月日の鼠の巻
一 旅立ち
「おお! ようやく人里が見えてきたぞ!」
ぽんぽんと弾む手毬のような声音で、楓丸がそのように言いたてた。
かたわらを歩いていた葵は、冷ややかな目でそれを見下ろす。
「何をそのように、はしゃいでおるのだ。お前とて、山菜や川魚を売りさばくために人里まで下りていたのであろうが?」
「用向きがあって人里まで出向くのと、旅人として訪れるのでは、心持ちも違ってこようというものだ。おれはこのまま山に戻らず、人里を抜けてさらにその先に進むことがかなうのだからな!」
そのように語る楓丸は、満面の笑みである。
葵のほうは、ますます冷めた顔になった。
「くれぐれも、騒ぎを起こすでないぞ。……まずは、お前の身なりから整えなければな」
「うむ? この身なりで、何か不都合でもあるのだろうか?」
楓丸は古びた頭巾で赤い髪を隠し、小さな体躯には小豆色の粗服を纏っている。背には小さな風呂敷の包みを斜めに負って、腰には木剣と小ぶりの山刀――それで足などは素足であるものだから、ひいき目に見ても山賊の一味めいていた。
「山に暮らすと公言して、山の恵みを売りさばく分には、さしたる不都合もないのであろうがな。そのような身なりで旅を続けていれば、人の目を引いて仕方あるまい」
「そうなのか。まあおれなどは、ほとんど人の世の道理もわきまえていないのだろうからな。先達たる葵の言葉に従いたく思うぞ」
楓丸は、あくまで屈託がない。楽しくて楽しくてたまらぬような笑顔である。葵としては、嘆息を禁じ得ないところであった。
葵と楓丸が邂逅を果たしたあの日から、これが五日目となる。
どうしてそれほどに日が過ぎているかというと、両者は山を踏み越えて、反対の側から下山したためであった。
理由は、ふたつある。
ひとつは、山中に他なる妖異が潜んでいないか、確認をするため。
もうひとつは、飢饉で滅んだという村落の所在を明らかにするためであった。
妖異というものは、無念や怨念を種子として生まれいずる。あの山に潜んでいた牛鬼も、おそらくは飢饉で滅んだ村民たちの怨念が種子となっていたのだろう。それが他の地にも災いを為していないか、それを確認する必要に迫られたのだ。
さしあたって、山中に他なる妖異の気配は感じられなかった。湧いて出たのは、蛇や狸や
そのおかげもあって、葵はかつての力を取り戻している。牛鬼との戦いで負った傷はもちろん、このひと月ほどで積み重ねられた疲弊も、すっかり癒やすことがかなったのだ。
獣肉食のご禁令など、知ったことではない。楓丸の捕らえた獣たちは、とうてい美味とは言えぬような味わいであったものの、葵にまたとない活力を与えてくれた。今ならば、単身で牛鬼の主を討滅することも可能であるはずであった。
そうして葵は総身の力を取り戻したが、その代わりに新たな煩悶の種を抱えることになった。
言うまでもなく、旅の道連れとなってしまった楓丸からもたらされる煩悶である。
(この五日間、こやつはひとたびとして妖異の貌を見せることがなかった。やはり妖異に近づかぬ限りは、人外の力を振るうこともかなわないのだろうか)
葵はひそかに、そのように思案していた。
無論、これほど無邪気な様子を見せている楓丸の言葉を疑っているわけではないのだが――楓丸自身、自らの力についてはわきまえていない部分が多いのだ。
楓丸は頭蓋やあばらがあらわになるほどの深手を負いながら、わずか一夜でもとの姿を取り戻していた。頭や背中には肉と皮膚と髪がよみがえり、それほどの傷を負ったという痕跡すら残されていない。また、牛鬼どもとの戦いで見せた妖力のほどは、葵がこれまでに見てきた中で二番目の――父を殺めた赦されざる妖異に次ぐほどの凄まじさであった。
もしも楓丸が人間に害を為す存在であると判じられた場合は、葵がこの手で始末をつけなければならない。それが、半妖たる楓丸を外の世界に解き放つ葵の責任であり、覚悟であった。
そんな葵の思惑などどこ吹く風で、楓丸は楽しげな様子である。
また実際、楓丸はこの五日間で事あるごとに自らの心情を語らっていたのだった。
「なんべんも言っている通り、おれは葵のことを好ましく思っていたからな! そんな葵と二人で外界に出向けるなどとは、思ってもいなかった成り行きだ! おれはもう、夢でも見ているような心地だぞ!」
葵はすっかり、楓丸になつかれてしまっていた。
それはまあ、死の覚悟を固めていた楓丸に生きることを許したのだから、それを恩に思うのは当然のことなのやもしれないが――それにしても、楓丸はあまりに屈託がなさすぎて、葵を辟易させた。葵としては、いつなりとも楓丸を斬り伏せる覚悟を備えておかなければならなかったのだから、それも当然といえよう。
(十になるまでは母親以外の人間を知らず、己は妖異の子と言い含められて……ついには母親をも失い、牛鬼どもと殺し合いながら三年もの歳月を過ごし……それでどうして、こやつはこのように無邪気でいられるのだ?)
