第7話 さあ、ここから始めよう!

「そもそも、結婚とは何をするのだろう?」


「……」


『何をするのか?』と問われてれんが咄嗟に思い描いたのは――セックスだった。

 身も蓋もないし口にもできないが、二十歳の男なんてそんなものだ。

 あおいの裸体が想像できない点も含めて、そんなものだ。

 同時に彼女が指しているのは、もっと別のことだとも容易に想像がついた。

 なぜなら――葵の顔に浮かんでいるのは純粋な疑問であって、羞恥や性欲の類は見当たらなかったから。


――結婚かぁ……


 言葉は割と頻繁に耳にするのに、どうにもピンとこない。

 身近な例を参考にするなら――真っ先に思い当たるのは、やはり両親だった。

 あまりに身近すぎるせいか、父母の夫婦的生活を想像することは困難を極めた。主に精神的な負荷のせいで。

 締め付けられそうな痛みを発するこめかみを押さえて、軽く頭を振ってまがまがしいイメージを脳裏から追い出した。

 しかる後に目を閉じて、生まれてからここまでの間の記憶を反芻し、そこに職場で耳を挟んだり漫画や小説で読んだ知識を付け加えていく。


「そうだなぁ……一緒に住んで、一緒に寝て。ご飯とかも一緒で、お互いの家に挨拶に行って、子どもがいて……」


 思いつく限り指折り列挙していく。

 順番はメチャクチャだが、葵は特に異を唱えては来なかった。

 言葉を連ねるたびに自分が『結婚』について具体的な知識を持たないことに気づかされる。

 目蓋を上げると葵が深刻そうな顔をしている。

 おかしなことを口にしただろうかと俄かに心配になってきた。


新堂しんどうさん?」


「え、ああ、すまない。古谷ふるや……その、親に話すのは……もう少し待ってほしいんだが」


「別に構わないけど、理由を聞いていい?」


 軽い気持ちで尋ねたのだが、葵の顔が想像以上に深刻だったので驚かされた。

『これはただ事ではない』と察し、居住まいを正して次の言葉を待った。

 

「親に話をするとなると、さすがに経緯を説明する必要があるだろう?」


「……まぁ、そうだね」


 言われて気づく。

 この結婚のいきさつは、あまりにもお粗末なもので。

 まっとうな大人だったら本能レベルで眉を顰めるに違いない代物だった。

 ……蓮の両親はそんな程度では済まないだろう。バカな息子に関節技を極めるくらいはするはずだ。


「古谷と結婚することに否やはない。むしろこちらから頭を下げてお願いしたいくらいなんだ。それは既に話したとおり。ただ……理由となると、私は……両親に私のことを話さなければならなくなる」


「新堂さんのこと?」


「私が人として出来損ないということ」


 円満な家庭に生まれ、愛情を注がれて育った。

 何ひとつ不自由なく友人にも恵まれて、順風満帆な人生を歩んできた。

 ……そのはずの娘が実は人を愛することも恋することもできないと悩んでいた。

 彼女は自らを称して『出来損ない』と自嘲している。


――それは……話しづらいだろうな。


 自分の身に置き換えてみれば、その困難さは想像できなくもない。

 彼女の親にしても、そんな悩みを娘が抱えていたとは思うまい。

 円満に見えていた一家の裏側で彼女を苛んでいた苦しみ、今さらになって面と向かって話せば……彼女のご家族はどんな反応をするだろう?

『悲しませることになるだろうな』ということぐらいしか見当がつかない。


「今回の件を家族に納得させるには、どうしてもそこに触れざるを得ない。私の欠陥に言及しないと説得力がなくなるからな。それはわかってるんだ。でも……今すぐは難しい。勇気が出ない。怖いんだ……」


 肩を落として俯いてしまった葵に『らしくない』なんて言葉をかけることはできなかった。

『らしい』とか『らしくない』とか、そういう表現がすでに失礼にあたると思った。

 少なくとも、ほとんど初めてまともに会話を交わした蓮が迂闊に口にしていいものではない。


「待つよ、それぐらい」


「すまない……こんな私で、本当にすまない」


 何度も『すまない』を連呼する葵を見ていると、これが相当に根深い問題であることが見て取れた。ふたりの結婚がいつまで周囲に隠し通せるかはわからないが……この件については、できるだけ葵を尊重しようと心に決めた。

