:オムレツ(蓮のお手製。中身は炒めた挽肉と玉ねぎ)
副菜:サラダ(野菜を切って盛りつけただけ。ポテトサラダは自作)
汁物:コーンポタージュ(買い置きの既製品)
初めて葵を迎えて食べる初めての食事なのだから、これはもう一生の思い出になるほどの気合入れた献立を……と考えたものの、平日は仕事が忙しくてあまり時間に余裕がなく、これまでに手掛けたことがないメニューは失敗する可能性を考慮すると除外せざるを得ず、そもそも葵の好き嫌いを知らないという事実に気づいたのが木曜日の夜。
スマホを駆使して本人に尋ねるべきか否か迷った末に『今さら本人に尋ねるとか……ちょっと恥ずかしいかも』とチキンな判断を下してしまった。
結局のところ手元には無難な選択肢しか残らず、葵が食事そのものには不満を持っていないようではあるとは言え、蓮としては決して満足できる結果ではなかった。
まぁ……実際に自ら確認した限りでは、幸いなことに失敗はしていない。
普通に食べられるものができている。普通過ぎて面白くはないが。
決して葵が蓮に気を遣って口を閉ざしているというわけではない。
しかし――沈黙が重い。
――う~ん。
白米を口に運びながら妻の様子を窺うと、機嫌が回復する見込みはなさそうだった。
原因を推測することは難しくはない。事実を並べ立ててみれば、割と一目瞭然。
そもそも食事云々の話題が出る前は上機嫌だったのだから、どう考えても――
「あの……葵さん」
「……どうした、蓮?」
先に話したとおり、お互いに名前を呼び合い、見つめ合い。
そして照れ合って視線を逸らす。たとえ機嫌が悪くとも。
ふたり揃ってチラチラ様子を窺いあって、
「こんなことを聞くのは今さらなんだけど、お昼ご飯の用意とかしてくれてたりした?」
葵もまた今日のために色々下ごしらえとかしてくれていたのだろうか?
順序だてて状況を遡ってみると、彼女に昼食を作らせなかったところが根っこのように思えた。正確には他に思い当たるところがなかった。
彼女が持参したバッグは大型サイズで、中に料理の類が入っていてもおかしくはない。
緊張していたせいか、葵の話を聞く前に自己都合を優先させて行動に移してしまった。
あれは――後から振り返ってみれば、あまり良くなかったように思える。
対人、特に対女性とのコミュニケーションの経験が不足しすぎていて悲しい。
「用意はしてきていなかったが、作るつもりではいたのだ」
「あ、やっぱり」
葵が料理を振る舞ってくれるはずだった。
それを遮ったことに彼女は不満を抱いている。
気を利かせたつもりで、気が利いてなかった。
新妻の手料理を味わう機会を逸して、蓮にとっても残念無念。
「その……気が利かなくてごめん。また今度――」
「ああ。夕飯は私が作るぞ」
「うん……うん?」
少し機嫌がよくなったらしい葵の声は、いつもと変わらないハキハキしたもので。
自信満々に胸を張ってもりもり飯を食う妻の言葉に頷いて。
蓮はまたもや首を捻った。もちろん心の中で。
――夕食? まぁ、いいか。
「それにしても……蓮は何でもできるのだな」
「え、いや、そんなことはないと思うけど」
かすかに浮かんだ疑問は唐突な賛辞にかき消された。
何の前触れもなく、いきなり褒められると戸惑いを覚える。
普段褒められ慣れていないだけに、気恥ずかしさも相応で。
素直に受け止めればいいものを、余計な否定を入れてしまう。
……そんな自分に苛立ちすら覚える。
「そんなことはあるぞ。料理ができて、掃除ができて、洗濯もできて……なぁ蓮、私はいったい何をすればいいのだ?」
「何って……」
問われて答えに戸惑う。
ふいに先週彼女が口にした言葉が思い出された。
すなわち『結婚とは何をするのだろう?』と。
あの時は何やかんやあって有耶無耶になっていたと記憶している。
さて、結婚である。改めて――結婚とは何をするのだろう?
