私たち、結婚し(テ)ました! ~ふたりで始める幸せ生活~

鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』

第1章

第1話 既成事実って、こういうことじゃないと思う

 わざわざ地元に帰ってきたのに、夜を過ごしたそこは自宅ではなく駅前のホテルだった。

 胸の奥にたまっていた熱っぽい吐息を吐き出しながら、れんはゆっくりと上体を起こす。

 かけっぱなしで眠ってしまっていた眼鏡は曇っていて、しかも眠気が邪魔をして目蓋がうまく開いてくれない。おかげで視界はすこぶる悪い。


「うっぷ」


 喉元あたりにゲ(表現規制)がせりあがってきた感覚がキツイ。

 頭がぐわんぐわんと揺れて、さらにギリギリ締め付けられて痛い。

 口元と頭、どちらを押さえるか迷って――結局両方押さえた。

 枕元に備え付けられた鏡に映る自分の姿が、何とも滑稽なことになっている。


――えっと……どうなってるんだ、これは?


 頭痛に顔を顰めながら記憶を遡ろうとして――あまりの虫食いぶりに唖然とさせられる。

 昨夜はしこたま酒を口にしたけれど、ここまでひどい状態は生まれて初めてのこと。

 アルコール類には強いと自負していただけにショックもひとしおであった。


「ん、んうぅ」


 思わずため息をつこうとした『古谷 蓮ふるや れん』の耳朶を悩ましい声が震わせた。

 甘やかで滑らかで官能的な響きに、ついゴクリと唾を飲み込んでしまう。

 気づいてはいた。無駄に大きなベッドに、もうひとり横たわっていることには。

 極力そちらを見ないようにしていただけで、『彼女』の存在を抹消できるわけではない。


 ベッドには、男と女が眠っていたのだ。

 先に目を覚ました男が蓮。

 ちょうど今、目を覚まそうとしている女は――高校時代の元クラスメート。


 ゆるゆると振られる頭に続いて、腰まで届く黒髪のポニーテールがシーツに波打った。

 ついでにスーツに包まれたスラリとした体形に似合わぬ大物な胸元のアレが揺れた。

 見てはいけないと理解していても、ついつい目が追いかけてしまう。本能的に。

 かつて『サムライガール』と呼ばれていた彼女は、いつの間にかお色気担当になっていた。


 それはともかく。


 蓮が固唾を飲んで見守る中、ゆっくりと体を起こしたその女性は、しばし焦点定まらぬ瞳で同じベッドに腰を下ろしていた同い年の男を見つめ――しかる後に口元を抑えた。

 とてもとても残念な姿ではあったが、おそらく彼女も(自主規制)ロに抗っているのだろうと思うと、笑う気にはなれなかった。


――こういうところって、酔い止めとかないのかな?


 ふと思い立って手近な棚を開けて――すぐに閉めた。

 今この瞬間に見えてはならないものが見えてしまったから。

『0.03mm』なんて意味深な数字が並ぶ、小さな袋。用途は一目瞭然。

 ふたりが寝泊まりしたここは、『そういうこと』をするためのホテルだった。


――必要ない……ってか、使ってないよな?


