四 咎人の夢
茫漠とした世界の中で、葵は泣き伏していた。
泣いている理由は、わからない。ただし、泣きたい理由などいくらでも存在した。
葵は、すべての家族を妖異に殺められてしまったのだ。
優しかった母親も、内気であった妹も、やんちゃであった弟も――ついには、最後に残された父親までもが、自分を残して逝ってしまった。
父親以外の家族を亡くしたのは、葵が七つの頃である。
父親は剣術の道場まで稽古に出向いており、葵はそれを見物するために同行していた。普段であれば弟も一緒に行きたがるところであったのだが、その日は感冒で熱を出してしまっていたのだ。
弟の身は心配であったが、自分がついていれば心配はいらぬと言って、母親は笑顔で葵たちを送り出してくれた。
そして――妖異に殺められてしまったのだ。
武家屋敷にまで妖異が現れるとは、よほどのことである。妖異というのは山野に潜み、近隣の人間を襲うものであるのだから、山野から遠ければ遠いほどに安全であるはずだった。
そうであるにも拘わらず、葵の家族たちは妖異に殺められてしまった。
憎むべき妖異はおっとり刀で駆けつけた降魔師たちに滅されたが、それで死した家族たちが帰ってくるわけでもない。血の海に沈んだ家族らの亡骸を前に、葵と父親は悲嘆の慟哭をあげることしかできなかった。
それから父親は武士としての身分を捨てて、嵬空山に入る道を選んだ。
当初、葵は遠縁の親族にあずけられる算段であったのだが、泣いてわめいて父親に取りすがった。それなら自分は出奔し、一匹でも多くの妖異を道連れにして生命を散らす――と、そんな埒もないことを言い張って、なんとか無理を通してみせたのである。
父親は、さぞかし思い悩んだことだろう。七つの幼子を連れて嵬空山に入ろうとする人間など、そうそうあるはずもない。また、たとえそれが認められたところで、我が娘がこのような幼い内から降魔師を目指すことなど、とうてい喜べるわけがないのだ。
しかし葵は、譲らなかった。激情にまかせて吐いた言葉も、すべて葵の真情である。母と弟妹を失った上に、父親とまで引き離されてしまうのなら、もはやこの世に生きる価値はなしと、葵はそうまで思い詰めていたのだった。
そうして葵と父親は、嵬空山に入門することになった。
七つの葵に対して、この頃の父親はすでに三十の齢を数えている。このように
その上、父親は葵を連れていたのだ。しかも葵は七つの娘の身でありながら、父親とともに降魔師になることを望んでいる。家族を失った悲しみで気のふれてしまった父娘が修行の真似事をしておると、そんな風に揶揄するものも少なくなかった。
だが、葵と父親はそんな心ない悪罵に屈することなく、ひたすら修練に明け暮れた。
その甲斐あって、父親は五年がかりで降魔師の座を賜り――さらにその二年後には月蓮の八葉と認められて、降魔刀を授かる段に至ったのだった。
三十七という初老に差し掛かった齢で降魔刀を授かる人間など、これまで存在したことはない。おおよその降魔師というのは幼き頃から修練を積み、若くして力を得るものであるのだ。執念でその座を勝ち取った父親に、多くの人間は敬服してくれていた。葵にとっても、父親は誇りそのものであった。
そしてそれから一年の後には、ついに葵も降魔師として生きることが許された。
七つの頃から修練を重ね、十五となった年である。それは他なる降魔師たちと比しても特筆するほどの若さではなかったが、葵は女人であったのだ。女人の身で降魔師としての資格を勝ち得た人間は、嵬空山の歴史においても数えるほどしか存在しないはずだった。
そうして、さらに一年後――月蓮の八葉として数々の使命を果たしてきた父親が、供たる伏士を失った。
そこで葵は、父親の新たな伏士となることが許されたのである。
伏士とは己の身命を賭して、八葉を守るのが使命となる。類い稀なる力を持つ月蓮の八葉が憂いなく働けるように、我が身を犠牲にしてでも万難を排するのだ。
父親の伏士として供をできるというのは、葵にとって何よりの栄誉であった。
女人の分際で八葉の伏士などとは、おこがまがしい。嵬空山の大僧正も若い娘の色香に惑わされたのか、あるいは父親が娘に分不相応な栄誉を与えようと画策したのか――などと、下らない風評を垂れ流すものもなくはなかったが、葵はまったく歯牙にもかけていなかった。父親もさんざん愚弄されながら、ついには八葉の座を手に入れたのだ。父親の背を追いかける葵は、言葉ではなく行いによって我が身の正しさを示す所存であった。
