第5話 葵の思い その1

『犯人捜しはやめにしないか?』


 紆余曲折があったとは言え、れんあおいの結婚は無事に合意を得た。

『さて、これからどうしたものか』と悩みは尽きなさそうだが、同時に色々な意味で楽しみでもある。色々な意味で。新婚生活である。アレコレ想像するだけでテンション上がる。

 ……まぁ、それはともかくとして。

 そんなこんなで笑いあった後に神妙な顔で葵が続けた言葉に、蓮は眉を顰めた。

『犯人捜し』という言葉の意味は、わざわざ説明されるまでもなかった。

 彼女が意図している『犯人』とは、泥酔したふたりを役所に連れて行って婚姻届を書かせた『誰か』のことに相違なかろう。

 今にして思えば、ふたりを酔わせることすら計画のうちだったのかもしれない。

 信じたくはなかったが、元々の同窓会すら――

 葵の言葉が意味するところわかる。理解はできるが納得はできない。

『終わり良ければすべてよし』なんて、そんな問題ではなかろうに。

 結果はともかく、過程には大いに不満があった。

 断じて葵に対する不満ではないところがミソである。

 そこを目の前に座る本人に勘違いされては堪ったものではないのだが……抑えきれない感情が顔に出ていたのだろう。

 テーブル越しに向かい合っていたサムライガールは大きく息を吐いて、しかる後に自身の心境を語ってくれた。

 居住まいを正して彼女の言葉を傾聴する。


「私だって今回の件はさすがに腹に据えかねている。高校時代のノリでこんなことをするなんて、断じて笑い話では済まされてよいことではない。幸いにも私たちは話し合って合意を得ることができたけれど、一歩間違えれば刀傷沙汰になっていてもおかしくない。これは、それほどの大問題だ。それは、私もそう思う」


 受理された婚姻届を破棄するには、離婚する必要があるのだ。

 どう考えても冗談で済むレベルを超えている。

 こんなことを面白半分で――あるいはもっとネガティブな意図で仕掛けられて、泣き寝入りするなんてありえない。

 何が何でも犯人を見つけて償わせてやりたい。

 そう憤るのは別におかしなことではない、はずだ。

 現に葵だって腹を立てていることは認めている。

 なのに――犯人を捜さないと言う。解せない。


「私は……結婚とは幸福になるためにするのだと思う。現実はどうであれ、そうあってほしいと思っている」


 漆黒の瞳に促されて、蓮も頷いた。

 彼女の言葉は真摯であったし、異論はなかった。

 不幸になるために結婚するなんて、いくら何でもナンセンス。

 古い時代のどこぞの国ならともかく、今は令和でここは日本だ。


「そして、私たちはこの婚姻に同意した。経緯はどうあれ、私たちはこれから手を携えて幸せになりたい。そう願っている。ここまではいいな?」


「うん」


 再び頷いた。

 だからこそ――それほど大事な結婚をネタに自分たちを弄んだ犯人を許せないのだが……


「だから――私は、私たちの未来に下らない感情を引きずりたくない。どこかの誰かのバカバカしい呪いとは、ここで決別しておきたい」


「それは……そうかもしれないけど」


 葵の唇から放たれたのは、強い決意に満ちた言葉だった。

 その思いを受け止めた蓮は、一瞬の躊躇ののちに首を縦に振った。

 ただし、保留付きではあるが。


『呪い』という葵の表現からは、この一件を『冗談』よりも『奸計』の類と認識していることが窺えた。そのうえで彼女は『バカバカしい』と切って捨てている。

 犯人を捜して誅する。それは過去に目を向けること。

『新堂 葵』は――幸福を求めている。

 ただひたすらに凪いでいた心を震わせる初めてのドキドキに、胸を高鳴らせている。

 蓮と葵が手に手を取って幸福を求める、それは未来に目を向けること。

 過去に拘るよりも今を、そして未来を考えよう。

 目の前の恋(に恋)するサムライガールは、そう言っている。


――言いたいことはわかるけど、なぁ……


 理解はできても、そう簡単に同意できることではなかった。

 やや理想論に傾きすぎているようにも感じられる。危ういとさえ思える。

 蓮の視線に含まれる迷いを察したか、葵は顎に指を這わせながら言葉を付け加えた。


「そうだな……どうしても復讐したいというのなら、こういうのはどうだ?」


「こういうの?」


「ああ。幸せになろう」


「え?」


 何を言われたのか理解しかねて、思わず問い返してしまった。

 話がいきなり明後日の方向にすっ飛んでしまったような錯覚。

 聞き間違いかと自問自答してしまうほど。もちろん答えは否だった。


「だから、幸せになろう。相手は私たちを陥れていい気になっているのだろう。きっと悔しがったり罵りあったりするところを見て悦に浸りたいに違いない。ならば私たちが思いっきり幸せになって見せつけてやればいい。連中の意図はどうあれ、それこそ歯ぎしりして地団太踏むに違いないぞ」


