二 井中の怪

 その村落は、すべての人間が死に絶えてしまったかのように静まりかえっていた。

 だが、おおよその家には明かりが灯されている。妖異を恐れて、息を殺しているのだろうか。いずれの家も堅く戸を閉ざして、姿を見せようとするものもない。また、とっぷりと日も暮れているというのに、夕餉の準備をしている気配もなかった。


「さきほどの娘も、黙って殺されたわけではあるまい。誰も助けに出ようとは考えなかったのだろうか?」


 村落に開かれた道をひたひたと進みながら、楓丸がそのようにつぶやいた。

「無茶を申すな」と、葵はさらに低い声音で応じる。


「あれほどの妖異が相手では、村の人間に立ち向かうすべはあるまい。力なき人間があらがおうとしても、屍が増えるだけのことだ」


「ううむ。そういうものなのか。なんというか……世知辛い話だな」


 そうして楓丸は、野獣の如き相貌に勇猛なる笑みをたたえた。


「だが、そういったものたちを救うことこそが、降魔師の使命ということだな。そんな仕事を手伝えることを、おれは心から嬉しく思うぞ」


「置け。いよいよ妖気が強まってきたぞ」


「わかっている。おれの心臓は暴れ放題であるからな」


 月の明かりを頼りとして、両名はさらに突き進む。

 やがて眼前に現れたのは――古びた木造りの井戸であった。

 両名は無言のまま、井戸の手前で足を止める。わざわざ声を掛け合うまでもなく、その井戸からは硫黄の毒煙のように妖気がたちのぼっていた。


「どうやら妖異は、井戸の底のようだな。ずいぶん厄介な場所に潜んでくれたものだ」


「うむ。あのように狭苦しい場所に身を投じるのは、いささか気が進まんな。いったいどのように始末をつけるべきだろうか?」


「いつまでも隠れ潜んでいるようなら、油でも流して火責めにしてやりたいところだが……あちらもそうまで大人しくはしておるまい」


 葵と楓丸は、それぞれの得物を構えなおすことになった。

 井戸の底から、さらなる妖気がせりあがってきたのだ。


 やがて井桁に、にゅるりと黒い影が蠢く。

 それは、一匹の蛇であった。


「うむ? ずいぶんちっぽけな妖異だな」


 楓丸はそのようにつぶやいたが、井戸の底から感じられる妖気は、さきほどの醉象よりも遥かに強大である。このような小蛇は、妖異の分かれ身に過ぎないのだろう。

 よって、葵も楓丸も決して油断することなく、さらなる脅威に備えていたのだが――それでもいささかならず、意表を突かれることになった。最初の一匹を皮切りにして、古井戸からは無数の小蛇が這いあがってきたのである。


 小蛇どもは黒みがかった鱗を照り輝かせながら、次から次へと地面にあふれかえってくる。あっという間に、古井戸の周囲は小蛇の群れで覆い尽くされてしまった。


「ううむ。牛鬼どもに比べれば、ずいぶんちっぽけな妖異であるようだが……この数は、ちと厄介であるかもしれんぞ」


「うむ。妖異であれば、どのような手管を隠しているかもわからん。ゆめゆめ油断するのではないぞ」


 そのように言葉を掛け合いながら、両名は後退を余儀なくされた。牛鬼の群れすら撃退した葵と楓丸であるが、このような小蛇の群れに囲まれるのは、いっそう危ういように思えてしまったのである。