楓丸は無邪気なばかりでなく、知恵も回るし人並みの情感も備えている。また、山野で育ったとは思えぬほど、言葉も巧みだ。そもそもは武家の出である葵と遜色のない言葉づかいであるのだから、それなりの身分である母親に育てられたことは明白であった。
(母親の情愛が、こやつを人間らしく育んだのか……あるいは、妖異としての強靭さが、その身に振りかかる不幸をものともしなかったのか……なかなか判ずるのは難しいところだな)
そうして緑の深い小道を進む内に、いよいよ人里の明かりが目の前に迫ってきた。
外界は、すでに薄暮に包まれている。紫色をした薄闇の中、ぽつぽつと人家の明かりが灯されているさまは、何とも情緒的なものであった。
と――葵の携えていた錫杖が、ふいにしゃくしゃくと鳴き始めた。
それと同時に、楓丸の体躯が真紅の妖気に包まれる。
「なんと……人と行きあう前に、妖異と出くわしてしまったな」
楓丸が、笑いを含んだ声でつぶやいた。
これまでに見せていた、無邪気な笑いではない。その内に激情を押しひそめた、野獣の如き笑みである。その双眸には、真紅の炎が噴きあがっていた。
「牛鬼とは、まったく異なる気配であるようだが……おれの心臓は、同じ勢いで暴れ狂っている。どうやらおれは相手が如何なる妖異であろうと、同じ怒りを胸に抱くことができるようだぞ」
そのように語る楓丸の姿を、葵はじっと見据えていた。
牛鬼どもを眼前に迎えたときと寸分変わらぬ、妖異じみた姿である。その身は真紅の妖気に包まれて、赤色に変じた双眸には飢えた獣じみた眼光がぎらついている。
しかし、我を失っている様子はない。五日前と同じように、楓丸は人外の存在に変容しながらも、もともとの心緒をその身に残していた。
「どうした? 妖異を退治せぬのか? うかうかしていると、人間が襲われてしまうやもしれんぞ」
「お前の指図は受けん。……ゆくぞ」
葵が小道を駆け出すと、楓丸もぴったりと横に並んだ。
人里の明かりが、いよいよ目前に迫ってくる。
妖異はすでに、その地の人間たちを脅かしてしまっているのか――葵がそのように考えかけたとき、楓丸が「血の臭いだ」と囁いた。
(これは……!)
人里への入り口をふさぐように、巨大な影がうずくまっていた。
二頭の牛を重ね合わせたような、巨大なる体躯である。そしてその下には、あわれなる人間の娘が組み敷かれてしまっていた。
闇の中に、濃密なる血臭が溶けている。
娘はすでに、絶命してしまっていた。仰向けに倒れた娘はがくりと首をのけぞらせて、恐怖と怨念の凍てついた眼を葵たちのほうに向けていたのだった。
「なんだ、あやつは? 娘の骸を喰らっている様子でもないし……屍の上に覆いかぶさって、何をしておるのだ?」
腰の木剣を抜きながら、楓丸がうろんげにつぶやいた。
しかし葵は、答えなかった。事もあろうに、妖異は娘の骸を凌辱していたのである。しかしその身があまりに巨大であるために、娘の股座は腹まで裂けて、血肉と臓物をこぼしてしまっていた。
「あれなるは、
「もとより、そのつもりだぞ!」
楓丸が地を蹴って、醉象の巨躯へと躍りかかった。
醉象は奇妙に甲高い咆哮をあげて、それを迎え撃つ。楓丸の繰り出した斬撃は、毒蛇のようにひるがえった黒い影によって弾き返されてしまった。
「なんだ、今のは? あやつは顔に尾でも生えているのか?」
地面に降り立った楓丸は、またうろんげにつぶやいた。
醉象とは、大陸に棲む象なる獣と似た姿をしている。顔の横には翼のごとき巨大な耳を垂らし、顔の真ん中にはうねうねと動く大蛇の如き鼻を生やしているのだ。そしてその身は小山のように大きく、鼻の脇からは角のような牙がそそりたっていた。
醉象は青く燃える鬼火の如き双眸で、葵と楓丸を睨み回している。
しかしその間もべたりと身を伏せて、しきりに腰を蠢かせているのが、葵にはこらえようもなく忌まわしかった。
「……楓丸、お前は右に回れ。私は、左から討つ」
「おお、挟撃というやつだな。仲間がいるというのは、心強いものだ」
そんな軽口を叩きながら、楓丸は赤い旋風のように小道を駆けた。
葵も仕込み刀を抜き、逆の側に回り込む。
両名は左右から同時に、醉象へと斬りかかった。
その瞬間、醉象の巨躯がかき消える。丸太のように太い四肢で、頭上へと跳躍したのだ。その巨躯からは想像もつかない身軽さであった。
