第2章

第1話 あれから一週間が経ちました!

 どこにでもいるような二十歳の地味な青年『古谷 蓮ふるや れん』に、あまりにも唐突に過ぎる人生の一大転機が訪れてしまった。

 すなわち高校時代の憧れの女性だったサムライガールな同級生『新堂 葵しんどう あおい』との結婚。

 しかも、面白くもない同窓会で酒をかっ食らって居眠りこいて、目が覚めたら結婚していたという冗談みたいなストーリーで。

 開いた口が塞がらなくなる類の衝撃が冷めやらぬまま、しかし日常は粛々と続いていく。

 

――特に何もなかったなぁ。


 日曜日の夕方に葵と別れてから約一週間が経過した。

 雑踏を引き連れるように駅の改札に消えていった彼女の後ろ姿、揺れるポニーテールは今でも目蓋の裏に焼き付いている。

 以来、時間が空くたびに葵を思い出す。

 驚き。

 怒り。

 悲しみ。

 そして笑顔。

 彼女が自分の妻であるという実感はいまだに湧かないが……職場のデスクに腰を下ろしたまま、ぼんやりと時計を眺めながら、蓮は心の中で独り言ちた。

『ああ、今日も特に何もなかったなぁ』と。

 それは就職してひと心地ついて以来、ずっと毎日のように繰り返してきた呪文だった。

 つい先日まで、それは平穏であり同時に酷く退屈な日々の堆積を意味していたのに。

 しかして今は、その意味がすっかり反転してしまっていた。

『何もなくてよかった。早く帰りたい、そして――』

 思いを馳せれば、心も身体もうずうずしてきた。

 もうすぐ終業時刻を迎えようとしている。

 今日は金曜日で、この職場はあまり残業がない。

 飲み会の類もほとんどなく、当然のごとく定時で帰宅する予定だった。


「古谷先輩、暇そうですね」


 恨みがましい声をぶつけてくるのは、隣に座っている年上の後輩だった。

 ちらりとそちらに視線を向けてみれば、彼は手元の書類と格闘している最中のようだ。

 今年から入った新人だけに、まだ仕事の手順そのものに慣れていないのだろうと思われた。

 一年前の自分を思い返してみれば、状況は大体推測できてしまう。

 どんなところで詰まっているのか、どうすればよいのか。

 結論から言ってしまえば、わからないことがあれば教育係の先輩に教えを乞うべきである。彼の教育係は蓮ではないが。

 研修では『まずは自分で考えろ』などと暢気な言葉を賜るけれど、実際に客や締め切りを前にしてそんな悠長なことは言っていられない。時間は有限であり、放っておいたら勝手に流れて行くものだから。