思えば――それから父親とともに過ごした一年ほどの歳月が、葵にとってもっとも幸福な記憶なのかもしれなかった。
同じぐらい幸福であった幼き頃の記憶は、すでに遠くに霞んでしまっている。血反吐を吐くような修練の果てに、葵はようやく家族と過ごす幸福を取り戻せたような心地であった。
しかしまた、そのような幸福は一年ほどしか続かなかったのだ。
ひと月ほど前――父親は、妖異の前に斃れてしまった。
月蓮の八葉すら及びもつかないような妖異が、この世には存在したのである。
(逃げろ、葵……お前だけは、なんとしてでも生きのびるのだ)
葵に降魔刀を手渡しながら、父親は最期に笑っていた。
(おれはこの地で生命を散らすが、お前と過ごしたこの一年は、何よりの幸せであったぞ……)
自分だって、同じ気持ちだ!
――そんな思いを届けるいとまもなく、葵は父親の手によって川の濁流に突き落とされた。追いすがる妖異から逃げのびるには、もはやそれしか手段がなかったのだ。
やがて川下の川べりに打ちあげられた葵は、父親の形見である降魔刀を押し抱きながら、ひと晩泣き伏すことになった。
葵はついに、最後の家族まで亡くしてしまったのである。
葵の涙など、あの日にすべて流し尽くしてしまったはずだった。
(そうだ……何を泣くことがある……私は父上の遺志を継ぎ、降魔師として生きるのだ……そして必ずや、父上の仇を討たねばならんのだ……)
どことも知れない茫漠な世界の真ん中で、葵はそのように考えた。
そんな葵を叩きのめすべく、心の奥底に封じ込めておいたさまざまな記憶が、あの日の川の濁流のように葵の魂を呑み込んでいった。
血の海に沈んだ、家族たちの亡骸。
その亡骸を前にして、慟哭をあげる父親の姿。
葵と父親を嘲弄する、嵬空山の不逞の輩たち。
守りきれなかった人々の死に顔。
火傷で赤く引き攣れた、父親の最期の笑顔。
川の濁流に呑まれながら、最後に見えてしまったあの光景――追いすがってきた妖異が、父親をなぶり殺しにする姿。
(私は、どうして……どうして、こんなにも無力であるのだ)
自分に力さえあれば、決して父親を死なせたりはしなかった。
そうすれば、自分は今もなお父親と幸福な時間を過ごせていたはずなのだ。
(……お前はけっきょく、自分の欲得しか頭にないのだな)
葵の中にあるもうひとりの自分が、そのように囁きかけてきた。
葵と同じ顔をしたそのものは、葵を見下げ果てるように歪んだ嗤いをたたえていた。
(お前のせいで死んだ人間は、父親ばかりではない。つい先刻も、お前のせいで何十人もの人間が生命を散らしていたではないか)
(つい……先刻……)
(なんだ、もう忘れてしまったのか? あの山麓の村落に住まう、気の毒な連中だ。醉象と毒龍に脅かされながら、あやつらはようよう生き永らえていたというのに……お前のせいで、みんな死んでしまった。お前が浅ましい妄念にとらわれて、父親の形見を手放さなかったためだ)
(私……私は……)
(あの赤い髪をした半妖めに降魔刀を受け渡しておけば、あやつらも死なずに済んだのだ。あの半妖めであれば、毒龍が悪さをする前に息の根を止められたろうからな。お前の弱さが、なんの罪もない村人たちを皆殺しにしたのだ)
(だけど……私は……)
(みんな死んだぞ。男も女も、赤ん坊も老人も、ひとり残らず毒龍の糧にされてしまった。こんな苦しみもいつかは終わると、懸命に日々を生きていた人間たちが、わずか一夜で皆殺しにされてしまったのだ。いずれ祝言をあげるつもりであった若い男女も、新しい子を腹に宿していた母親も、家族のために歯を食いしばって働いていた父親も、年端もいかない幼子たちも……中には、お前の弟や妹ほど幼い子らもいたろうな)
葵は絶叫をあげて、耳をふさごうとした。
しかし、もうひとりの葵は狂ったように笑い声をあげている。
(お前は、あまりにも無力だ。その無力さが、この世に災いをもたらしている。……そもそもどうして月蓮の八葉たる父上を死なせておきながら、お前がおめおめと生き延びておるのだ? その身を呈して八葉を守るのが、伏士の役割であったはずだ。やはりお前は、伏士の器ではなかった。もっと力のある人間が伏士となっていたならば、父上も死なずに済んだはずであるのだ)
(私が……私のせいで……)
(それにお前は、どうしてまともに使えもしない降魔刀を抱え込んでいる? 月蓮の八葉が生命を散らしてしまったのなら、それは新たな八葉となるべき人間に受け渡すべきであろう?)
