五 夢の痕
気づくと葵は地面に片方の膝をつき、錫杖の仕込み刀を振り下ろしていた。
耳障りな叫び声をあげて、ちっぽけな妖異が地面に落ちる。それは、墨を塗りたくったように黒い鼠の妖異であった。
「うむ……? これはいったい、如何なることだ?」
寝ぼけた声が、葵のすぐかたわらから聞こえてくる。
葵が振り返ると、やはり膝立ちの体勢で降魔刀を構えている楓丸の姿があった。その足もとでびくびくとのたうっているのは、白子のように白い鼠だ。
「おお、こやつは妖異だな。……どうやらおれは、こやつに悪い夢を見させられていたようだ」
楓丸はまだ眠そうに目もとをこすりながら、そのように言いたてた。
葵は無言のまま、周囲の夜闇に視線を巡らせる。そこには蜂の妖異どもがわんわんと羽音をたてており――そして、二匹の鼠の死とともに、黒い塵に返っていった。
「今の鼠どもが、蜂どもの主であったのか。こやつらは、いったい如何なる妖異であったのだ?」
「知らん。降魔師とて、すべての妖異の正体をわきまえているわけではない」
胸中に渦巻くさまざまな感情を押し殺しながら、葵はそのように言葉を返した。
「なるほどな」と、楓丸は身を起こす。
「ともあれ、この地の妖異は討滅できたようだ。最後はいささか、危ういところだったな」
葵が横目でうかがうと、楓丸の身からは妖気が消えて、その瞳も黒色に戻っていた。野兎のように、つぶらな瞳だ。
葵はすぐさま目をそらし、仕込み刀を鞘に収める。錫杖の遊環もすっかり静まりかえり、この地の妖異がすべて潰えたことを示していた。
しかしまた、妖異とともにすべての村民も死に絶えてしまったのだろう。
たちまち葵の胸には悔恨の念があふれかえったが、なんとかそれは呑みくだしてみせた。
「おい、葵。こいつを返しておくぞ」
楓丸は、刀身の消えた降魔刀の柄を葵に差し出した。
葵が押し黙ったままそれを見下ろすと、楓丸は「どうしたのだ?」と小首を傾げる。
「ああ、そういえば話が中途であったのだな。先刻も言いかけたが、おれは――」
「よい。同じ言葉を繰り返す必要はない」
葵は指先が震えてしまわないようにこらえながら、降魔刀の柄を受け取った。
しかし僧衣の袂には仕舞わずに、楓丸の顔をねめつける。
「……楓丸よ。私は今日、判断を誤った。お前にもっと早くから降魔刀を手渡していれば、村民たちのいくらかは救えたやもしれん」
「そうなのか。それは残念なことだったな」
「……かといって、半妖のお前に降魔刀を託すことは許されん。今後もこれは、私が持ち歩くしかなかろう」
降魔刀の柄をぎゅっと握りしめながら、葵はそのように言ってみせた。
「ただし……降魔師の使命は、妖異の討滅にある。そのために必要な折あらば、お前に降魔刀を受け渡す他ない。そのときは、お前が己の生命を削って、妖異を討滅するのだ」
「相分かった。おれはそのために、葵のかたわらにあるのだからな」
楓丸は、幼子のようににこりと笑った。
「ところで、葵よ。おれはお前に礼を言っておきたいのだが」
「礼だと? 何についての礼だ?」
「うむ。実は……夢の中で、おれはもうひとりの自分に脅かされていたのだ。お前などに生きる価値はないのだから、すぐさま生命を絶つがいい、とな。それを踏み留まらせてくれたのが、かつてお前がおれにかけてくれた言葉であったのだ」
葵は完全に虚を突かれて、立ちすくむことになった。
そんな葵の心情も知らぬげに、楓丸は滔々と語らっている。
「いずれあの夢も、妖異の見せる手管であったのだろうが……知っての通り、おれもひとたびは死の覚悟を固めていた身であるからな。やっぱり妖異の子であるおれなどに生きる意味はないのだと、ずいぶん追い込まれることになってしまった。しかし、お前がかけてくれた言葉のおかげで、おれは――うぎゃあ」
葵は無言のまま、降魔刀の柄を握った拳で楓丸の額を小突いていた。
地面にひっくり返った楓丸は、額をさすりながら不平そうに葵を見上げる。
「いきなり何をするのだ! 礼を言っているさなかに頭を小突くとは、あまりにひどい仕打ちではないか!」
「……夢の中の出来事など、私の知ったことではない。そのような戯れ事にうつつを抜かしているいとまはないぞ」
「うむ? 妖異はすべて退治したのに、まだ何か急ぎの用事でもあるのか?」
「たわけたことを抜かすな。すべての家を巡って、生き残りの人間がいないものか確かめるのだ。もしも全員が息絶えてしまっているのなら……村を焼き払う他あるまい。骸をそのままにしておけば、疫病を招いてしまうやもしれんからな」
「おう、そうか。それは確かに、一大事だ。それでは、さっそく取りかかるか」
