第2話 妻IN家
「待たせたな、
声がした方に振り向いてみれば、そこには
トレードマークの黒髪ポニーテールを靡かせながら近づいてくる。
凛々しく整った顔に、柔らかな笑顔を浮かべながら。
上は薄手の白いブラウスにカーディガン。下はデニムのパンツ。
飾り気のない服装は彼女のスラリとした体躯、特に脚の長さを強調している。
肩からは随分と大きなバッグを下げているが、女性の荷物を詮索するのは気が引けたし、ぶっちゃけた話それどころではなかった。
――おお……この人が、僕の妻……
眼前の光景に、感動のあまり言葉を失った。
すぐ目の前にやってきた葵が向けてくる怪訝な眼差しを受けて、ようやく我に返る。
全身を取り巻いていた原因不明(?)の体調不良は一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。
現役美人JD妻、マジ奇跡の特効薬。ただし副作用で思考も吹き飛ぶ。
「おはよう、
とりあえずとしか言いようのない、無難すぎる挨拶。
意識が戻っても、言語中枢がすぐに回復するわけではない。
まともに会話できるようになるまで、とにかく時間を稼がねばなるまいと、慌てて口にしてみれば、
「……」
挨拶が返ってこない。
返ってくるのは厳しい視線。
漆黒の瞳が半眼に、眉は平行に。
そして眉間には皺が寄っていた。
明らかに機嫌を害している。
「新堂さん?」
もう一度リピートすると、今度は盛大にため息をつかれた。
葵は額に手を当ててふるふると頭を振っている。
腰まで届く艶やかなポニーテールもゆらゆらと揺れていた。
まったくもって解せない反応だった。
先週と今週でテンションが違いすぎる。
「……まぁいい、話はあとにしようか」
「はぁ」
要領を得ない言葉に、要領を得ない相槌を打つ。
重たい空気を背負いながら、葵を伴ってアパートに向かう。
先ほどまでの舞い上がった心地が嘘のよう。
『よし、今日は葵さんと手をつなごう!』なんて調子のいいこと考えていたが、隣から漂ってくるただ事ではない冷気に当てられて、そんな軽い気持ちは吹っ飛んでしまった。
しかし、それはそれとして――
――新堂さんって、こんなに身長低かったっけ?
蓮は心の中で首を傾げた。
高校時代の記憶では、彼女はもっと背が高かったイメージがあった。
葵の身長は女子としては高めだったはず。
たしか160センチを超えていたと聞いている。
対して、当時の蓮は……まぁ、あまり背が高くはなかった。
並んで歩くこと自体が初めてとは言え、視線の高さ的に違和感があった。
「……どうかしたのか?」
不機嫌そうな葵の声。
理不尽なものを感じつつも、思ったことを口にする。
「いや、その……新堂さんって、こんなに背が低かったかなって」
横を歩いていた葵は顎に手を当てて考え込み、蓮を見やって口を開いた。
パチパチとまつ毛をしばたたかせた彼女の眼差しは、つい今しがたまで見せていた厳しいものではなかった。
「ふむ。それは単に古谷の背が伸びただけではないかな?」
「ああ、そうか」
言われてみれば当たり前の答えだった。
蓮は高校を卒業してからも背が伸びて、葵は伸びなかった。
ただ、それだけのこと。
「ま、私はこれ以上の身長はいらないが」
「そうなの?」
「……正直に言えば、高校の頃ですら持て余していた」
深い嘆息だった。眼差しがあまりに遠く、気のせいかハイライトが薄い。
まさか背の高さにコンプレックスを覚えていたとは。
彼女の信奉者の中でも特に女性陣には、その長身がウケていたはずなのに。
――なんか色々思ってたのと違うなぁ。
別に葵に対して含むところはないし、身長がどうこうなんて些細なことで彼女を嫌ったりするなんてありえない。
ただ、高校時代の自分は何も見えていなかった。何も知らなかった。
そんな事実を今さら突き付けられたことが、ちょっとショックだった。
★
「ここが古谷の家か」
ドアを前にして葵の声が強張った。身体もギクシャクしている。
道中は平穏そのもので、さして時間を取られることもなかった。
ふたりの空気は相変わらずで、雰囲気は微妙なままだったが。
――これから話し合いたいことがあるんだけどなぁ……色々。
本来の話し合いの前に、相互理解的な話し合いが必要かもしれない。
いずれにせよ、こんなところに突っ立っていては何も始まらない。
「僕の家っていうか、僕らの家かな。入って、ほら」
「う、うむ……すこし待ってくれないか」
「新堂さん?」
鍵を開けてドアノブを回して中に入るよう促すも、葵の足が動かない。
胸に手を当てて大きく息を吸って、吐いて。
そのたびに豊かな胸元が――なことになっている。
本人は気にした様子がないものの、蓮はその柔らかな挙動が気になって仕方がない。
思わず生唾飲み込んでしまった。
音を聞かれでもしないかと心配したが、当の葵はそれどころではない模様。
「その、恥ずかしい話だが……家族以外の男性の部屋に入るのは、私、初めてで、その……」
とてもとても緊張している。
か細い声が続いた。
「そうなの? 男子とも仲良かったように見えたけど」
「学校ではそれなりに付き合いはあったが、プライベートでは全然何もなかったから」
「ふ~ん」
――僕が初めてかぁ。
思わず口元が緩んでしまう。
あまり深い理由はない。
理由はないが、嬉しい。
にやけそうになる表情を引き締めながら、葵を待つ。
「ふぅ……よし、入るぞ」
「はい、どうぞ」
「では……御免!」
幾度目かの深呼吸ののちに覚悟を決めたらしい葵は、キッと目元に力を込めて蓮の家に足を踏み入れた。気迫がすごい。ほとんど討ち入りだ。
そして――
「な、なん……だとッ!?」
葵は眼前に広がる光景に、驚愕のあまり声を震わせていた。
ついでに身体もわなわなと震えていた。
「し、新堂さん!? どうかしたの?」
妻の慌てぶりが尋常ではない。
これは捨て置けないと判断せざるを得なかった蓮が、こちらも慌てて変な声が出た。
何かおかしなものでもあっただろうか?
