三 毒龍
井桁に足を掛けた楓丸は、赤く燃える眼で井戸の奥底をにらみつける。
それを見返すのは、闇の中に沈む鬼火の如き眼光であった。
「さあ、何とする? おれのほうから飛び込んでやるべきか?」
雷鳴の如き咆哮が、井戸の奥底から鳴り響いた。
楓丸は、しめしめとばかりに後ずさる。いかに豪胆なる楓丸でも、やはりこのような狭苦しい場所に身を投じたくはなかったのだ。
そんな楓丸を追いかけるようにして、妖異がぬるりと井戸から首を出した。
てらてらとした黒い鱗を持つ、巨大な蛇の頭である。その顔貌は馬のように角張っており、頭の天辺には二本の角が生えのびていた。
「やはり、蛇か。ずいぶん不細工な面相だな」
不敵に言い放ちながら、楓丸は木剣を振りかざした。
それを頭の角で弾きつつ、妖異は総身をあらわにする。その姿を見て、楓丸は「おや」と目を丸くした。
「蛇ではなく、
それなる妖異は蛇のごとき長大な首を持ちつつ、その下に四肢を隠していた。胴体の部分はずんぐりと膨らんでおり、尻尾はまた蛇のように長くのびている。蛇と馬を掛け合わせたような、実に奇怪なる姿であった。
「それなる妖異は、毒龍だ! 毒を帯びた炎を吐くぞ!」
蛇や蜂どもの様相を窺いつつ、葵はそのように言いたてた。
楓丸は「そうか」と、けだものじみた笑みを浮かべる。
「まあ、何がどうでもかまわんさ。おれはこやつを滅するだけだ」
毒龍は長い首を振りたてて、いくぶん紫がかった火炎を吐いた。
それをかわした楓丸は、横合いから毒龍の前肢に木剣を振り下ろす。
吹き飛びこそはしなかったが、毒龍の前肢はその一撃でぐしゃりと潰れ、青黒い体液を噴きこぼした。
「お前は、大して硬くはないな。これなら、おれひとりでも――おや?」
闇に白刃が閃いて、毒龍の咽喉もとを大きく引き裂いた。
毒龍は、怒りの咆哮をあげながら後ずさる。さらなる体液が噴きこぼれて、地面にしたたるそばから黒い塵と化していった。
刀を振るったのは、もちろん葵である。降魔刀は袖に収めて、杖刀を手に毒龍を睨み据える。その凛然とした姿に、楓丸は笑みをこぼした。
「なんだ、葵も手が空いたのか」
「うむ。分かれ身どもは、まったく動こうともせん。主めを追い詰めれば、分かれ身を消し去っておのが妖力を高めようと目論むに相違あるまい」
「相分かった。ではその前に、片付けるか」
葵と楓丸は、左右から毒龍に躍りかかった。
毒龍はその斬撃から逃げ惑いつつ、毒の火炎を撒き散らす。それを浴びれば無事では済まなかろうが、葵も楓丸も危なげなくかわすことができた。
「やたらと素早いが、牛鬼の主ほど厄介ではないようだな」
「うむ。それでも、油断はすまい」
葵の杖刀が背中を斬り裂き、楓丸の木剣が右の後ろ肢を叩き潰す。
鱗の肌から青黒い体液を噴きこぼしつつ、毒龍は怨嗟の雄叫びを轟かせた。
そこに、別なる悲鳴が折り重なる。
葵は慄然と、周囲を見回した。
「今の悲鳴は……まさか、貴様!」
気づけば、あれだけ大挙していた蛇や蜂の群れが消えていた。
そして、四方八方から人間の悲鳴が聞こえてくる。あれだけ静まりかえっていた村落が、瞬時に阿鼻叫喚の坩堝となっていた。
「なんだ、何が起こっているのだ?」
「……こやつが先刻の分かれ身を使って、村の人間たちを殺めているのだ。その無念と恐怖を、おのが力と変えるためにな!」
葵の切れ上がった双眸に、赫怒の炎が燃えあがった。
