第3話 初めにやらなければならないこと

 冷蔵庫から出した麦茶をコップに注いで部屋に戻ると、あおいは蓮のベッドに腰を下ろしていた。

 ぽんぽん、さわさわ。

 ベッドの触り心地を確かめているように見える。他に解釈のしようがなかった。

 微かな微笑を浮かべる彼女の横顔はとてもうれしそうで、軽やかな鼻歌らしきものがれんの耳をかすめた。

 上機嫌だ。


新堂しんどうさん、これどうぞ」


「……」


 返事はなかったし、向けられる視線は厳しかった。

 コップに手が伸ばされなかったので、やむなくテーブルに置く。

 どう見ても不機嫌だった。解せない。さっきの笑顔は何だったの?

 山の天気よりも変わりやすい表情と心情に疑問は募る一方だが、余計なことを口にすることなく対面に腰を下ろして首を垂れる。


「えっと……ようこそ僕の家へ、新堂さん」


 頭を上げると――葵が俯いたまま、わなわなと震えていた。

 噴火直前の火山か、あるいは台風直前の空模様を思わせる不吉な気配を漂わせている。


「……めだ」


「え?」


「もうダメだ、我慢ならん。限界だ!」


「ええっ!?」


 まだ何も話していないのに。

 先週誓い合ってからたった一週間で破綻とか。

 そういえば『成田離婚』なんて言葉を聞いたことが……

 暗澹たる様々な思いを脳裏に錯綜させる蓮に、テーブルをバンと叩いて葵が迫る。


古谷ふるや、その呼び方はやめてくれないか?」


「え?」


 葵の口から飛び出したのは、想像とは全然違う言葉だった。

 葵は――蓮の妻は己の豊か過ぎる胸に手を当てて、口を開いた。


「私たちはもう結婚しているのだぞ」


「そ、そうだね」


「つまり私は『古谷 葵』なのだ。わかっているのか?」


「そうですね……」


「わかっているのなら、なぜ何時までたっても『新堂』と呼ぶのだ?」


「それは……」


 照れくさいから。

 答えは実にシンプルなものであったが、そのまま口にするには羞恥が勝った。

 結果として、自分自身でもダメ出ししたくなるような言い訳が本音に取って代わる。


「でも、僕も古谷だし。ふたりとも古谷だと、色々ややこしくならない?」


「古谷」


「……はい」


「いちいち言うまでもないと思っていたのだが、もっと適切な呼び方があるだろう?」


 噛んで含めるような口ぶりだった。まるで子どもと相対しているかのよう。

 ……ただし、向けられる視線が鋭すぎる点を除けばの話。圧力が半端ない。

 とてもではないが先週あれだけ憔悴していた女性と同一人物には見えない。 

 そして――彼女の言わんとするところは、ハッキリしている。

 実のところ蓮も答えにはすでに辿り着いていた。割と早いうちに。


「要するに、名前で呼べと。そういうことですね?」


「そういうことだ。わかっているじゃないか。なのにいつまでたっても『新堂』『新堂』と……まるで当てつけみたいじゃないか」


――それで機嫌悪かったのか。


 ようやく得心が行った。葵の言うことはもっともだと思う。

 思いはするのだが……名前呼びなんて、それは彼女を『古谷』と呼ぶよりさらに難易度が高い。これまで家族以外の女性と全然縁がなかっただけに心理的なハードルが高すぎた。下を潜り抜けられそうなほどに高い。

 しかし、この状況を打破するには他に手がないことも一目瞭然で。


「じゃ、じゃあ……呼ぶから」


「うむ」


 葵はベッドに腰を下ろしたまま堂々と腕を組んで、蓮が自分を呼ぶのを待っている。

 蓮はテーブルを挟んで向かい側に正座したまま、胸に手を当てて大きく深呼吸。

 目を閉じて……息を吸って、吐いて、また吸って――覚悟を、決めたッ!


「……そんなに緊張することか?」


「……さん」


 不満たらたらな葵の声に、蓮の声が重なった。


「む?」


「あ……葵さん。葵、さん。葵さん?」


 つっかえながら名前を呼んだ。呼び続けた。

 顔が熱い。火が出そうなほどに。

 口はカラカラ、頭はクラクラ。視界はユラユラ。

 それでも、ひと言ごとに舌はだんだん滑らかに回り始める。


「葵さん、葵さん、葵さん……うん、こんな感じでいい?」


――呼べた。やった!


 心の中で思わずガッツポーズを決めた。

 大きな達成感とともに目を開けると――当の葵は自分の手のひらで顔を覆ったまま、ベッドを転げまわっていた。

 ポニーテールが背中に巻き込まれてぐちゃぐちゃになっているが、本人は頓着する様子がなかった。


「えっと……葵さん、何やってるの?」


 冷静沈着で豪胆なサムライガールだったかつての彼女はどこにもいない。

 蓮の目の前にいるのは、ただの可愛い女の子だった。


「恥ずかしい……なんだこれは、いや、嫌じゃないんだけど。男子から名前呼びされるの初めてじゃないんだけど。なんだこれ、なんなんだこれは!?」


 メチャクチャ悶絶していた。しかも早口。

 要求しておいてこの反応、ちょっとどうなのだろう。

 理不尽を感じなくもないが、自分の呼びかけが彼女を動揺させているのだと思うと、これはこれで悪くない。


「葵さん、葵さ~ん」


「う、うわ~~~~~~~~っ」


――顔は隠すくせに、耳は塞がないんだよなぁ。


 真っ赤に色づいた耳を見つめながら、しばし葵の名を連呼した。

 そして――


「ふぅ。汗をかいてしまった」


 ようやく落ち着いて麦茶で喉を潤した葵は、手のひらで風を胸元に仰ぎ入れている。

 ゴロゴロと転がっているうちに胸のボタンがひとつ外れており、空いた手でそこをつまみ上げている。

 まるで何事もなかったかのように。

 今日の葵はパンツルックだが、もしもスカートだったら裾がえらいことになっていたに違いない。


――ワザとか? ワザと誘ってるのか?


