第30話【エピローグ】

【エピローグ】


 ふわふわと雲の中を漂うような、心地よい感覚に包まれている。

 俺は全身、特に左半身が、微かな痛みと共に柔らかい綿を押し当てられているように感じた。


 俺の身体に何が起こっている? それは当然気になることだったが、頭がよく回ってくれない。今は休め、と諭されているような気分だ。


 それでも、俺の五感はだんだん状況を掴みつつあった。目は閉じたままだが、雲の中のようだと思った快さは続いている。鼻腔は自然の草花が放つような穏やかな香りに満たされ、同時に誰かが俺の名を呼ぶのが聞こえてきた。


「誰、だ……?」

(動かないでください、トウヤ殿。もうじき治癒魔術が終わりますからな)


 落ち着きと威厳のある男性の声に。俺は口をつぐんだ。しかし、一瞬だけ周囲がざわついたのは感じた。皆(と言っても誰がいるのかよく分からないが)が俺の名を囁いている。

 いや、大声で呼びかけている声の輪郭がぼやけて、囁きに聞こえているのだろう。


(トウヤ! トウヤ!)

(トウヤさん、大丈夫ですか!)

(トウヤ……)


 ぐわんぐわんと反響する、女性の声と思しき囁き。俺が三種族にいた彼女たちの顔を思い出しかけた、まさにその時だった。


(治癒は完了です、トウヤ殿。さあ、お目覚めなさい)


 雲の中にいるような感覚が消えた。

 ふっと神経が脳みそから全身へ伸びていき、心臓からは血管が張り巡らされる。

 身体中に酸素が行き渡り、自身の体重が柔らかいベッドのようなものにかけられているのが分かる。


 はっとして、俺は目を開けた。そして、言葉を失った。


 サンとエミとベルの三人が、目に涙を浮かべて俺を見下ろしていたからだ。


「トウヤあっ!」

「ぶわ!」


 真っ先に抱き着いてきたのは、ベルだった。三角帽は脱ぎ捨てられ、か細い両腕が俺の首に回される。


「ちょっ、ベル!」

「あっ! ずるいぞ! あたいが真っ先に抱き着くつもりだったのに!」

「お前らは一体何の勝負をしてるんだよ!」


 俺がツッコミを入れるそばで、ぐすんぐすんと涙を零すエミ。

 正直、抱き着かれるより心を抉られる気分だ。


「大丈夫か、エミ?」

「……」

「あー、エ、エミ?」

「トウヤさんっ!」

「ッ!」


 正直、エミにまで抱き着かれるとは思っていなかった。しかも、ベルを避けながら抱き着いてきたものだから、ちょうど胸が俺の顔面に押しつけられる格好になる。

 俺は呼吸もままならず、必死に足をバタつかせたが、最早完全にロックがかかっている。こりゃあ抵抗しても無駄だな。


 そんな俺を救ってくれたのはサンだった。


「はいはい、馬鹿騒ぎはこのくらいにしとけ!」


 エミの後ろ襟を引っ掴み、ベルの腰に腕を回して俺から引き剥がす。


「ぶはっ!」


 ああ、ようやく息ができた。


「トウヤ殿も皆も無事で何よりじゃ。面倒をかけたのう、魔術師殿」

「いやいや、トウヤ殿は我々を統率し、暗黒種族討伐の前線に立ってくださった御仁。丁重に扱うのは、どの種族も同じでありましょう」


 渋い声がする方に首を向けると、武闘家の長老と、見慣れない魔術師が立っていた。白と赤のストライプのマントを羽織っているところから察するに、彼が俺を治癒してくれたのだろう。


 魔術師は軽く長老に頷き、颯爽と部屋を出ていった。

 この期に及んで、俺はようやく自分がいる場所を意識した。見覚えがある。

 ああ、そうか。武闘家種族が居住しているテントだ。きっと負傷者を介護するため、いくつかが武闘家種族たちによって運び込まれたのだろう。


 って、待てよ。


「長老、質問があるんですけど」

「おう、トウヤ殿! 何なりとお訊きくだされ!」

「武闘家の皆さんですけど、どうして最初に十人派遣して、残りの戦力を島の反対側から寄越したんです? 作戦では、十人だけじゃなくて全員が反対側から暗黒種族の巣食ってるところに乗り込んでくるはずだったのに……」

「そうそう! よくぞお尋ねくださった!」


 長老は木製の椅子を引き寄せ、がっしりと腰を下ろした。


「実は、我々の作戦会議にスパイがいたんじゃ!」

「ス、スパイ? まさか……」

「そう、暗黒種族が我らにそっくりの外見に化けておったのじゃよ。ま、儂にかかれば一発で見抜けたがの!」


 ぐわははは! と笑う長老。元気な爺さんだな、全く。


「それで? そいつはどうしたんです?」

「もちろん皆でボコボコにしてやったわい! じゃが、もし儂ら武闘家種族にスパイを送り込んでいるとしたら、他の種族にも化けた者がいるやもしれん。魔術師たちのように、テレパシーで作戦を陣地内の仲間に伝える輩がいる可能性もある」