 葵の決心を待つだけならば、別にどうということはない。


――悩み事なんて、人それぞれだしなぁ。


 うんうんと頷きながら、ふと時計を見やると――


「うわ、もうこんな時間か」


「む?」


 頭を上げた葵がスマートフォンを取り出し、こちらも眉を跳ね上げる。

 目を覚ました時点で昼近かったが、そこから役所に駆け込んで、ここで話をして。

 何だかんだで想像以上に時間を食っていた。

 店の外に目をやると、いつの間にやら薄暗くなってしまっている。


「えっと、古谷?」


「ごめん。僕、ちょっと離れたところに住んでるし、明日は仕事だから、そろそろ……」


 結婚云々が大切な話題であることは事実。それは理解している。

 でも――日々の暮らしだって同じくらい大切である。これも事実。

 本当はもっと話をしておきたいのだが……つくづく世の中はままならない。


「そうだな。私も色々あって動揺している。今ここでふたりして頭を突き合わせていても妙案は思いつくまい」


「動揺なんて、そうは見えないけど。ま、考えるにしても時間が欲しいってのは同意」


 頷いて見せると『そこまで平静ではないのだがなぁ』と苦笑で返された。

 かすかに頬が色づいてはいるものの、基本的には凛とした佇まいに戻っている。

 かつて憧れたサムライガールの面影がそこにあった。

 ゆえに動揺云々はリップサービスの類だと解釈しておく。


「兎にも角にも私たちは結婚した。これから長く人生を共にするわけだ。焦る必要はなかろう」


「……そうだね」


 口では同意しながら、素直に首を縦に振れない。

 少なくともひとつ、緊急でやらなければならないことを思いついてしまったから。


「なんだ古谷。何か言いたいことがあるのか?」


 曖昧な蓮の態度に思うところがあるのか、葵の声に棘があった。

 被害妄想の類ではなく、向けられる瞳が鋭い光を放っている。

 あと、彼女の口が微妙に尖っていた。どう見てもご機嫌斜めである。


「えっと、その……」


「言いたいことがあるなら、ハッキリ言ってくれ」


 ここまで回答を力強く要求されてしまっては、後に引けない。

 息を吐いて、吸って。また吐いて。

 胸に手を当てて心臓の鼓動を数えて。

 精一杯の勇気を振り絞って口を開く。


「じゃあ、その……連絡先を交換したいんだけど」


「……」


「新堂さん?」


 目の前の葵は堂々たる態度のまま硬直していた。

 問いかけても反応がない。まるでマネキン人形のようだ。

 しばらくするとパチパチと目蓋を上下させ、『あうあう』と声を漏らし始めた。

 とても、とても居た堪れない心持ちで待つことしばし――


「あ、はい。そうだな、そうですね。それは確かに必要だ。うんうん」


 腕を組んでもっともらしく同意してくれてはいるが、耳まで真っ赤になっていた。

 彼女が羞恥――というか感情を揺らすポイントがいまいち見えてこない。

 とりあえず蓮と連絡先を交換するのは動揺に値しているようだ。

 お互いにスマホを取り出しディスプレイに指を走らせる。

 どちらも、物凄くたどたどしかった。


「これでよし、かな」


「ああ。私としたことが、こんな基本的なことにすら気づかないとは……ほら見ろ、私なんてこんなに動揺してるんだぞ」


「何でそこで胸を張られるのか、よくわかんないんですが」


「うるさいなぁ……あ、ところで」


「何でしょう、新堂さん?」


「これ、別に用がなくても連絡して……いい?」


 頬を赤らめて、ちょっと上目遣いで。

 破壊力抜群だった。

 一撃で心臓を撃ち抜かれ、なんかもう今日あった色々が全部許せる気がしてきた。


「もちろん。でも……僕、仕事があるから、勤務時間外にしてもらえると、嬉しい、かな」


「そっか……古谷はもう働いてるんだったな。はぁ……聞いておいてよかった」


 穏やかな吐息に似た言葉、そして声色。

 柔らかい笑みを浮かべられると、あまり強くも言えない。

 母や妹以外の異性と連絡先を交換するなんて初めてのことなので、どうにもコミュニケーションの塩梅がよくわからない。ふたりの距離感とでも言うべきものが。

 本来ならば結婚以前の恋愛過程で少しずつ擦り合わせていくものなのだろうが、あいにく蓮と葵は突発的アクシデントによって、そのあたりを丸ごとすっ飛ばしているのだ。

 とりあえず、時折SNSで目にするような非常識な頻度は勘弁願いたかった。


――でもまぁ……

 

「通話は無理でもメッセージなら別に……構わないよ」


「いや、時間に余裕がある私の方が自重すべきだろう。古谷の足を引っ張りたくはない」


 腕を組んでふんぞり返っているが……チラチラと蓮の様子を窺っているのが見え見えで、とても可愛らしいと思った。


「ありがと。後で僕の住所も送るから」


「それもあるな。ダメだ……つくづく何にもわかってないな、私は」


「僕だって同じようなもんだよ」


「そうかぁ? 古谷は私より全然しっかりしてるように見えるんだが」


 ブツブツ呟いている葵を見て、もうひとつ思いついたことがあった。

 訝しげな視線を向けてくる彼女に、上着で拭った手を差し出した。

 さり気なくしたつもりだったが、これもやはり相当な勇気を要した。

 何しろ彼女は蓮にとって初めての――


「古谷?」


「その……握手、いいかな?」


「……ああ、そうだな。今や私たちは立派な運命共同体だからな」


 握り返された葵の手はすべらかで、想像していたよりも華奢で――小さかった。

『そんなことも知らなかったのか?』と頭の中で嘲る声が響いた。


「これからよろしく、新堂さん」


「こちらこそよろしく、だ。古谷」


 お互いに笑みを交わして頷き合う。

 これからどうなるかはわからない。

 どちらかと言えば不安要素の方が多いと思った。

 突然降ってわいた結婚なんて人生の一大イベント。

 心構えなんてできていないし、きっと考えも足りていないはずだ。

 金銭的にも困難があるし、葵はいまだ大学生である。

 まさしく前途多難の生きた見本みたいなふたりだが……顔に浮かんでいる表情は、どちらも意外と明るかった。


 実のところ、蓮だって心は浮き立っているしワクワクしている。

 もちろんえっちな期待もある。だって男だもの。

 同い年で美人でスタイル抜群で心映えも最高な嫁ができて、嬉しくないわけがない。

 葵と人生を共にできるのならば、そんじょそこらの苦難なんてどうにでもしてやろうと発奮できる程度には気合も入っている。

 どれだけカッコつけて見せたって、男なんてそんなもの。

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