 確認したかったが、想像以上に動揺してしまって上手く手が動かなかった。

 自分に向けられる怪訝な眼差しを肌に感じて、わざとらしく咳ばらいをひとつ。

『落ち着け、落ち着け』と心の中で唱えながら、口から出たのはまったく別の言葉だった。


「……新堂しんどうさん、飲み物いる?」


「いただこう」


 力のない声が返ってきた。

 蓮が知る限りの彼女――高校時代の同級生であった『新堂 葵しんどう あおい』からは想像もつかない弱弱しい声だった。

 ちらりと横眼で見れば、トレードマークのポニーテールは寝起きでよれよれで乱れ気味。

 剣道部の主将らしくいつもピシっと伸ばされていたはずの背筋は猫背気味。

 凛とした美貌が輝く整った顔立ちは、メイクが崩れて蒼褪めていた。


 冷蔵庫からミネラルウォーターをふたつ取り出して片方を葵に渡すと、蓮はもう片方のキャップを開けて自分の口に運んだ。

 割高なうえに何の味もしないただの水が、これほどおいしく感じられたことはなかった。

 しばらくの間ちびちびと喉を湿らせ、ペットボトルの中身が半分ほどになった頃。


「なぁ古谷。君は、その……どのあたりまで覚えている?」


 悄然とした葵の声に背筋が震えた。

 それは蓮が聞きたかったことであり、聞かれたくなかったことでもあった。





 高校を卒業して地元を後にし、そのまま就職した。

 あくせく働いているうちに一年と少しが経過。

 仕事にも慣れ、『日々之平穏』なんて言葉が似あう程度に落ち着いた春先に、一通のハガキが実家から転送されてきた。


『同窓会のお知らせ』


 高校三年生のクラスメートが一堂に会し、ともに酒を酌み交わそうと言う実に気乗りしないイベントのお誘いだった。

 見なかった振りをしてゴミ箱にシュートしかけたちょうどその時、蓮のスマートフォンが震えた。

表示された通話相手は――実の母親。ハガキを転送してきた張本人。

 渋々通話に出るなり、まずはまるっと一年以上一度も実家に寄り付かない薄情な息子に対する愚痴を散々聞かされ、挙句に『同窓会には出なさい』などと念を押された。


「いや、こんなの行く気ないから。つーか僕、忙しいから」


『あんたねぇ……そんな若いうちから仕事仕事って気張ってたら疲れるでしょ。たまにはちゃんと休みを取りなさい。それにね、年を取るとわかるのよ。お友だちって本当に大切なのよ。母さんだって、高校時代のお友だちと今でも連絡取りあったりしてるんだから』


「うるさいなぁ」


『なんか言った、このバカ息子?』


「何にも言ってないし。はぁ……わかったから。行けばいいんだろ、行けば」


 うだうだ話を引っ張られるのが煩わしくて、深く考えずに出席することを約束した。

 了承した後も、同窓会なんて正直まったくもって興味がわかなかった。

 高校時代の蓮はお世辞にも社交的とはいえず(現在も別に社交的ではない)、教室の片隅で静かに本を読んだりスマホを弄ったりするのが日課という、割と穏やかな生活を送っていたからだ。


「こういうのって、友だち多い人はいいんだろーけどさ」


 地元に向かう電車の中でひとりボヤいた。

 ほとんど友人がいなかった蓮にとって、目前に迫る同窓会はただひたすらに憂鬱だった。

 行ったところで居た堪れない時間と空間を持て余す自分の姿が容易に想像できてしまう。

 ――これは決して被害妄想の類ではなく、実際にそのとおりとなった。


 同窓会の会場となった地元の居酒屋チェーンに集まったかつての級友たちは、その大半が記憶の中の姿とほとんど変わっていなかった。

 十年後、二十年後ならともかく、たった一年なんて感慨もクソもない。

 ちなみに、否、案の定と言うべきか、蓮との再会を懐かしむ相手の顔なんてなかった。

 方々から向けられる『何でお前来たの?』的な眼差しにウンザリしながら、ひたすら料理と酒に手を伸ばしていた。

 安月給で薄っぺらい財布に些か以上にダメージを与えてくれる会費を払わされているのだから、せめて元を取らなければと言う貧乏性の発露であった。


 そのあたりから記憶があいまいになっている。


 確か、当時クラスのアイドルポジションだった女子が早々に出来ちゃった婚したとか、イケメン氏がゼミにロクな女がいないと喚いていたりとか、そんな話題が多かった気がする。

『恋愛とか結婚なんて全然縁がないわ』と無言で聞き流していた、はずだ。

 そして――店を出て――誰かに付き添われながら、なぜか役所に赴いて――こまごまとした書類を記入させられて――そして――そして――そして――

 穴だらけの記憶の中には、燦然と輝く三文字が刻み込まれていた。

 思わず眉間にしわを寄せ、頭を押さえながら大きく息を吸って吐き出した。

 頭が痛い。視界が揺れる。熱い。熱い。熱い。脳みそがオーバーヒートを起こしそう。


――たぶん、何かの間違いだろう。


 心の中で自分に言い聞かせようとして、失敗した。

 なぜなら――目の前に座っている葵が、蓮と同じ顔をしていたから。

 苦悶に満ちているようにも、何やら戸惑っているようにも見える顔。

 しきりにスーツの裾を気にしている彼女に『何もやってないから!』と声を大にして潔白を表明しておきたいところだった。

 現実はあまりにも説得力を欠く状況であり、しかも口をついて出たのは別の言葉だった。

 失礼な言い回しになるが……それよりも、もっと大切なことがあるのだ。

 あるいは、もっとヤバいことがあるのだ。


「えっと、その……一応確認なんだけど」


「ああ、私も聞いておきたいことがある」


 恐る恐る声をかけると、ちょうど頭を上げた葵と目が合った。

 一直線に見つめてくる大粒の黒い瞳が不安に揺れている。

 どちらから問うべきか、どちらから答えるべきか。

 お互いに余計な腹を探り合うことはなかった。

 ごくごく自然に、ほとんど同時に口を開いた。


「もしかして僕たち」「もしかして私たち」


 ふたり揃って、そこでストップした。

 そこから先に言葉を続けるのに一瞬の間を要した。

 ふたり揃ってゴクリと唾を飲み込んで、ふたり揃って口を開いた。


「「結婚してるッ!?」」


 記憶に刻み込まれていた三文字は――すなわち『婚姻届』であった。

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