「逃がすか!」と、楓丸も跳躍する。
しかし醉象は、その長大なる鼻を薙刀のように振り下ろして、またもや楓丸の斬撃を弾き返した。
楓丸はひらりと地面に降り立ち、醉象はずしんと地響きをたてて着地する。
楓丸は顔をしかめつつ、木剣の先で頭をかいた。
「こやつは牛鬼よりも頑丈であるようだ。おれの木剣では歯が立たん。……葵よ、もうひとたび降魔刀を貸してはもらえぬだろうか?」
「たわけたことを抜かすな。降魔師ならぬ半妖などに、そう易々と降魔刀を受け渡すわけにはいかん」
「そうか。では、おれがこやつの動きを止めるので、葵がどうにかとどめを刺してくれ」
言いざまに、楓丸はぽいと木剣を打ち捨てた。
そして腰の山刀に手をのばすことなく、徒手で醉象に突進する。
まったくわけもわからぬまま、葵もその後に追従した。
醉象は何かの破裂したような雄叫びをほとばしらせつつ、今度は横なぎに鼻を振りかざす。
楓丸の俊敏さであれば、それをよけることも容易いはずであったが――楓丸は、よけなかった。よけずに、両腕でその一撃を受け止めたのだった。
たちまち醉象の鼻は大蛇のようにのたうって、楓丸の小さな体躯に絡みつく。
楓丸はにやりと笑って、その長大なる鼻を両腕で抱きすくめた。
「おおうりゃああああッ!」
大きく足を広げた楓丸が、その身をねじって前方に屈み込む。
呆れたことに、鼻をつかまれた醉象の巨躯が、それだけでふわりと浮き上がることになった。四本の肢をばたばたと泳がせながら、虚空で一回転をして、背中から地面に叩きつけられる。相撲で熊を投げ飛ばしたという坂田金時の逸話さながらに、楓丸はこの巨大な妖異を投げ飛ばしてしまったのだった。
しかし、葵がそのとてつもない光景に我を失ったのは、一瞬にも満たぬ間である。醉象が地面に叩きつけられるのと同時に、葵はその場に殺到して、渾身の一撃を振るってみせた。
細く鋭い錫杖の仕込み刀が、醉象の太い首を半分がた断ち割る。
そうと見て取った楓丸が、今度は逆側に身をねじった。
深い切れ込みの入った醉象の首がぶちぶちと音をたてながら引きちぎれ、胴体と生き別れになる。青黒い体液が凄まじい勢いで弾け散り、それはすぐさま黒い塵と化した。
地面に残された胴体も、宙に振り上げられた生首も、断面からほろほろと崩落していく。
そのさなかに、醉象の双眸がぎらりと輝いた。
まだ楓丸の身に巻きついていた鼻をたぐって、その背に牙を振り下ろそうとする。葵は再び杖刀を振るって、その牙と鼻をまとめて両断してみせた。
翼の如き耳だけを残した生首はぐしゃりと地面に落ち、そのまま黒い塵と化す。
葵のほうを振り返った楓丸は、「ははは」と呑気な笑い声をあげた。その身に巻きついた毒蛇の如き醉象の鼻も、すぐに霧散して消え果てる。
「葵のおかげで、痛い目を見ずに済んだぞ。まあ、おれはとどめを刺してくれと頼んでおいたから、その約定が守られたということか」
「置け、楓丸。軽口を叩いているいとまはないぞ」
「わかっている。おれの心臓は、ちっとも収まっていないからな」
両名は申し合わせたように、人里の明かりへと視線を飛ばした。
楓丸の身は妖気に包まれ、葵の錫杖はしゃくしゃくと鳴っている。この地には、いまだ別なる妖異がひそんでいるのだ。
「こやつを分かれ身とする主がいるのか、あるいはまったく別なる妖異であるのか……ともあれ、我らの為すべきことに変わりはない」
「うむ。それではさっそく、向かうとするか」
楓丸は木剣を、葵は杖刀の鞘をそれぞれ拾い上げた。
そうして歩を進める先には、娘の無惨な骸が転がされている。
その横合いに通りかかった葵は、自らの手が血に汚れることも厭わず、大きくはだけられていた着物の前をあわせてやった。
さらに娘の顔に手をかざすと、恐怖と怨念に凍りついた眼がまぶたに隠される。
「葵は、優しいな。だからおれは、葵を好ましく思うのだろう」
「……軽口を叩いているいとまはないと言い置いたはずだ」
「軽口ではなく、おれの真情だ」
野獣の形相をした楓丸は、その顔に一瞬だけ無邪気な笑みを閃かせた。
そうして両名は、妖異の待ち受ける村落へと足を踏み入れたのだった。
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