(それは……父上の遺志を継ぐためだ……嵬空山は、お上の言いなりで……褒美目当てに妖異を討滅しているにすぎん……父上は前々から、そのことに心を痛めていた……だから私は父上の遺志を継ぐために、辺遇の地で苦しむ無辜の民たちを……)
(違うな。お前はただ、父上の形見を手放したくなかっただけだ。そして、自らの手で父上の仇を討とうなどという妄念にとらわれて、降魔刀を我が物としてしまったのだ。降魔刀を嵬空山に返せば、よほど多くの衆生を救えたものを……お前は、父上の思いまでをも踏みにじったのだ。お前など、妖異に加担して人間を殺して回っているのと同じだ)
それは、葵自身の言葉であった。
他の誰でもない、葵が自分を責めたてているのだ。
泣いているのも嘲っているのも、すべては葵自身であった。
(しかしこれはお前にとって、何よりも大切な父親の形見であるのだろう? それを大切に思う心情が、妄念などとは思えんな)
と――そんな言葉が、ふいにどこかから舞い込んできた。
哄笑をあげていた葵は、冷ややかな顔でそれをはね返す。
(たわけたことを抜かすな。こやつは父親の形見を惜しんで、大勢の人間を見殺しにしたのだぞ。それが妄念でなくて何なのだ)
(見殺しになどしていない。村の人間たちが死ぬと知れれば、そやつはためらいなく降魔刀を差し出しただろう。現に最後は、そうしていたではないか)
(しかし、間に合わなかった。村人どもは、皆殺しとなったのだ)
(皆殺しにしたのは、毒龍なる妖異だ。そやつが村の人間たちを殺して回ったわけではない)
(こやつの力が足りぬために、村の人間たちは死ぬことになったのだ!)
(力の足りないことが、罪なのか? ならば、村人たちが死んだのは、己の罪ゆえであろう。なにせあやつらには、己の身を守る力も備わっていなかったのだからな)
葵は般若の形相となって、赤く燃える天空を振り仰いだ。
(こやつは愚かで無力な咎人だ! このような痴れ者に情けをかける必要などない!)
(情けなどかけていない。どれだけ嘆き悲しんだって、死んだ人間は戻ってこないのだ。己に罪があると思うならば、生きて贖う他あるまい)
赤い天空が、茫漠たる世界を呑み込んだ。
(人を死なせてしまった罪は、人を救うことでしか贖えないだろう。泣いているいとまなどあるものか。お前は何のために降魔師となったのだ、葵よ?)
赤い炎が人の形を取り、葵の前に立ちはだかった。
その手には、白銀の刀が握られている。
(おれたちは、家族を救うことができなかった。ならばその分まで、罪なき人間を救うしかあるまい。ただひとたびの失敗で挫けていたら、とうてい立ち行かんぞ)
それは果たして、自分の言葉であったのか、父親の言葉であったのか、あるいは赤い髪をした半妖の言葉であったのか――
そんなことも判然としないまま、葵は白銀の刀を受け取った。
(……これでいいのだな)
(これでいいのではない。こうする他、道はないのだ)
(相分かった)
葵は背後を振り返り、赤い世界で凝っている黒い妖異を斬り伏せた。
その瞬間――虚ろなる世界は、崩落した。
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