 危うい胸元に自然と視線が引き寄せられてしまう。引力が凄まじい。


「機嫌が治って何よりです」


 バカ正直に聞くのは畏れ多かったので、当たり障りのないことを口にする。

 葵は笑顔で大きく『うむ』と頷いたので、深く突っ込むのはやめにした。


「うんうん。私たちは夫婦なのだから、こうでなくてはな。なぁ、


「……」


 瞬間、蓮は自分の顔から表情が抜け落ちたことに気づかされた。

 聞き捨てならない音を耳が拾ってしまったから。


「古谷?」


「こほん……えっと、葵さん」


「どうかしたか?」


「この家に『古谷』はふたりいるよね?」


「……」


「紛らわしいと思わない?」


「……でも、古谷が私のことを『葵』と呼んでくれたら区別はつくと思うのだが」


「何か言った、葵さん?」


「……」


「……」


「う~~~~~~~~~~~あ~~~~~~~~~! わかっているさ、ああ、わかっているともさ!」


 思いっきり感情を激発させた葵を前にしても、蓮はいささかも動揺することはなかった。

 今回に限って言えば、蓮は既にノルマをクリアしている。

 あとは葵の問題なのだ。


「呼べばいいんだろう、呼べば! 名前で!」


「ご理解いただけましたか」


「もちろんだ。よし、呼ぶぞ」


「どうぞどうぞ。あ、気合入ってるね」


 笑みを浮かべて次の言葉を待った。

 葵が自分の名前を呼ぶ。呼んでくれる。

 その未来を思い浮かべ、軽い高揚を覚えながら。


「……えっと、そんなに待ち構えられると、その……恥ずかしい、です」


「聞こえません」


「聞こえてるじゃないか! なんか思ってたのと違う! 古谷が意地悪過ぎる!」


「……」


「だ、黙るなぁ~ちゃんと呼ぶからぁ」


 身体を抱きしめて悶絶しながら怒るという実に器用な感情表現を全身で見せつけてくれる葵を、口を閉ざしたまま目だけで促す。

 しばしの間、室内に沈黙が降りた。

 時計の短針が時を刻む音だけが、ふたりの耳朶を震わせる。

 蓮は待った。ただ待ち続けた。ややあって――


「れ……ん」


「……」


「れん……くん、れん、さん。れん、さま? ううん、なんか違うな」


 葵の艶やかな唇から、たどたどしく音が紡がれた。

 生まれたばかりの小鹿が足を震わせながら立ち上がる姿が脳裏に思い浮かんだ。

 真正面で固唾を飲んで見守っていた蓮に、その庇護欲全開なパワーが直撃する。


「れんちゃん……いや、これはダメだ。えっと、えっと――」


「……」


「れん」


「……」


「れん、れん……れん、蓮、蓮。うん、これがいい。蓮!」


 ひと言ごとに音が輪郭をなし、蓮の名前が室内に響く。


「蓮、蓮、蓮! うん、気に入った。この音の響きはとてもいいな、蓮!」


「……」


「蓮、どうした?」


『蓮』

 涼やかな、そして朗らかな声。

 その威力は凄まじく、蓮はあまりの衝撃にフリーズしていた。

 のぞき込まれて名前を呼ばれて――葵の声が耳を通って蓮の脳みそを直撃する。

 ちょうど古い家電を蹴り飛ばすかのような強烈な一撃を食らわされた。

 感情を激しく揺さぶられて平静を装うこともままならない。

 しかし、おかげでどうにかこうにか再起動を図ることができた。


「……さっきの葵さんの気持ちがわかりました。凄い恥ずかしいっていうか、むず痒いって言うか」


 意味もなく咳払いして、絞り出すように言葉を口にする。

 気恥ずかしさは半端なく、喜びはさらにそれを上回った。

 言語化し難い感情が胸を満たし、脳を沸騰させ、口を強張らさせていた。

 ようやく意識が復帰して、そこで自分が呼吸を忘れていたことに気づかされた。

 先週とは比べ物にならないどころか、生まれてこの方これほど心を高ぶらせたことは記憶にない。


――なんだこれ、なんだこれ……さっきの葵さんじゃないけど、マジ何だこれ!?


 頭の中ではいまだに『なんだこれ!?』が響き渡っていたが。

 ちょっとまともにものを考えられる状態ではなかった。


「フン、わかればいいのだ、わかれば」


 しばし無言で見つめ合い――葵の顔が真っ赤に染まる。

 その顔を手で覆い、再びベッドを転がりまわった。


「何で蓮はそんなに冷静なんだ!? 私、もう恥ずかしすぎて死にそうなんだがぁ!」


「葵さんの仰るとおり、僕、冷静ですから」


 思いっきり嘘をついた。全然冷静などではいられていない。

 落ち着いて見えるその理由は――目の前で自分以上に羞恥を晒す人間がいるからである。

 蓮も葵も同じ状況に放り込まれた者同士ではあるが、先に動揺を露わにしたのは葵だった。名前を先に呼ばせたからそうなった。自業自得である。

 己の心境を隠そうともしない(隠せてない)葵を見ていると、何となく心が穏やかになる。

 ただ、それだけのことであり、それをいちいち事細やかに葵に伝えるつもりはなかった。

 下手に口を開くと自爆することが目に見えていたから。

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