第2話 これだからお役所って奴はさぁ!

 冴えない社会人『古谷 蓮ふるや れん

 現役美人女子大生『新堂 葵しんどう あおい

 昨晩ふたりが署名した書類には、間違いなく『婚姻届』と記載されていた。

 酒精に曇った記憶の中にあって、その三文字は燦然と輝いていた。

 つまり――蓮と葵はすでに結婚しているということだ。


『結婚とは夫婦になること。婚姻とは結婚すること。夫婦になること。社会的に承認された夫と妻の結合』


 高校三年生の同窓会で再会したふたりが唐突に放り出された現状を正確に認識するためにスマートフォンで『結婚』を検索したら、ウィキペディア先生が教えてくれた。

 先生は他にも色々ご高説を宣わっておられたが、ほとんど目に入らなかった。


――夫と妻の結合って、結合ってさぁ……


『結合』である。

 ごく一般的な単語のはずなのに、やけに意味深に聞こえてくるではないか。

 脳裏に浮かんだいかがわしい妄想を振り払うのに、いささかの労苦を要した。

 ふたりで声を揃えてどこぞの名作アニメみたいなセリフを叫んだ後、蓮と葵はお互いの記憶を照合しておおよその状況を把握した。

 いくらなんでも、この状況はスルーできない。


 女性陣が酒を酌み交わしているうちに葵が『結婚願望がある』と口にした。

 別に大々的に発表したわけではなく、流れで何となくという感じだったらしいが。

 すると周りの男どもが『だったら俺が!』と色めきだって、葵は笑っていなそうとして……このあたりから、ふたりともしばらく記憶が定かでない。

 おそらくという注釈がつくが、蓮と葵と参加者二名が連れ立って役所の深夜窓口に足を運び、婚姻届を作成し、そのまま提出。

 なぜ二名が付き添ったと推測できたかというと、書類の『証人』の欄にも署名が必要だったからだ。深夜にそこらを歩いていた人をとっ捕まえてサインさせたとは思えない。

 こうして婚姻届は無事に受理され、晴れて蓮と葵は夫婦となった。

 概ねそんな流れだったと記憶しているし、葵も否を唱えることはなかった。


「僕の記憶、間違ってなかったのかぁ」


 映画に出てくる悪霊じみた呻き声が喉を通って吐き出された。

 目覚めたら結婚していた。かつて憧れたクラスメートと。

 冗談抜きで、割とホラーなシチュエーションだった。


――結婚って、結婚って……


 結婚とは、もっと難しいものだと思っていた。

 インターネットの煩わしい広告ではやたらと煽ってくるし、職場の同僚もその手の話題にはピリピリしている。迂闊に触れると即座にセクシャルハラスメントで人事案件という曰く付きのテーマである。少子高齢化だの晩婚化だのが騒がれることも珍しくなくなった。

 かつては恋愛という名の戦争や、お見合いという儀式の果てに結ばれた縁の証であった結婚だが……近年では新たなルートとしてマッチングアプリやら婚活パーティーやらが盛んに開拓され、それでもなおパートナーと巡り合うことができない男女が怨嗟の声を上げることも少なくない。

 少なくとも、蓮の認識では人生における最難関イベントのひとつであった……はずなのだが。


「こ、こんなあっさり……」


 酔っ払いが書いた書類が普通に受理された。

 ただそれだけ。

 なんか思ってたのと違う。


「……いや、こんなの無効だろ」


 蓮の指がスマホのディスプレイを踊った。

 婚姻届を提出した段階で、蓮も葵も泥酔のあまり正気を失っていた。

 いわゆる心神喪失に近い状態であり、そんな状況で提出された書類には本人たちの意思など介在していない。

 ちょうど開いたブログにも『婚姻をする意思がない婚姻は無効』とある。

 心の中でガッツポーズを決めながら先を読み進め――眉をひそめた。

 婚姻の意思がない場合とは主に『婚姻届を偽造された場合』『意思能力がなかった場合』と記載されている。蓮たちの場合は後者に該当するのではないかとは思ったのだが、これは主に認知症や病気の場合が想定されている模様。泥酔状態がここに含まれているかは微妙だと言わざるを得ない。


