第6話 葵の思い その2

「……正直に言えば、怖いんだ」


「怖い?」


 れんが問い、あおいが頷く。

 サムライガールな彼女らしくない言葉だと思った。

 トレードマークのポニーテールが心情を現すように力なく垂れさがっている。

 まつ毛が伏せられた葵の眼差しには、この世界はどのように映っているのだろう?

 ふと、そんな場違いなことを考えてしまった。


「私は、少なくとも私の主観においては、高校時代をそれなりに上手く過ごしてこられたと思っている。恨みを買う節なんてまったくなかったとまでは言わないが、ここまでされるほどのことはなかった、とな。まぁ、いじめた方はいじめたことそのものを忘れてしまっているとも言うが」


「それは、そうだろうね」


 自嘲気味な笑みを浮かべる葵に相槌を打つ。

 サラッと当時の記憶を遡ってみても、『新堂 葵しんどう あおい』にそこまでの悪意を抱く人間というのは思いつかない。

 いじめ云々にしても考え過ぎだろうとさえ思う。

そんなものは眼前のサムライガールに最も似合わない言葉のひとつに違いない。

 何なら当時の全校生徒にアンケートを取っても、きっと蓮の脳内と同じような結果になるはずだ。

 これは自信を通り越した確信ですらある。


「しかし、実際に事件は起きた。おそらく犯人は昨日の同窓会の出席者だ。表向きは普通に振る舞っておきながら、あんなことをする非常識極まりない奴がいる。非常識なだけじゃない、古谷ふるやを巻き込むあたり明確な悪意を感じる。そして私はその犯人の正体に目星がつけられない」


「……」


「しばらく時間が欲しい。誰が信頼のおける人間で、誰がそうでないのかを見定める時間が。誰も彼もがいつもと変わらない笑顔を私に向けてくる。でも、笑顔の裏で何を考えているのやら……私はもう彼らが怖くて仕方がない」


 それが本音だ、と。

 身体を守るように抱きしめながら絞り出された声は、あまりにも悲痛だった。


――新堂さん……


 ふたりで幸せを目指すとか、悪意を置き去りにするとか。

 先ほどまで葵が口にしていたポジティブな言葉は決して嘘ではない。

 嘘ではないが……でも、一番大きな理由でもない。


 かつての級友に対する信頼が根底から揺らいでいる。

 少なからず人間不信に陥りそうなレベルで。

 怖い。ゆえに彼らとは距離を置きたい。

 

 語りながらもぎゅっと閉ざされた目蓋の淵に、ジワリと水滴が浮かんでいる。

 蓮は――その姿に胸が締め付けられそうになり、同時に激しい怒りを覚えた。

 あのクラスメートにそれほどの思い入れはない。恨みもない。

 でも、彼らが葵を苦しめることは許し難い。


――新堂さん、ショックなんだろうな。


 本音を隠されていたことに、怒りも失望もなかった。

 ただ、目の前で悄然としている葵に悲しみを覚えた。

 高校時代の彼女はいつも教室の中心にいて、多くの人の敬意を集めていた。

 葵もまたクラスメートに敬意を払うことを忘れていなかったように記憶している。

 

 しかし、信頼は裏切られた。


 裏切られたうえで貶められ、にもかかわらず彼らは以前と変わらぬ態度を貫いている。

 葵からしてみれば、それは恐怖を覚えるに十分すぎる光景だろう。

 なまじ悪意とは縁の薄い人生を送っていただけに、精神的なダメージも大きいに違いない。


――距離を取る……だけでいいのか?


 疑問が脳内に響く。この問題を捨て置いてはいけない。

 他人がどうこうではなく、葵のために。

 そして、自分のために。

『絶対に葵を護る』と強く心に誓った。


「犯人は……絞り込めるんじゃないかな」


「古谷?」


「僕らが提出した婚姻届。すでに受理されちゃったけど、情報公開制度を利用すれば証人欄を確認できるかも……あ~、でもダメか。個人情報の類は黒塗りされる。いや、待てよ。窓口の人に卒アルを見せれば行けるんじゃないかな……じゃなくてカメラだよカメラ。あそこ、きっと監視カメラがあるって」


 矢継ぎ早に言葉が口をついた。

 少しでも葵を安心させたかった。元気を出してほしかった。


「よくそこまで考えるものだと感心するが……それは、そのふたりだけが犯人ならば、という前提があるな」


「それはまぁ……うん」


 沈黙の裏で考えていたいくつかのアイデアを披露するも、葵の表情は晴れないまま。

 今の彼女は思考がネガティブな方向に傾きすぎているように見受けられた。

 もどかしく思うし、無理もないとも思う。蓮には頷くことしかできない。


「う~ん」


 腕組みして目を閉じ、暗闇の中でひとり思考を走らせる。

『犯人』が証人だけでなかったとしても、ふたりをとっかかりに捜索はできるはず。

 でも、『犯人』がふたりだけでないとしたら、どれほどの人間が加担しているのか想像がつかない。

 人数が多ければ多いほど葵の心が傷つくことは間違いないだろう。

 彼女はむしろそれが発覚することをこそ恐れているのかもしれない。

 多数の級友が寄ってたかって自分を傷つけようとしている可能性を前に、心が竦んでいる。

 そんな彼女を臆病とそしることはできない。

 

――新堂さんに無理はさせたくないな。


 先ほどの語り口は、自分に言い聞かせているようにも感じられた。

 これ以上関わりたくないという言葉には、きっと蓮が想像しているよりも重い感情が含まれている。

『古谷 蓮』にはあまり友人がいない。

 深い付き合いとなると、ほとんど皆無と言ってもいい。

 だから、誰かに裏切られて大きなショックを受けることもない。

 そんな自分が葵の心中を正確に察していると言い切ることはできるのだろうか?