 そして余裕を失えば焦る。焦れば焦るほど、より大きな失敗を招く。

 普通の状態ならできていることが、できなくなる。悪循環に囚われてしまう。

 なお、少し離れたところに座っている彼の教育係は――残念なことに、とても忙しそうだった。


――あれは、声をかけづらいよな。


 なんか仕事の邪魔しそうとか考えてしまう。

 一年前の蓮もそうだった。

 きっと隣の彼もそうだろう。

 そんなこと、遠慮する必要ないのに。


「困ってることがあるなら言ってね」


 つい声をかけてしまった。

 本音を言えばさっさと帰りたい。

 葵と結婚してからの一週間、心がどうにも落ち着かない。

 明日には――葵が蓮の家にやってくることになっている。

 恋人をすっ飛ばして妻となった女性を、初めて家に招く。

 これはもう否応なく緊張を強いられる。

 本当に、さっさと帰りたい。

 でも、困っている後輩も捨て置けない。


「別に困ってることなんてありませんから」


 不機嫌そうな声が返ってきた。

 彼が蓮たちの部署に配属されてから、まだ一か月もたっていない。

 研修を終えたばかりの新人なんて、わからないことだらけで困ることだらけで当たり前。

 遠慮する必要も、見栄を張る必要もないのだが……


「そう? だったら……まぁ、いいけど。無理しないようにね」


 そっとため息ひとつ。

 同時に室内の空気を終業のチャイムが震わせた。

 そこかしこから飛び交う解放感あふれる歓声。

 蓮もパソコンの電源を落として立ち上がり、ロッカー室へ足を向ける。

 ふと気になって振り返った。隣の年上な後輩は、まだ仕事を続けている。

 教育係は彼に頓着していない。手を貸すべき状況ではあるのだが、当の本人が認めない。


――どうにもなんないか、これは……


「じゃ、おさきに」


 軽く挨拶して職場を後にする。

 あまり彼に構ってもいられない。

 蓮には蓮の問題が待ち構えているのだから。

 うんうんと頷いて職場を後にしようとして――もう一度振り返った。

 新人な彼は、パソコンに向かって四苦八苦している。

 そんな彼の姿をもう一度目にしてしまって、デスクに向かう。


「手伝うよ」


 自分だって忙しくなるのに、見捨てることはできなかった。

 頭を上げた同僚は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。





 時計を見る。まだ時間がある。スマートフォンを見る。メッセージはない。

 カレンダーを見る。今日の日付に赤丸がついている。間違いない。

 目を覚ましてから、一連の動作を何度となく繰り返した。

 口をついて出るのは、感慨深げな声。


「ついにこの日が来たかぁ」


 蓮の住まいは地元から県境をまたいだ隣県の地方都市。

 都会と呼ぶには落ち着きすぎていて、それでも地元ほど田舎でもない。

 ほどほどな街の中心に位置する駅からほど近い立地のアパートの一室に居を構えていた。


 築20年の1DK

 風呂トイレ、収納付。キッチン設備も◎

 セキュリティは上々で、インターネット回線やエアコンも完備。

 住み始めてから丸一年以上が経過するものの、今のところ特にこれと言って不満を感じることはない。


――う~ん……


 妙な唸り声が漏れてしまうのには、もちろん理由がある。

 今日、これから、ここに、妻がやってくる。

 妻すなわち葵である。


 先週の日曜日に葵と別れてから数日は、良くも悪くも実に平穏だった。

 あの日見た光景は、何かの間違いだったのではなかろうかと錯覚してしまうほどに。

 目を閉じれば鮮明に葵の後ろ姿を思い出せるにも関わらず。

 結婚なんて、彼女が自分の妻だなんて、まるで実感がなかった。

 一方で『このままでは良くないのではないか?』との危惧もあった。

 スマートフォンを見れば、葵の連絡先が確かに記録されている。高校時代に彼女とかかわりを持ったことはなかったので、連絡先を交換できるチャンスはあの時しかなかった。

 つまり、あの日あの時あの場所で見たあの光景は――間違いなく現実なのだ。


 だから連絡をとった。


 いきなり通話をつなぐことはせずに、まずは様子見のメッセージから。

 生まれも育ちも二十一世紀な蓮はスマートフォンの扱いに悩むことはない。

 しかし同時に生まれてこの方、家族以外の異性とまともに関わりを持ったことがない蓮にとって、SNSを介した異性とのコミュニケーションには悩むことしかない。

 気持ちを落ち着けるために用意したコーヒーがすっかり冷めてしまうまで深呼吸を繰り返したのちに、恐る恐るディスプレイに指を滑らせる。

『少し話したいことがあるんだけど、今大丈夫?』と送信して待つことしばし。

『私も』と返信が来て、夜中にひとりでテンションを上げた。

 しばらく近況報告的なやり取り(特に何もなかった)があって、本題に入った。


『これからどうするか、話し合おう』


 実にまっとうで、ありふれていて、それでいて重要な問題であった。

 本当は先週のうちに語り合いたかったのだが、あいにく時間がなかった。

 だから今度まとまった時間を取って――と話していたら、葵が『ならば、そちらの家に行ってよいか?』と言ってきた。


――問題ないよな?


 ほんのわずかな迷いののちに了承した。

 まったくもって実感はないが、彼女はれっきとした蓮の妻であり、蓮は彼女の夫である。妻が夫の家を訪れることには何の問題もない。

 OKと返事した時などは、生まれて初めて自室に同年代の女性を招くなんて照れるなぁ……ってな感じに浮かれていたくらいである。


 そんな、ふわふわした気持ちのまま――本日に至る。至ってしまった。

 昨日後輩を手伝ってから夜遅くに帰宅したあたりで俄かに現実的なプレッシャーが襲い掛かってきて、落ち着くどころではなかった。実はほとんど寝られていない。

 もう一度時計を見る。ゴクリと唾を飲み込む。

 緊張のあまり死にそうだった。


――やばい……これは、ものすごくヤバい。問題大ありだよ!


 心臓が刻む不規則なビート。全身から吹き出す変な汗。

 口の中はカラカラで、頭はフラフラ。胃がキリキリと痛みを訴えてくる。

 アルコールなんて摂ってないのに足元が定まらない。

 視界は歪んでいるし、耳鳴りまでする。

 念のために熱を測ってみたのだが、こちらはいたって普通だった。

 ……にもかかわらず、この有様。体調不良ってレベルじゃない。

 だからと言って今さら『ごめん、やっぱダメ』は無理筋というもの。


「そろそろ行くか」


 ワザと声に出して、覚悟を決めた。

 あくびを噛み殺しつつ、戸締りをして家を出る。

 葵に住所は伝えていたし、蓮の家は駅から離れているわけでもない。

 彼女は蓮と同い年、すなわち二十歳だ。学生ではあるが、れっきとした大人だ。

 初めてのお使いな子どもじゃあるまいし、ひとりで蓮の家までたどり着けるか否かを疑っているわけではない。

 だが……だがしかし、である。

 そういうことではないのだ。


 合意を得たとはいえ、半ばアクシデントというか事故から始まったような結婚なのだ。

 せめて初めての時ぐらいは、自分から迎えに行くのが筋なのではないか。

 ちっぽけではあったが、蓮にだって男としてのプライドがある。

 ……なお、その成否を図る術を本人が持っていないという問題には気づいていなかった。


 土曜日の朝だった。雲ひとつない爽やかな朝だった。

 早朝と言うわけではないが、昼と呼ぶにはまだ早い時間帯。

 道行く人はそれほど多くもなく、さしてトラブルもなく駅前に到着。

 待つこと数分。

 スマートフォンを眺めて落ち着かない時間を過ごしていると――


「待たせたな、古谷」


 快活で、凛々しくて、涼やかな声が蓮の耳朶を震わせた。

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