「とりあえず役所に行ってみよう」


 この手の解釈において素人判断は危険極まりない。

 専門家の意見を仰ぐことは必須だし、ダメならダメで書類の取り下げ申請を行えば……昨日の今日ならまだチャンスはあるのではなかろうか。

 今はとにかく一分一秒が惜しい状況だ。

 少なくとも蓮は、そう思っていたのだが……


「……」


 慌てて腰を浮かせた蓮とは対照的に、葵は俯いたまま微動だにしない。

 左手にはスマホを持っている。彼女もきっと似たり寄ったりの情報を目にしているはずなのに。

 空いた右手は、なぜか豊かに存在感を誇示している胸に押し当てられていた。


「新堂さん?」


 婚姻届が受理されている以上、彼女は既に『古谷 葵』なのだが、蓮はあえて旧姓で呼びかけた。

 反射的な呼称であって別に深い意味はない。


「あ、ああ。そうだな」


 反応がワンテンポ遅い。

 古いパソコンに最新のOSを入れたみたいな重いリアクションだった。

 かつての彼女は、何事においても、もっとキビキビ行動していたような記憶があるのだが。

 蓮が見つめる前でバッグにスマホを片付けた葵は……そそくさと衣服に、そして髪に手を当てて、


「あ、あの……古谷」


「……何?」


「その……シャワー浴びてきていいか?」


 予想外の問いに唖然とさせられて――そして同時に気づかされた。

 葵の外見はおんぼろで、このまま外に出るのは年頃の女性として不本意だろうということに。

 今はそれどころじゃないとは思うものの、彼女の言葉はもっともだとも思った。

 こういうところで男女の意識の違いが浮き彫りになる。学校でも職場でも。

 スマホを見るに時間の余裕はまだあった。ここで彼女と喧嘩するつもりはない。

 目を閉じると『まだ焦るような時間じゃない』と、脳内で某バスケ選手が微笑んでいた。


「大丈夫、時間はあるから」


「すまない、恩に着る」


 こんなことで頭を下げられると逆に恐縮してしまう。

 しかも相手は学生時代には自分と全然縁がなかった――正確には雲の上の人だった『新堂 葵』なのだ。

 かつては美少女で今は美女。サムライガールというよりはサムライレディだろうか。

 割とどうでもいいことを考えられる程度には、動揺が収まってきていることを自覚した。

 ……まぁ、ある程度冷静さを取り戻したにしても、悠然とシャワールームに姿を消した元クラスメートの背中を、何とも言えない気持ちで見送ることしかできなかったが。





「無理だったか……」


 喫茶店のテーブルに突っ伏した蓮の口から声が漏れた。

 ついでに口から魂も漏れそうになっていた。

 身づくろいを終えた葵とともに役所の時間外窓口に赴き、事情を説明した。

『酔っぱらって提出した婚姻届なんて無効ですよね?』と尋ねたら首を横に振られた。

『だったら取り下げ申請しますね』と続けたら『婚姻届の効力を喪失させるには離婚届が必要です』と切り返されて、思わず鼻白んだ。

 結婚した自覚すらないのに離婚だなんて……いくら何でも納得できない。

 思わず『お前じゃ話にならん、上司を呼べ』と叫びかけて、踏みとどまった。

『上司を呼べ』は窓口対応で言われてムカつくセリフランキングの上位を占める暴言であり、口にしたところで何も解決しないことを実体験として知っているから。

 それに――既に社会に身を投じた人間のひとりとして、蓮は受付の対応を否定できなかった。

 正式な要件を備えている書類が提出されたなら、それは基本的に受理されるべきなのだ。

 担当の一存で迂闊に否を唱えるのは得策ではない。ましてや相手が酔っ払いときた。

 目に見えるトラブル案件に首を突っ込んでもいいことなんて何もない。

『自己責任』の名目のもとに自らの落ち度のなさを主張するのは間違いではない。

 わかる。わかってしまう。立場が逆ならば、きっと蓮も同じ対応をする。

 だからと言って――自分はともかく葵をこのままにしておけない。

 そう思った矢先に、当の葵に袖を引かれた。


『何?』


 声に込められた険しさを隠しきれなかった。

 ここは蓮の地元ではあるが現住所は異なる。

 明日は月曜日すなわち平日であり、有給休暇を申請していない蓮は出勤せざるを得ない。

 迅速に手続きを進めるには今日のうちに動かなければならない。

 先ほどのホテルでは猶予があると伝えたものの、実のところ結構切羽詰まっていた。

 のだが――


『その……少し話をしないか?』


 自分以上に思いつめた声でそう続けられると、どうにも無碍にはできなかった。

『そうですね。よくお話し合いになられた方がいいと思いますよ』などと口を挟んでくる受付をひと睨みして窓口を離れ――そして現在に至る。


「それで、新堂さん。話って?」


 テーブルから頭を上げて向かい合う。

『新堂 葵』と一対一の至近距離なんて、学生時代には考えられなかったシチュエーションだ。

 彼女は教室の中心に坐する殿上人。対して蓮は教室の片隅に生える苔のような存在。

 到底まともな会話が成立する間柄ではなかった。

 そもそも蓮の知る葵は常に凛として――


――ん?


 妙だった。

 今、目の前にいるのは間違いなく『新堂 葵』のはずだ。

 泰然自若、常に凛としているはずの彼女が――モジモジしている。

 何か言いたそうではあるけれど、何やら躊躇っている。そんな顔。


――乙女かよ。


 そのツッコミは心の中にとどめておいた。

 いくらなんでも失礼にあたるし、そんな気安い関係でもない。

 口を厳重に封印しつつ、可能な限り穏やかな選択肢を脳内でチョイスする。

 

「……新堂さん?」


「ああ、その、すまないな、えっと……こほん」


 たどたどしい言葉の後に小さく咳払い。

 そして――


「古谷は今、その、誰かと交際していたりはするのだろうか?」


『新堂 葵』は、そんなことを口にした。

 頬を真っ赤に染めながら。

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