当面の間はひとつ屋根の下で共に暮らすシチュエーションにはならないとしても、いずれはその時を迎える。迎えてもらわないと困る。
そして、その時を迎えて蓮は、葵は何をどうするのか。
――う~ん。
ちょっと愚痴めいた葵の言葉を反芻する。
蓮はひとり暮らしをしているから、ひとりで暮らすに必要なことは概ね自分でできる。
そこに葵が加わったとしたら、いったいどうなるか。
単純に考えれば、労働量が二倍になるだろうと推測される。
葵は女性ではあるが、蓮と同じ人間だ。
共に生活するにあたって、そこまで極端な差異が生まれるとは思えない。
……まぁ、そこは同居する前にちゃんと話し合っておく必要はあるだろうが。
さて、労働量が二倍になる。これをふたりで分担する……ことになるのだろうか?
――なんか、僕だけでもできそうな気がするな。
ぶっちゃけてしまえば、それが本音だった。
葵はそのあたりを察して、自分の役割を求めているのかもしれない。
何もやることがないままでは肩身が狭かろうとも思う。
――でもなぁ……
素直に頷けない自分がいることも、また事実だった。
葵は現在大学二年生。講義やら試験があるし、いずれは就職活動もある。
無事に就職できたって、しばらくの間は気忙しい日が続くだろう。
そんな彼女に家事を押し付けるというのは、どうにも気が引けた。
自分だけでは手に負えないならともかく、想像できる範囲では葵に負担をかけるほどではないように思えるから、余計に気が乗らないのである。
「まぁ、様子を見ながら少しずつ考えていこうか」
「むぅ」
葵の懸念が無視できないものであることも、わからなくもない。
仕事がなさすぎると手持ち無沙汰になって、モチベーションが迷子になる。
職場にもそういう人間がいるから、イメージすることは容易だった。
上司が仕事の割り振りに四苦八苦している姿を、この一年の間に何度も見た。
葵を、そういう目に合わせたいとは思っていない。
「難しいな」
「そうだな」
ため息をつき、葵が同意する。
労務管理の類は専門外だが、そうも言ってはいられない。
これもまた結婚の――家族を持つことで発生する問題のひとつだ。
そしてこの手の問題については指示を与えてくれる上司に相当する存在はおらず、家族の中で解決しなければならない。
……とは言え、やはりこれも今すぐどうにかせねばならない類の案件でもない。
「焦らずに行こう」
あえて口にした。
自分に言い聞かせるように。
「ああ、頼りにしているぞ」
「僕の方こそ、頼りにしてるし」
ふたりで笑みを交わし合い、すっかり見慣れたはずの見慣れない自室を見回した。
妻である葵がいる自室。新たなる日常の光景を。
さて。
この部屋は男ひとりで暮らす分には十分すぎるほどに広い。
持て余すほどではないものの、物で溢れるということはない。
でも――ふたりで、特に男と女で暮らすには狭い。先ほどの話し合いでも議題に挙げたとおり。
いずれはここを出ることになろうが、今のところは予定がない。
葵の就職を始め、あれやこれやが決まってから改めて考えよう。そういう話になっていた。
その点については、すでに同意が得られている。
だから葵がここに寝泊まりすることはないし、きっと帰るに違いない。
そう思っていた。
だから、夕食がどうこうと言われても特に問い詰めるつもりはなかった。
かつては『
美貌が云々は置くとしても年頃の女性であることは間違いなく、その気質は見た目そのまんまと言ってもいいほどに善性で清廉としており、いたって常識的な人柄をしている。
ゆえに思想信条や倫理観も同年代の女性と大きく外れることはない。
そう思っていたのだ、この時は。
後に――蓮は楽観視し過ぎたこの時の自分の迂闊さを、思いっきり後悔することになる。
ちなみに、さほど未来の話でもなかったりする。
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