第3話 新堂さん……頭、大丈夫?

 同窓会でしこたま酒をかっ食らって、泥酔状態で婚姻届に署名した。

 翌日になって窓口に掛け合ってみても結果は覆らず。

『話がしたい』というあおい(法的には既にれんの妻)に手を引かれて喫茶店にやってきてみれば、


古谷ふるやは今、その、誰かと交際していたりはするのだろうか?』


 こんなことを尋ねられてしまった。

 モジモジした葵から、である。

 困惑せざるを得ない。


 さて。

『古谷 蓮』は自らをさほど優秀な人間とは認識していない。

 さりとて救いようのないほどの愚鈍と卑下することもない。

 そういう人間が、ここまでの流れと眼前の葵の態度と、彼女が口にした言葉を合わせて思考を巡らせると――


――僕との結婚、新堂しんどうさん的にはアリなのか?


 なんて浮ついた推測に辿り着いてしまう。

 しかし、それはいまだ蓮の想像の域を出ていない。

 事が事だけに確認は必須。取り扱いを間違えたら致命傷になりかねない。


「そんな相手いるわけないけど、えっと……新堂さんは嫌じゃないの?」


「嫌、とは? いや、言いたいことはわかっている、つもりだ」


 途切れ途切れながらも、確かにそう言った。

『嫌』と『いや』が重なってわかりにくかったが、最初の『嫌』は疑問形だった。

『嫌』は『否』であり、それに疑問を持つ。すなわち――『新堂 葵』は『古谷 蓮』との結婚を拒んではいない。


――なんでやねん。


 蓮は心の中でセルフツッコミを入れた。

 関西人でもないくせに、関西弁で。


「念のために、念のために確認するけど……新堂さんは僕と結婚するの、嫌じゃないの?」


 ほとんど同じ言葉を繰り返した。言い含めるように、噛み締めるように。

 情けない質問だとは思ったが、曖昧にしておける問題ではなかった。

 周囲の喧騒が遠い。こめかみから流れ落ちる汗を感じる。

 長いようで短い、世界から隔離されたような時の果てに――葵は首を縦に振った。

 己が目を疑いたくなるような光景だったし、心臓が止まりそうになった。


「私は……古谷とのけっ、けっ……コホン、古谷こそ、わたしとけ……するのは嫌なのか?」


 逆に問われて返事に窮した。

 憧れの女性であった『新堂 葵』との結婚。

 良いか悪いか以前に現実味がないというのが本音だった。


『新堂 葵』は高校三年生の教室にあってスペシャルだった。

 凛とした佇まいと、整った顔立ち。圧倒的存在感。

 腰まで届く艶やかな漆黒のポニーテールを颯爽と靡かせて。

 スラリと伸びた体躯に似合わないナイスな宝物を胸元に抱いていて。

 性格は清廉にして公明正大で、常に教室の中心人物の一角を占めていて。

 剣道部の主将であり、地元のローカルテレビに出演した時は好評を博したものだ。

 実家も剣道の道場を営んでいる、人呼んで『サムライガール』な美少女。

 わかりやすいアイドル的な立ち位置ではなかったが、間違いなく人気はあった。

 男子(に限らず女子に限らず)数多の生徒が彼女に想いを寄せていて――


――あれ?


 眉をひそめて首を捻った。

 記憶にある限り『新堂 葵』が誰かと交際していたという話を耳にしたことがない。

 蓮の対人関係が希薄だった点を差し引いても、噂ぐらいは聞こえてきそうなものなのに。

 まぁ……それ以前の問題として『古谷 蓮』には『新堂 葵』と接点がなかったが。少なくとも結婚を意識するような関係ではなかったはずだ。


「ふ、古谷?」


 おずおずと詰められて――蓮は首を横に振った。

 目の前で葵がホッと胸を撫で下ろした。

 張りつめていた空気が弛緩する。


 そう。

 嫌ではないというのもまた、本音だった。

『新堂 葵』が好人物であることは周知の事実。

 人柄がよく、容姿は素晴らしく、スタイル抜群。

 実家だって地元では名士扱いなのだ。欠点をあげつらう方が難しい。


「新堂さんと結婚できるなんて、もちろん僕は嫌ではないけど……正直、その……戸惑ってる。だって、新堂さんに好かれる理由が思い当たらない」


「それは、そうだな」


 思い切って胸の内を告白したら、あっさり切り返されて言葉を失わされる。

 こんな時どう反応すればいいか、わからなかった。


「そうだなって……」


 わけがわからない。

 それでは葵が好きでもない人間と結婚しようとしている、ということになってしまう。

 蓮がとてつもない大富豪だとか、政財界に影響力のあるフィクサーだとか、実は世界を救う超能力者だとか、そういうトンデモ設定がついてくるのなら理解できなくもないが……あいにく『古谷 蓮』はどこにでもいる二十歳の青年に過ぎない。家系図(あるかどうかは聞かされていない)を遡ってみても、きっと先祖代々筋金入りの一般人に違いない。


