第4話 イチャイチャしてばかりもいられない
息を弾ませて、ポニーテールを乱して。
ついでに衣服も割と目のやり場のない状態で。
自分から要求したはずの名前の呼び合いで我を忘れ、あられもない格好で夫である
視線を逸らす蓮を見て、自分の姿を見下ろして――頬を赤らめて、そそくさと身づくろいを始める。
こほんと咳ばらいをひとつ。
――迂闊すぎるんだよなぁ。でも、そこが可愛い。ギャップがいい。
蓮は見ないふりをしながらも、しれっと横目で妻の様子を窺っていた。
自分しか知らない、自分しか見られない彼女の姿。
憧れてきたサムライガールな『
それはともかくとして。
彼女が平静を取り戻したのを確認して白々しく向き直り、あらかじめ用意しておいた紙束をテーブルに置いた。
「うん? なんだこれ?」
「書類」
「それは見ればわかるけど、何の書類?」
何の書類と問われて、腕を組んで天井を見上げた。
どうにもひと言では言い表しづらい。
結局ありのままを伝えることにした。
「う~ん、まぁ、色々」
「ふ~ん」
手櫛で髪を整えた葵は、気乗りしなさそうに書類に目を通していく。
妻の前に積み上げた紙束は、蓮がこの一週間のうちに窓口から拝借したりインターネットから印刷したりしたものだった。調べ始めると止まらなくなり、アレもコレもと準備しているうちにかなりの枚数になってしまった。ちょっと反省した。
「転入届と住民票の申請?」
「うん」
怪訝な眼差しを向けてくる葵に頷きはしたが、内心では首を捻っている。
グーグル先生に教えてもらった書類をダウンロードはしてはみたものの……ひととおりチェックしてみた結果、大半は現状に即していないと思われた。
同時に、今の自分たちはいまだまっとうな夫婦ではないのだとも思い知らされた。
「率直に聞くけど……葵さん、ここには住めないよね?」
「そんなことはない」
葵は即座に答えを返してくれた。
やや食い気味なほどの勢いで。
その潔さを嬉しくは思うものの、やはり素直に肯定はできない。
蓮たちが今腰を落ち着けているこの部屋は、元来ひとり住まいを想定したものだ。
物理的に複数名が寝泊まりできるかと問われれば答えはYESだとしても、現実的に日常生活を送る上で不都合がないかと問われればNOと答えるしかない。
「葵さんのお家がどうなってるのかわからないけど……今、葵さんって自分の部屋はある?」
葵は無言で首を縦に振った。
予想どおりと言うべきか、この年齢の女性が自室を持っていないとは想像できない。
「じゃあ、葵さんのご両親は? 一緒の部屋にふたりで?」
「いや、部屋は別々だな」
「だよね」
蓮の記憶にある限り、実家の両親は別に部屋を持っていた。
自分と妹と、そして両親がそれぞれひと部屋ずつ。部屋の配分に疑問を持ったことはなかった。
話の流れを先読みしたらしい葵は、やや慌て気味に強がりを口にする。
「わ、私は別に蓮と同じ部屋でも」
「プライバシーがなくなるよ。ってゆーか、着替えとかも丸見えになっちゃうけど」
「……すまない、また考えなしに口走ってしまった」
しゅんとしてしまった葵に申し訳なさが募るが、考えるべきことはちゃんと考えなければならない。
四六時中同じ部屋で過ごすことに耐えられるか否か。
愛し合うふたりはいつも一緒。それもまた夫婦のひとつの形であろうとは思う。
思いはするが……現実味があるかというと、首を横に振らざるを得ない。
蓮としては、そして葵としても。
――生着替え見放題は魅力的なんだけどなぁ……
さすがに本音を口にするとドン引きされそうだったので、我慢した。
口にした上で実行に移されると反応に困る点も含めて。
「住居を変更しても住民票を移してない人って結構いるし、婚姻届の葵さんの新しい本籍地は僕と一緒でここになってるはずだけど、その辺は臨機応変ってことで当面は現状維持でいいかなと思ってる。こうなった以上いずれは引っ越したいけれど……これも数年後ってところかな」
「なぜだ?」
「葵さん、大学を卒業した後の予定って考えてる?」
問いかけた瞬間、葵は軽く眉を寄せた。
『住居の話をしていたのに、いきなり何を』と表情が雄弁に語っている。
「祖父からは道場を手伝ってほしいと言われているが、私は何か別の仕事をしたいと思っている」
『具体的なことは何も決めていないがな』と葵は続けた。
そんなものかもしれないと蓮は頷いた。
大学卒業後の学生の進路や就職事情についてインターネットで調べても詳細は見えてこなかったが……就職云々を意識し始めるのは、大学の三年生になってからがメインであるようには感じられた。
現在二年生の葵がそこまで考えていないのは、別におかしくはない。
「となると、新しい家は葵さんの職場との兼ね合いも意識しておいた方がいいかなって」
「別にそこまで気を遣ってもらわなくても」
「いやいや、そこは気を遣うから。家と職場の距離って大切だよ。通勤時間とか経路とか。毎日のことだからこそ、できるだけ負担を減らしておくべきなんだ。その時になったら、お互いにとって条件の合うところを一緒に探そうよ」