 葵はそう続けて、にやりと笑みを浮かべた。

 幸せになる。それは復讐と呼ぶにはあまりにも前向きで。

 でも……さすが『新堂 葵しんどう あおい』だと頷かされる説得力があった。

 そんな彼女にこそ『古谷 蓮ふるや れん』は憧れる。かつても、そして今も。

 自分だけでは到達しえない発想は決して不快なものではなかったし、自分たちふたりに関してだけならば十分に納得がいく答えでもあった。


「でも……放置すると、同窓会のたびに僕らと同じ被害者が出るかもしれない」


 被害者という表現に引っかかるところはあったが、蓮としては、そこだけが気になった。

 今回の件は葵だけを狙った悪意なのか、否か。

 それがわからない。どうにも断言できない。


 葵の口ぶりからは、この一件が彼女を陥れようとする悪意によるものと認識しているように感じられたし、その点については断言こそできないものの蓮も特に異論はなかった。

 蓮を陥れるために葵と結婚させても意味がない。ただのご褒美である。

 嵌められたと仮定するなら、ターゲットは葵で間違いなかろう。

 しかし、その一方で素直に頷けない部分もある。

 いくらなんでもここまでするか、と。

 動機が葵に対する復讐あるいは怨恨であるとしても、わざわざ蓮と結婚させるだなんてムチャクチャ過ぎる。

 罰ゲーム扱いされることに腹は立つが、それ以上に違和感が酷い。

 こんなことが明るみになれば、仕掛けた犯人だってタダでは済まない。


――バレないとでも思ってるんだろうか?


 たまたま葵がこの結婚に前向きであるからよかった(?)ものの、ごくごく普通に考えれば何が何でも婚姻をなかったことにするように働きかける方が常識的なリアクションだ。

 婚姻届を無効にするには離婚するしかないと言うのなら、それこそ弁護士を雇ってでも状況を打破する方がマシだろうし、陥れられた側には躊躇う理由がない。

 離婚は最後の手段という気がする。蓮はともかく葵にとってはダメージが大きすぎる。

 もちろん話は蓮と葵だけに留まらない。

 弁護士云々が持ち上がるなら、古谷家と新堂家の人間だって黙ってはいない。

 事が事だけに役所すら巻き込んだ大問題に発展する未来が容易に想像できてしまう。


――て言うか、監視カメラに写ってるんじゃないかな、犯人。


 少数の職員だけでやりくりしている深夜窓口なら、監視カメラは回っているはずだ。

 一般人には手が届かなくとも警察を頼れば、そのあたりからも突破できそうに思える。

 そう、警察。

 この一件はもはや犯罪の一種だろう。

 被害者を泥酔させて婚姻届を提出させるなんて、弁護士よりも警察向きの案件だ。

 婚姻届が正式に受理されたかどうかなんて、事ここに至ればもはや問題にならない。

 刑法の類にはあまり詳しくないので、犯人が具体的にどんな罪状に問われるかまではすぐに思いつかないが……警察が動くには十分すぎるほどの事件性はあると思われる。

 警察が介入すれば、事態はさらに大きくなるに違いない。

 蓮は警察を甘く見てはいない。彼らはきっと犯人を追いつめる。

 そうなったら犯人は下手すりゃ牢屋行き、諦めようが諦めなかろうが人生終了のお知らせである。


 考えれば考えるほどに、おかしい。

 仮に蓮が葵に恨みを抱いていたとしても、絶対にこんなことはしない。

 なぜなら……この程度のことは、やる前から簡単に想像できてしまうから。

 身も蓋もないことを言えば、リスクとリターンが釣り合ってなさすぎる。


 でも、やった。

 犯人はやってしまった。


――たぶん、犯人は相当のバカだ。間違いない。


 しかし『犯人=バカ』の公式が成り立ってしまうと、その思考や行動は読めなくなる。

 一度成功させて味を占めた犯人が、同じことを繰り返すのではないかと危惧してしまう。

 当初の目的あるいは動機を抜きにして、愉快犯に発展する可能性すらある。バカだから。

 そうなってしまったら、次のターゲットは……やはり蓮や葵と似たような誰かが選ばれるのではないか。

 すなわち、かつてのクラスメートたち。

 さして親しくもない人間ではあるが見知った顔だ。

 トラブルに巻き込まれる可能性を見過ごすのは後味が悪かった。

 せめて注意喚起だけでもできないものだろうかと考えてしまう。


「それはそうだ。ただなぁ……こんなことがあった以上、私は彼らとあまり関わりたくないと思っている」


「そうなの?」


――僕は構わないけど……極論すぎやしないか?


 友人が少なかった蓮にしてみれば、連中と絶縁しようとも今までと状況は変わらないが、葵はクラスの中心人物であったから仲の良かったクラスメートも多い。

 そんな彼らとバッサリ袂を分かつのは、果たして彼女にとって望ましいことなのか。

 どうにも素直に頷けない。

 この件については、もっと話し合うべきではないか。別の解決策を探るべきではないか。

 疑問はあれど上手い説得の筋が思いつかず、口を閉ざしたまま葵を見つめ続けると――


「……正直に言えば、怖いんだ」


 蓮の視線に応えるべく言葉を続けた葵は……声も身体も震えていた。

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