「すまない。言葉が過ぎた。考えを整理したいので少し時間をくれないか」


「うん。待つから……僕にもわかるように説明をお願いします」


 すっかりぬるくなってしまったコーヒーで喉を湿らせながら、待つ。

 目を閉じて腕を組み、眉間にしわを寄せる葵の言葉を、ただ待った。

 うるさすぎる心臓の鼓動と全身を巡る熱い血潮が、沈黙を守る蓮を内側から沸騰させる。

 ややあって――


「私は、古谷に恋愛感情を抱いてはいない。そういう意味では好きではない」


「……」


 覚悟はしていたし当然だろうと納得できる反面、心のど真ん中にグサリと突き刺さるものがあった。

 率直に死にたくなった。


「ただ……古谷のことを好ましい人物だとは思っている」


「はぁ……それはどうも」


 意味がわからない。

 恋愛感情がないのに好ましいというのは、いわゆる『いい人』に該当するのだろうか。

 具体的には『いい人なんだけど……』と続くようなタイプ。

 最後は『ごめんなさい』で締められるタイプでもある。

 要するにダメな奴だ。


「ちなみに僕のどのあたりが好ましいと思ってるの?」


「う~ん……真面目なところ、かな」


 葵の答えは、やはり要領を得ないものだった。

 蓮は自分のことを真面目だなんて思ってはいない。

 別にちゃらんぽらんな人間と自嘲するほどではないが……そんな条件が結婚の意思に繋がるのなら、葵のストライクゾーンは広すぎるのではないかという疑問が湧いてしまう。

 つまり、結婚相手は別に蓮である必要がないということだ。

『それはちょっとどうなの?』と首をかしげたくなる。

 蓮にだって男としてのプライドがあるのだ。


「でも……それはあまり大事なことじゃなくて。えっと、その……笑わないで聞いてほしいのだが」


「こんなシリアスな状況で笑わないから」


 食い気味に返すと葵は一瞬目を丸くし、しかる後に柔らかく言葉を紡いだ。

 豊か過ぎる自らの胸に手を押し当てながら。


「……ドキドキしたんだ」


「どきどき?」


 葵が口にした言葉を疑問形で反芻する。

 当の本人は微かに頬を赤らめながら、まつ毛を伏せている。

 そんな顔を間近で見せられる方が、よほどドキドキする。


「……自慢に聞こえてしまうかもしれないが、私は学生時代からそれなりに告白を受けてきた身だ」


「それは知ってる」


『新堂 葵』はモテる。

 そこに疑いを差しはさむ余地はなかった。

 高校を卒業してから昨日再会(?)するまでのことは知らないが……まぁ、似たり寄ったりの状況であったことは容易に推測できた。


「下駄箱の手紙とか、いかにも訳ありな呼び出しとか……そういうことは何回もあったし、ひと目見ればだいたい察することはできた。でも――」


「でも?」


 葵は言葉を切った。

 難しい顔をしている。

 苦しげで、辛そうだった。


「でも――私は、いつも『どうやって断るか』ばかり考えていた」


「誰かと付き合おうとは思わなかったってこと?」


 蓮の問いに、葵は静かに首を振る。

 縦に。ポニーテールが重々しく揺れた。


「昔からそうなんだ。心が凪いで湧き立たない。相手が勇気を振り絞って告白してくれていることはわかるのに、それを煩わしく思う自分が――ずっと嫌いだった」


 最後の言葉は、重いため息とともに吐き出された。

 敵意を向けられるのなら却って発奮するかもしれないが、好意を向けられても応える意思が生まれてこない。

 そして、好意を断つ言葉は想像以上にエネルギーを要求してきて、疲弊させられて。

 最終的にはそういう好意を向けられること自体が厭わしく思えてくる。

『ごめんなさい』を繰り返した先にあったのは、猛烈な自己嫌悪だったと続けた。


 普通と呼ぶには過ぎた良家に生まれ、両親をはじめ家族から愛情をまっとうに受けて育った。

 友人にも恵まれたし、これまでの二十年を振り返っても大きな問題はなかった。

 でも――誰かを愛することができない。恋することができなかった。

 原因があるなら納得はできる。原因がないからこそ深刻だった。


「自分が……人として出来損ないなんじゃないかと、ずっと思ってきた」


 静かな声だった。向けられた漆黒の瞳は、蓮を通じてどこか遠くを見つめている。

 そこにどれだけの思いが込められているのか、想像することすらできない。

 教室で見かけた『新堂 葵』はいつでも溌溂として、颯爽としていた。

 闊達な笑顔の裏で、そんな悩みを抱えていたなんて全く気付かなかった。


「恋愛とか結婚にあこがれる気持ちはあるのに、どうにもならなくて。でも――」


「でも?」


「同窓会で久しぶりにみんなと会って、お酒を飲んで……泥酔して朝起きたら結婚してたなんてメチャクチャだって思った。でも――ドキドキしたんだ」


 深刻な表情を浮かべていたはずの葵は、いつしか微笑んでいた。

 夢を語るように、心境を吐露してゆく。


「この胸のドキドキが恋愛感情なのかはわからない。私は今まで恋をしたことがないから。でも――不快じゃなかった。きゅ~っと甘い感じで胸が締め付けられるんだ。心地いいんだ。こんなのは初めてなんだ。私のために役所に掛け合ってくれた古谷にこういうことを言うのは不謹慎だとは思うけど、この状況を楽しんでいる自分がいるんだ」


 だから――


「古谷が嫌じゃないのなら……しばらくの間でもいいから、このままいさせてほしい」


 無理強いはしないから。

 どんな結果であれ、絶対に自分で責任を取るから。

 きれいすぎる笑顔で『ダメかな?』と尋ねられて――首を横に振れるわけがなかった。

『古谷 蓮』は男だから。いろんな意味で。

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