就職して一年と少々ではあるが、そのあたりは痛感させられている。
通勤に限った話ではなく、毎日積み重なる労苦の数々は馬鹿にならない。
「ふむ……蓮の言うとおり、なのだろうな」
「まぁ、引っ越しを先送りにするとしても、差し当たって今のことを考えると……名義変更がネックになるんだよなぁ」
「名義?」
葵の疑問に蓮が首を縦に振る。
「住民票、保険証、銀行口座、免許書、パスポート。あとマイナンバーカードとかもかな」
指折り数えて列挙する。
調べはしたのだが、何か見落としがあるようにも思える。
対面に腰を下ろしていた葵は露骨に眉を顰め、ぼすっとベッドに背中を預けた。
「結婚は婚姻届を出すだけで成立したのに、そのあとの方が色々と面倒だなぁ」
「手続きが面倒なのは同意だけど、全部大切だよ」
「う~ん、蓮は大人だ」
葵の嘆息に苦笑を返す。
蓮だって高校生だったころは、こんなこと考えもしなかった。
書類だって名前は聞き知っていても実生活との関連が見えないものは多い。
「親にバレないようにできるかな?」
「……わからない」
素直にそう答えざるを得ない。
結婚に至った状況が特殊すぎるし、手続きがわからないからと言って誰かに尋ねるわけにもいかない。
蓮は誰にも話してはいない。家族にも、上司にも。数少ない友人にも。
秘匿する事情は主に葵の家族バレを防ぐために過ぎないし、社会通念上は伝えるべきなのだろうが……蓮にとってはそんなものよりも葵の心情の方が、よほど大切だったから。
――出来損ないっていうのは違う気がするけど。
それは先週いきなり結婚してしまった葵と語り合って別れ、家に帰ってからもひとりで悶々と考えていたことだった。
裕福な家に生まれ、家族の愛を受けて育った葵。
友人に恵まれ、何ひとつ不自由してこなかった葵。
彼女は恋心を抱くことができなかった点を持って自らを『出来損ない』と自嘲するけれど……身も蓋もないことを言えば『考えすぎじゃないの?』と、そんな疑問が脳裏から消えてくれない。
ぶっちゃけた話、単に出会いに恵まれなかっただけのような気もするのだが……彼女は交友関係が広く、そして多くの異性から告白を受けてきた身でもある。
その告白すべてに否を唱え続けてきたのだから、葵の言葉にも一理あるのかもしれない。
蓮は恋をしたことはあるものの、そんな悩みを抱いたことはない。
だから葵の心情を、その苦しみを正確に理解することもできない。
でも、それでも……葵を頭ごなしに否定することもできないし、したくない。
――ま、どうにでもなるだろ。
書類なんて急ぎで提出する必要はない。
葵と両親の対話が終われば大手を振って処理できるものばかりだし、彼女に決意を迫るつもりはない。
永らく葵を苦しめてきた内心を、彼女自身が家族に吐露するときはいずれ来る。
決して急かす真似はしない。『待つ』そして『支える』と決めたのだから。
いくばくかの疑念はあろうとも、ここを絶対に翻意するつもりはなかった。
「あとは免許証にパスポートか。どちらも持ってないな。あ、免許と言えば、新堂流なら免許皆伝だぞ」
蓮の胸中に気づいていない葵が思いっきり胸を張った。
それでいい。妻には笑顔でいてもらいたい。心の底からそう思う。
まぁ……今この状況で『すごいだろう』と満面の笑顔で胸を張られても、困るのだが。
結婚と剣道の関係は理解が及ばないし、汗ばんだ肢体が白のブラウスから透けている。
どっちにせよ、すごく困る。指摘するのもはばかられるし、もっと自覚持ってほしい。
「こほん、免許はともかくパスポートなんて海外に行かないなら使わないしね」
「修学旅行も国内だったしな、私たち」
「そうだったね」
葵はにこやかに笑みを浮かべるが、蓮は苦笑するに留まった。
あの手のイベントを楽しめるか否かは、交友関係が大きく影響してくる。
葵は楽しめる側で蓮はそうではなかった。
「あの頃は蓮と結婚するなんて考えてもみなかったなぁ」
「同感。まさかこんなことになるとは」
まさしく青天の霹靂というほかない。
修学旅行は高校二年生の秋。
蓮と葵が同じクラスになったのは、高校三年生の春。
そして一年を同じ教室で過ごし、今は高校を卒業してさらに一年と少し。
長いように感じられてその実短い期間のうちに、ふたりの関係は激変してしまった。
蓮の前でだらしない格好をしている彼女は既に『新堂 葵』ではなく『古谷 葵』なのだ。
ボケている場合ではない。実感して、自覚しなければならない。
かつての友人を恐れている葵。
自分との結婚に胸を高鳴らせている葵。
えっちなことに興味津々な葵。
短い間に多くの新しい『葵』を目にしてきた。
彼女を妻にすると誓った。幸せにすると誓った。
「……責任重大だな」
「唐突にどうした、蓮?」
「ううん、何でもない」
己の双肩にかかる重みを思い知らされて、改めて心に強く刻み込んだ。
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