「だからわざと間違ってやって来た風を装って、先遣隊十人を送り込んで、主力の突入は少し遅らせた、と?」

「そういうことじゃな」


 ふむ、やむを得ない事情があったわけだな。いや、長老の英断というべきか。


(なるほど、興味深い話だね)

「ああ、俺もそう思う。……ってこの声は!」


 どうやら皆にも伝わっていたのだろう、このテレパシーのような、脳内に直接送り込まれてくる思念。だが、恐らくその送り主を知っているのは、きっと俺と三人の女性たちだけだ。


「どうやら神様が俺たちをお呼びらしいな」

(おっと、流石に闘也くんを誤魔化すことはできなかったね。もちろん、端から騙すつもりはなかったけれど。倉野内闘也、サン・グラウンズ、エミ・コウムラ、ベル・リアンナ。今述べた四人には、どうか一度僕のいるところ――いわゆる『神の座』までもう一度来てほしい。今、瞬間移動用の魔法陣を展開する)


 すると間もなく、真っ白な魔法陣がテント中央に現れた。


(この瞬間移動法は、山の周囲の結界を無視して移動できるんだ。心配いらないよ)


 一度は神様に会っているせいか、俺にはそれほど不安はなかった。他の三人も、最初は緊張の面持ちだったがすぐに覚悟を決めたようだ。


「よし、行ってみよう」


 無言で頷く三人に先立って、俺は魔法陣に踏み込んだ。


         ※


 神様による瞬間移動は、魔術師のそれよりもずっと高速だった。踏み込んだ直後には、俺たちは四人共、俺が前回通された白っぽい部屋にいた。


「あー……ど、どうも、神様」

「ああ。今回は手間をかけさせたね、皆」


 すると、いつぞやと同様に神様は深く頭を下げた。しかし、どうして彼が俺たちに謝るのかが分からない。


「これは完全に僕の落ち度だね」

「な、何の話を?」

「暗黒種族を使って、否、創造することで、君たち人間の結束を高めようとしたことだよ。一千年前に、という話は前回したよね?」

「はい、それは私たちも聞いています」


 エミが背筋をピシッと伸ばしながら答える。


「誤解のないように言っておくが、僕は君たち人間を見下したり、見くびったりして暗黒種族を送り込んだわけじゃない。だが結果として、人間同士の争いを止めることはできなかった。だったら暗黒種族なんて創らなければよかった。誠にすまない」


 ゆっくりと顔を上げる神様。その中性的な顔には、苦悶の色がありありと浮かんでいた。


「か、神様」

「なんだい、サン・グラウンズ? 僕にはどんな叱責も受ける覚悟がある。いくらでもあげつらってくれて構わない」

「いや、そういうわけじゃねえんだけどよ……。死んじまった連中はどうなったんだ? できる限り、あたいらは敵も味方も丁重に葬ってきたつもりなんだが……」


 後頭部を掻きながら尋ねるサンに、神様は微かに表情を和らげてこう言った。


「心配はいらない。皆、天国に送ったよ。ここはいわば、その中継地点といったところかな。そして英霊となった皆を誘導したのが――」


 と、神様が言いかけた時、威勢のいい鳴き声がした。キュイッ、というその声は、俺たちの援護に来てくれた『あいつ』の声だ。


「フェニー? フェニーなのか?」

「言い忘れていたね。彼女は不死鳥なんだ。現世で死んでも、またこの道のりにあった巣で卵から生まれ変わることができる」


 ああ、あの巨大な卵があったあの巣か。今回は瞬間移動してきたから見かけなかったけれど。


 すると、鮮やかな七色に輝く小鳥が囀りながら神様の腕に止まった。


「お、お前がフェニーなんだな?」


 あの巨大な姿しか見ていない俺だが、それでもフェニーが同一個体であることは察しがついた。もし別な個体だったら、こんなに親近感を覚えはしないだろうから。


「さて、話は変わるんだけれどね」


 フェニーを放してやってから、神様は再び口を開いた。


「僕は争いを止めることはできなかったかもしれないけれど、君たちがいかに強く、互いを信頼できるのかを見極めることはでいたつもりだ。そこで、一つ提案がある」

「提案?」


 俺が首を傾げると、神様は軽く息を吸ってこう言った。


「皆、違う島々に興味はあるか?」


 俺たちは一瞬の間を置いて、へ? と間抜けな声を上げた。

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