ヤバい画像はパソコンのフォルダの中だ。
ロックをかけているし、こんな一瞬で見つかるわけがない。
咄嗟に考えても、葵を驚愕させるに足るものなんて何も思い当たらない。
「普通だ」
「え?」
「普通だ……いや、きれいだな」
靴を脱いですたすたと進み部屋を見回しながら、葵はそんなことを口走った。
何を言われたのかよくわからない。
いや、言っていることはわかるのだが、何を言いたいのかがわからないと言うか。
「きれいと言われましても……それはまぁ、掃除とかはしてるんで、それなりには」
「それは、私が来るから慌ててやったという意味ではなく?」
「週に一、二回ぐらいかな。あとは汚れたらその都度」
「……床に何も落ちていないのは?」
「疑問形なのが疑問ですが」
「キッチンだって、その……コンビニの残骸が見当たらないぞ」
驚いているせいか語彙力が崩壊気味で言葉足らずになっている。
もちろん『コンビニ弁当の残骸』的な意味合いだろうと脳内で補足しておく。
「自炊してるし」
「自炊だと!? そ、それでは洗濯物が溜まりっぱなしなどということは?」
「ないです」
葵の中の自分は、いったいどんなずぼら人間なのだろう?
問われるたびに、少しずつ悲しみが増していく。
彼女に守護られなければ人として最低限の生活を維持できないとか思われていたのだろうか?
「そ、そんな……」
「あの、新堂さん?」
「すまない。驚きのあまり、つい動転してしまった」
「うん、それはわかる。先週よりもビックリしてるよね」
目が覚めたらいきなり結婚していたあの日よりも。
室内の空気が、物凄く微妙な滞留を始めている。
「……」
「……」
「……少し、言い訳をさせてほしい」
「どうぞ」
「先ほど、私は家族以外の男性の部屋に足を踏み入れたことがないと言った」
「聞きました」
「それで、だ。私には兄がいて、だな。その兄の部屋が……まぁ、とても酷いのだ」
「なるほど」
「そんなあっさり返されると困る。本当に酷いんだ。掃除はしないし、床には物が散乱してるし、キッチンはゴミだらけだし、洗濯機が洗濯物で埋まってるし」
臭い。
汚い。
足の踏み場もない。
梅雨とか夏場は特にヤバい。
あんなのは人間が生活する環境ではない。
「えっと、お兄さんってひとり暮らし?」
「ああ」
葵の歪んだ顔を見るに、いわゆる汚部屋という奴だろうと思われる。
職場で時折耳に挟むことがあるので知悉してはいる。
自分の部屋がそうならないように気を遣ってもいる。
「だろう? 母なんてもうカンカンで。でも兄は『男のひとり暮らしなんてこんなもんだ』などと言うんだ。父も祖父も兄の肩を持って……なぁ、古谷はどう思う?」
葵の兄ということは、蓮よりも年上だ。
大学生か、あるいは社会人か。
どちらであろうと酷いことには変わりないし、同じ男としては風評被害も甚だしい。
いまだ顔を合わせたこともない義理の兄を脳内で正座させて説教したくなってきた。
「何て言えばいいのか……会ったこともない人たちを悪しざまに罵るのは良くないと思うんだけど……新堂さんのご家族にこんなこと言いたくないけど……酷い話だな、と」
「だろう! よかった……古谷があんなだったらどうしようかと、この一週間ずっと悩んでいたんだ。ああ、古谷と結婚できた私は本当に果報者だ。どうすればこれほど部屋をきれいにしておけるのか、是非とも教えてくれないか?」
――そんなに喜ばれることなのか、それ……
目の前で感極まっている葵に、かけるべき言葉が見つからなかった。
腕を組んで目を閉じて……かつての、そして現在の自分の記憶をトレースする。
「えっと……僕も最初からこういう風にしてたってわけじゃなくて。いつだったかな……仕事から帰ってきて部屋が汚くてイラっとして、だったらきれいにしておくかって。一度きれいにすると、後は習慣になった……みたいな?」
「うんうん、そうか。よし、その流れを母に報告しておこう」
満面の笑顔を返されて照れると同時に、心の中では首を捻った。
葵の中の異性ハードル低すぎ問題が、割とシャレになってない。
自分に対する恋愛感情はなかったにしても、タイミングは良かったらしい。
他の男に掻っ攫われてもおかしくない状況だった可能性が高い。
とりあえず――
「飲み物持ってくるから、適当なところに座ってて」
「ああ、そうさせてもらう」
葵の声は弾んでいた。
さっきまでの不機嫌は、見当たらなかった。
妻に背を向け、心の中で胸を撫で下ろした。色々な意味で。
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