ひょこりと身を起こした楓丸は、もう小突かれたことも忘れたかのように、無邪気な笑顔で葵を見上げてくる。
葵はまた、さまざまな激情に胸をかき回されることになったが――もうその笑顔から目をそらそうとはしなかった。
「……楓丸よ。私もお前に、伝えておかなければならんことがある」
「うむ。如何なる話だろうかな?」
「私は嵬空山にて修行を積んだ降魔師であるが、すでにその身分は潰えている。嵬空山において、私は父親とともに生命を散らしたと見なされているはずであるのだ」
楓丸は大きく目を見開いて、表情を消した葵の顔をまじまじと見返した。
「それは奇妙な話を聞かされるものだ。どうしてお前は、自分が生きていることを仲間たちに伝えずにいるのだ?」
「嵬空山に降魔刀を返しても、辺遇の地の人間が救われることはない。嵬空山というのは、お上の命令で妖異を討滅するのが使命であるからな。……私の父親は前々から、嵬空山のそういったやり口に疑念を呈していた」
夢の中で語られていた言葉が、葵の口から噴きこぼれていく。
しかし葵は、それを止めようとも思わなかった。
「そうしてあの日も、私たちは使命を帯びて、妖異の討滅に向かったのだが……その帰り道に、辺遇の村落が妖異に脅かされていることを知った。それで父上は嵬空山の意向も仰がず、自分の判断で村落に向かい……そして、返り討ちにあったのだ」
楓丸は無言のまま、葵の言葉を聞いている。
その無垢なる眼差しに心を灼かれながら、葵は言葉を振り絞った。
「それで私は降魔刀とともに行方をくらまし、辺遇の地をさまよい続けている。これこそが父の遺志であるのだと、自らに言いきかせながら……実際は、父の仇を討つために、この地で修練を積んでいるのだ。降魔刀なくして父の仇を討つことはかなわぬので、嵬空山には何も告げずに、降魔刀を我が物としてしまっている」
葵は血がにじむぐらい両手の拳を握り込み、胸の奥底からせりあがってくる激情の奔流に堪えた。
「もしも嵬空山のものたちにこの所業が知れたならば、私は掟を破った咎人として処断されることになろう。……私は妄念に取り憑かれた、大罪人のはぐれ降魔師であるのだ」
「父親を大切に思う心情が妄念だなどとは、おれには思えない。……と、先刻もそのように伝えたはずだな。やはり、話の続きをする必要があったのではないか」
そう言って、楓丸は朗らかに笑った。
「何にせよ、葵はおれの恩人だ。お前が大罪人であろうとも、その事実が動くことはない。嵬空山の掟など、おれの知ったことではないしな」
「……しかしお前は私が嵬空山の人間として正しい所見を有していると信じ、自らの命運を託したのであろうが? 嵬空山の掟を破っている私に、そのような資格など存在していなかったのだ」
「ではおれは、降魔師ではなく葵という人間の言葉を信ずることにする。お前のように誠実で心正しき人間が、道を誤ることはあるまい」
「私は、すでに道を誤っている」
「おれは、そうは思わない」
葵を見つめる楓丸の瞳は、初めて出会った日の夕暮れ刻と同じように、澄み渡った輝きをたたえていた。
「お前を信じるのは、おれの勝手だろう? お前が道を誤っていたならば、二人まとめて地獄に落ちるだけのことだ。ひとりで地獄に落ちるよりは、おたがい心強かろう」
「たわけたことを……」
葵はぎりっと奥歯を噛み鳴らしながら、楓丸の笑顔を睨み据えた。
そうでもしなければ、熱いものが目からあふれ出てしまいそうであったのだ。
「ところで、父の仇たる妖異というのは、いずこに潜んでいるのだ? ここから遠からぬ場所であるのか?」
「……私が翌日に駆けつけると、村落のものたちは皆殺しとなり、妖異は消え失せていた。あの妖異めは、また別なる地で人の悪念を喰らっているのであろう。その所在を求めながら、私はこうして旅を続けている」
「そうか。それは無念であったな。おれは葵のおかげで母の仇を討つことがかなったのだから、今度は葵の力になりたく思うぞ」
葵は固くまぶたを閉ざし、身の内に吹き荒れる激情をなんとかなだめてから、楓丸に背を向けた。
「もうよい。とにかく、村人たちの所在を確認する。無駄口を叩くのは、その後だ」
「決して無駄口ではなかったぞ。葵が色々なことを打ち明けてくれて、おれは嬉しく思っている。そしてまた、葵のことをいっそう好ましく思えるようになったようだ」
もはや葵は、言葉を返そうとしなかった。
葵は自らの罪と恥をさらけ出しただけであり、なんの解決も見てはいないのだが――それでも、胸の中が少しだけ軽くなったような心地を抱かされていた。
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