「とにかく、こやつを仕留めるのだ! さすれば、分かれ身どもも塵と化す!」
「おう!」と応じる楓丸の眼にも、新たな憤激の炎が宿された。
しかし――その手が振るった木剣の一撃は、毒龍の鱗に弾かれてしまう。
先刻までは容易く打ち砕かれていた毒龍の身が、岩のように硬くなっていた。
「こやつ、早々に新たな妖力を手に入れてしまったようだぞ!」
毒龍は、馬と蛇を掛け合わせたような顔貌で、悪鬼のように嗤っていた。
その身には、牛鬼の主にも劣らない妖力の気配があふれかえっている。
葵は一瞬の半分だけ迷った末、僧衣の袖口から抜き取った降魔刀の柄を楓丸に受け渡した。
「叩き斬れ! 即刻にだ!」
楓丸は返事をする間も惜しむように、木剣を打ち捨てて降魔刀を両手で握った。
瞬時にして、そこに純黒の刀身が顕現する。
黒き炎をよじり合わせたかのような、巨大なる刀身である。その長さは楓丸の背丈を超えるほどであり、周囲の闇を圧するほどに黒かった。
「くたばれッ!」と、楓丸は降魔刀を振り下ろす。
毒龍は、毒の火炎でそれを迎え撃った。
その凄まじい火炎の奔流ごと、降魔刀の斬撃は毒龍の顔貌を両断する。
岩の如き鱗とて、豆腐のようにすぱりと断ち割られてしまう。毒龍は断末魔の叫びをあげるいとまもなく、黒い塵と化していった。
「ふう……本当に大したものだな、この降魔刀というやつは」
そのようにつぶやきながら葵を振り返った楓丸は、心配げに眉を曇らせた。
「どうしたのだ、葵よ。まるで泣くのをこらえているかのようだぞ」
「たわけたことを抜かすな! 私が涙など見せるものか!」
そのように叫ぶ葵は、むしろ壮絶なる怒りに身を震わせているようだった。
「……私が最初からお前に降魔刀を預けていれば、この村落の人間たちも死なずに済んだのやもしれん。私の浅ましい妄念が、多くの人間を殺めることになったのだ」
「ふむ。しかしこれはお前にとって、何よりも大切な父親の形見であるのだろう? それを大切に思う心情が、妄念などとは思えんな」
そんな風に語りながら、楓丸はがくりとその場に膝をついた。
葵は懸命に激情をねじ伏せつつ、そのかたわらに屈み込む。
「お前もしばし身を休めるがいい。降魔刀は、生命を削って振るう武具であるからな」
「いや、違う……さきほど蜂めに刺された場所が、いっそうひどく疼いてきたのだ」
楓丸の小さな顔は、いつしか脂汗にまみれていた。
そしてその真紅をした眼が、食い入るように葵を見据えてくる。
「気を抜くなよ、葵……おれの心臓は、暴れたままだ。この地には、いまだ妖異が潜んでいる」
「なに? 醉象と毒龍の他に、まだ妖異が潜んでいるとでも――」
そのように言いかけた葵の首筋に、鋭い痛みが走り抜けた。
葵はほとんど降魔師の本能で、その手の杖刀を一閃させる。黒い塵と化したのは、一匹のちっぽけな蜂の妖異であったようだった。
「馬鹿な……」
葵は、地面にくずおれた。
毒針を打ち込まれた首筋から、凄まじい勢いで熱い痛みが駆け巡っていく。頭蓋の中身が沸騰し、耳や鼻からとろけた脳髄がこぼれ落ちていくような心地であった。
(不覚……)
そんな無念の思いも、すぐさま暗黒の濁流に呑み込まれてしまう。
果てのない深淵を転げ落ちるようにして、葵は意識を失うことになった。
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