「家の壁を背に取るのだ。それ、そちらの家に身を寄せろ」


「うむ。承知した。……うお、来たぞ!」


 さしもの楓丸も仰天した声をあげて、手近な家の壁に背中を張りつかせた。ぬめぬめと地面を這いずっていた小蛇どもが、ふいに高波のような勢いで迫り寄ってきたのである。


 葵と楓丸はそれぞれの得物を振るって、小蛇どもを返り討ちにした。

 見た目通りの、ちっぽけな妖異である。杖刀や木剣でその身を打てば、あえなくふたつに引き千切れて、そのまま塵と化してしまう。

 しかしやはり、その数だけが厄介であった。

 あるものは地面を這い、あるものは宙を飛来して、息もつかせず躍りかかってくる。無間地獄の如き責め苦であった。


「これでは、埒が明かん! いっそこやつらを踏み越えて、井戸の底を目指すべきだろうか?」


「そのような真似をしては、いくたび噛まれるかもわからんぞ! きっと無事ではいられまい!」


「おれなら、多少の毒で死ぬことはない! それは葵も承知していよう?」


「死なずとも、歩を止めたら総身を蛇で包まれることになろう! それでも、無事でいられるのか?」


「ううむ。それでも生命を落とすことはないように思うのだが……このような蛇どもにくるまれたいとは思えんなあ」


 そのように語る間も、両名は懸命に得物を振るっている。一瞬でも手を休めれば、どこかしらを蛇に噛まれるのが必定であった。


「しかしどれほどの妖異でも、無限に力が続く道理はない! すべての分かれ身を滅すれば、いずれその主が姿を現そう!」


「それまでこちらの力がもてばいいのだが……あ痛ッ!」


「どうした! 噛まれたのか!」


「いや、そんなはずはない! しかし、今の痛みは……」


 変わらぬ勢いで小蛇どもを退けつつ、楓丸は鋭く目をすがめた。

 やがてその顔に、うんざりとした表情が浮かべられる。


「これはまずいぞ。今度は、蜂だ」


「蜂?」と答える葵も、楓丸のほうを振り返るゆとりはない。

 しかしその目も、ほどなくして楓丸と同じものを認めることになった。

 闇の中を、蛍のように飛び交っているものがある。それは小蛇よりもなおちっぽけな、蜂の妖異の眼光に他ならなかった。


 わんわんと、羽を鳴らす音も響いてきている。いったいどれだけの数が湧いて出たのか、夜の帳が蜂と蛇の青白い眼光で埋め尽くされそうなほどであった。


「蜂めに刺された首のところが、爛れるように熱くなってきたぞ。このような毒針を何発もくらっていたら、それだけで危うくなってしまいそうだ」


 楓丸は頭を包んでいた頭巾を煩わしげに引き剥がし、憤然とした口調でそう言った。


「やはりおれは、井戸の底を目指そう。葵は、なんとかしのいでくれ」


「待て! ならば私が、道を切り開く!」


 右手で杖刀を振るいつつ、葵は左手で降魔刀の柄を抜き出した。


「降魔刀の斬撃であれば、このような木っ端どもはまとめて消え果てるはずだ! その間隙をぬって、井戸を目指すがいい!」


「承知した! いつでもやってくれ!」


 ひっきりなしに動きながら、葵は精神を集中した。

 本来であれば、楓丸に降魔刀を振るってもらい、葵が井戸を目指すべきであろう。口惜しいことに、葵がどれだけ力を振り絞ろうとも、楓丸ほど凄まじい調伏の刃を顕現させることはかなわないのだ。


 しかしこれは、父の形見たる降魔刀である。

 半妖である楓丸に、うかうかとその力を使わせるわけにはいかない。嵬空山の掟を持ち出すまでもなく、葵の矜持がそれを許さなかったのだった。


(父上の遺志を継ぐのは、私だ!)


 蓮華紋の美しい鍔の中心から、光の刀身が顕現する。

 かそけき光暈の寄り集まった、陽炎のようにはかなげな輝きだ。

 葵は裂帛の気合とともに、その刀身を振り下ろした。

 白銀の閃光が走り抜け、それに触れた妖異どもを雪のように溶かしていく。

 それで生まれた光の道を、楓丸は悍馬の如く駆け抜けた。


 左右に散った蛇と蜂どもは、そうはさせじと楓丸に躍りかかろうとする。

 それをまた、葵は降魔刀の斬撃で退けてみせた。


 その一閃ごとに、葵の身からは力が奪われていく。

 降魔刀とは、おのが生命と引き換えにして調伏の刃を顕現させる、嵬空山の秘具であるのだ。それを振るう人間が未熟であればあるほどに、大きく生命を削られるはずであった。


 ただし、その力は絶大である。途方もない数であった蛇と蜂どもは、すでに七割がた消滅している。生き残ったものたちも、降魔刀の威力に怯えた様子で動きを止めていた。


 楓丸は、すでに井桁に足を掛けている。

 その姿を見届けて、葵は調伏の刃を消し去った。

 今のわずかな時間だけで、いったいどれだけの寿命を削られたのか。心臓はどくどくと胸を叩き、血が煮えたっているかのように五体が熱い。


 しかし葵はまったく鋭さの減じていない双眸で、左右の闇をねめつけた。

 妖異を討滅するためであらば、自分の生命など顧みるものではない。蛇や蜂どもがまた悪さをするようなら、躊躇いなく降魔刀を振るう所存である。


 だが、闇の向こうに後ずさった妖異の群れどもは、そんな葵の姿を恨みがましげに睨み返すばかりで、ひそとして動こうとしなかった。

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