 勝手に彼女にまつわる人間関係の裏側を掘り返すことは望ましくないのではないか?

 状況を曖昧にしたまま距離を取ることは、そこまで罪深いことではないはずだ。

 かつてのクラスメートへの言伝は、別の手段を考えればいい。

 犯人への対処にしても、葵を関わらせることがないように――


「……古谷が私を疑っているのはわかるつもりだ。犯人に腹を立てていると言っておきながら、犯人探しに積極的でない。怖い怖いと似合いもしないことを口にして逃げてばかり。これでは、私が疑われるのは当然だな」


「え? いや、新堂さんを疑ってはいないけど」


 葵犯人説なんて全く考えていなかった。

 いきなり素っ頓狂なことを言われると困ってしまう。

『この人、いきなり何言ってんの?』と逆に心配になるレベル。

 蓮の胸中を焦がしていた憤怒の炎なんて一瞬で鎮火されてしまった。


「え? なんで?」


 泣きだしそうになっていた葵の表情が崩れて、間の抜けた声が艶やかな唇から漏れた。

 今になって気づいたが、彼女はホテルから出る前にメイクをしっかり直していた。

『色々と可愛いな』と思ったが、今はそれを口にする時ではない。

 

「だって新堂さんが僕と結婚したいと思っていたら、罠にかけるなんて必要ないじゃん」


「……どうしてそう思う?」


「どうしてって……新堂さんに『結婚しよう』って言われて断る男子とか、あのクラスにいないでしょ」


 蓮はサラリと嘘をついた。

 本当の理由は別にあるが、この状況で口にしたくなかった。

『真面目』と褒められた手前、どうにも後ろめたい気持ちが隠し切れない。

 幸いと言うべきか、葵が蓮の胸中に気づいた様子はなさそうだった。


「そういうものか?」


「そういうもの。むしろ疑われるなら僕の方じゃないかな?」


「え? それはないだろう」


「何でそんなに自信満々なのか、それこそ意味わからないんだけど」


 教室の片隅に自生していた苔のごとき蓮が、教室の中心人物である葵を嵌めようと画策するのは、そこまであり得ない話ではない。

 少なくともエロ漫画や官能小説の世界ではよくある展開だ。

 現実味や実現可能性は脇に置くとして、という前提はあるにしても。

 なぜ葵がここまで頑なに蓮を信用しているのか、逆にまったく理解が及ばない。

 高校時代を振り返ってみても、そこまで彼女に確信を抱かせる『何か』をした覚えがない。

 そして当の葵は――何とも言語化し難い表情を作っていた。

『なんとなく』みたいな曖昧な理由ではなく、明確な論拠を持っている。

 でも、それを話すのは気が乗らない。そんな顔だった。

 出来れば知っておきたいと思った。それはきっと葵が蓮に好感を抱いている要因のはず。

 知っておけば、これからのふたりの関係を進める役に立つはず。

 だから――

 じっと見つめることしばし、小さなため息とともに葵は口を開いた。


「いいか、古谷。婚姻届の証人はふたりだ」


 言葉とともに、葵はほっそりした白い指でVサインを作る。

 それは知っている。だから蓮は素直に頷いた。


「うん」


「でも……その、古谷はあの時ひとりだった」


「うん?」


 話の流れが変わってきた。想定外の展開に。

 胸がぞわぞわしてきた。

 何と表現すればよいのか……慌てて電車に飛び乗ったら反対方向の奴だった、みたいな。


「だから、同窓会の時。古谷はひとりで端っこに座っていて、誰ともしゃべらずに黙々と飲んだり食べたりしていただろう?」


「……」


「そんな古谷に共謀者がいたとは思えなくて……その、すまない」


 テーブルが静寂に沈んだ。

 葵は蓮と目を合わせようとしない。

 さっきまでとは全然違う理由であることは明白で。

 彼女の言葉を催促した手前、蓮は文句を言うこともできなくて。


「いや、あ~、うん。それはとてもロジカルな推理だと思う。うん」


 葵は意外と冷静で、状況証拠を積み上げて蓮の潔白を信じてくれている。

 感情なんて曖昧なものを論拠にされるよりも、信頼性は高かろう。

 いいことじゃないか……情け容赦なく心を抉ってくる点を除けば。

 探偵とは概ね情け容赦ない存在だと現実で思い知らされて凹んだ。


――どーすんだよ、この空気……


 笑う。

 怒る。

 泣く。

 詰る。

 どの選択肢も間違っているような気がしてならない。

 正解がわからなさすぎて、とても困る。

 痛くて重い沈黙が辛い。


「と、とにかくだな。そんなことより、もっと大事なことがあるだろう」


「そ、そうだね。そっちを考えなきゃ」


 ワザとらしく話をすり替えようとする葵に全力で乗っかった。

 意図が見え見え過ぎるうえに、『もっと大事なこと』の中身はまるで見当がつかなかったが。

 とりあえず先ほどの流れに身を任せることがいかに危険か、その点においてふたりの認識に食い違いはなさそうだった。


――犯人をどうするかは、改めて考えよう。


 心の中でひとり決意を固め、葵の言葉を待つ。


「私たちがこれから考えなければならない大切なこと、それは……」


「それは?」


 先を促すと、葵はコホンとひとつ咳払い。

 ほんの少しの間、躊躇うような仕草を見せて――


「そもそも、結婚とは何をするのだろう?」

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