五 調伏の刃

 葵は立ち上がろうとしたが、指一本と動かすことができなかった。

 それでも己の運命から目をそらすまいと、決死の覚悟で妖異の巨躯をねめつける。

 もう決して妖異に背は向けないと、葵はそのように誓ったのだ。

 死ぬならば、その誓いを押し抱いたまま死ななければならなかった。


 どす黒い苔色をした毒液が、巨大な口から吐き出される。

 葵は瞋恚の火を宿した眼で、迫り来る死を睨み据え――

 やがてそれは、楓丸の小さな体躯によってふさがれることになった。


 楓丸の絶叫が黄昏刻の大気を震わせ、肉の溶け崩れるおぞましい臭いが葵の心を打ちのめした。

 楓丸は、葵の眼前で力なくくずおれる。

 その小さな背中から、ぶすぶすと白い煙があがっていた。

 いや、背中ばかりでなく、頭の皮膚まで溶け崩れてしまっている。真っ赤な髪や小豆色の粗服は蒸発し、とろけた血肉の向こう側から、白い頭蓋骨やあばらが見えていた。


「馬鹿な……どうして私などを……お前が死んだら、誰があやつを討ち倒すのだ……?」


 さしもの気丈な葵の声も、絶望に打ち震えてしまっていた。

 そこに、くぐもった笑い声が響く。

 笑っているのは、地に伏せた楓丸であった。


「大事ない……これしきの毒で、おれは死ねぬのだ……」


 木剣を杖にして、楓丸が半身を起こした。

 その双眸は、いまだ灼炎を噴きあげている。


「以前に毒をくらったときも、次の朝には治っていた……これこそおれが妖異であるという、何よりの証であるのだろう……」


「そうだとしても……私を庇う理由などなかったはずだ」


「そんなことはないぞ……」と、楓丸は口もとをほころばせた。

 その眼に人外の炎を宿したまま、小さな顔に無垢なる笑みが浮かべられる。


「見知った人間が死ぬところなど、見たいはずがない……おれはけっこう……お前のことを、好ましく思っていたしな……」


 それだけ言って、楓丸は佇立した。

 頭の後ろと背中の一面は、いまだ溶け崩れたままである。脇腹からは、今にもでろりと臓物がこぼれてしまいそうであった。


「頼むから、葵だけは死なないでくれ……生きて、おれの死を見届けてくれ……」


 楓丸が、血や肉片を撒き散らしながら、地を蹴った。

 牛鬼の主は、ごうごうと吠えながら毛むくじゃらの脚を振り下ろす。

 それをかわした楓丸は、見当違いの方向に突き進んでいた。

 向かう先には、矮躯の牛鬼どもがひしめき合っている。


 楓丸の木剣が、一匹二匹と矮躯の牛鬼どもを叩き潰していった。

 その間も、牛鬼の主は八本の脚を楓丸に繰り出している。時にはその鉤爪に腕や足をえぐられながら、楓丸は執拗に矮躯の牛鬼どもを殲滅していった。


 楓丸は動けぬ葵のために、後顧の憂いをなくそうとしているのだ。

 それを察した葵は、無念のあまりにうめき声をあげてしまっていた。


「これでいい……あとは、おれとお前だけだな……」


 やがて、楓丸のそんな声が聞こえてきた。

 牛鬼の主は、嗜虐の嗤いに顔貌を引き歪めながら、楓丸の姿を見下ろしている。


 楓丸は、明らかに弱り果ててしまっていた。

 先刻までは、牛鬼の主に劣らぬほどの妖力を撒き散らしていたというのに――今は、死にかけた獣のように弱々しい。その身に纏った真紅の妖気も、風口の蝋燭さながらに揺らいでしまっていた。


 牛鬼の主は濁った咆哮をあげながら、鉤爪を振り下ろす。

 楓丸は何とかその一撃をかわしたが、反撃するいとまはなかった。

 さらに横合いから別の鉤爪が振るわれると、胸もとの肉を削がれて、赤い血を飛沫かせる。


 己の勝利が揺るぎないものと判じた牛鬼の主は、楓丸を嬲っているのだ。

 その無念と怨念を最後のひとしずくまで啜りあげるべく、じわじわと楓丸を追い詰めているのである。


 葵は地面に爪を立て、何とか嗚咽を呑み込んでいた。

 血まみれの姿で妖異にいたぶられる楓丸の姿は、否応なしに父親の死に様と重なってしまうのだった。


 そして葵は、慄然とする。

 楓丸の血が赤いことに、今更ながらに気づかされたのだ。


 妖異はおおよそ、青黒い体液を有している。

 少なくとも、赤い血をした妖異など、葵はこれまでに見たことがない。

 人間ならざる力を持ちながら、それでもやはり楓丸は――半分だけは、人間であったのだった。


「お前よりも先におれが死ねば、葵も死ぬ……それだけは、どうしても肯ずることはできんのだ!」


 悲壮な声を振り絞り、楓丸が跳躍した。

 その身が、真紅の妖力を噴きあげている。

 まるで――蝋燭の消える、最後の瞬間のように。


 楓丸の身が、牛鬼の主の頭よりも高い位置に跳びあがっていた。

 その手には、いつしか真っ二つにへし折られた木剣だけが握られている。

 牛鬼の主は嘲笑いながら、鉤爪の生えた脚を振り上げた。


 葵はすべての力を振り絞って半身を起こし、僧衣のたもとをまさぐった。

 そして、袖口から抜き取ったそれを、楓丸に向かって投げつける。


「楓丸! 降魔刀だ!」


 楓丸は折れた木剣を打ち捨てて、飛来する降魔刀の柄をつかみ取った。

 瞬間――蓮華紋の鍔の真ん中から、漆黒の刃が顕現する。


 それは、黒き炎が渦を巻いているかのような刀身であった。

 楓丸の妖力が、そのまま刃と化したかのような――禍々しい、炎に闇が溶けているかのような調伏の刃である。


 牛鬼の主の頭上に落ちながら、楓丸はその黒き刀を振り下ろした。

 闇を凝り固めたかのような漆黒の刃は、人間の胴体ほどもあろうかという毛むくじゃらの腕ごと、牛鬼の主の顔貌を両断した。


 青黒い粘液が、噴煙のように天空へと噴きあがる。

 牛鬼の主は地響きの如き断末魔の絶叫とともに、黒い塵と化して四散した。

 楓丸は地面に落ちて、そのまま動かなくなってしまう。


「楓丸……」


 葵はよろよろと起き上がり、楓丸のもとへと歩み寄った。

 楓丸は、草原の上で大の字になっている。

 その小さな体躯から妖気は消え失せて、瞳も野兎のような黒色に変じていた。

 葵の姿を認めた楓丸は弱々しく笑いながら、ようよう半身を起こす。


「助かったぞ、葵……降魔刀とは、凄まじい力を持つ武具であるのだな」


 葵は無言のまま、楓丸のかたわらに膝をついた。

 どちらの顔も、砂塵と自分の血で汚れてしまっている。葵もこめかみの傷口が開いて、楓丸に負けないほど凄愴な姿であった。


「おかげで、母の仇を討つことができた。心から、礼を言わせてもらいたい。……お前はまるで、幸をもたらす福神の如き存在だな」


 にこりと無垢なる笑みをたたえて、楓丸は右の手を葵に差し出した。

 そこに握られているのは、刀身の消えた降魔刀の柄だ。


「では、始末をつけてくれ。母の仇を討ち、お前の身を守ることもできたので、おれは満足だ。今ならそう無念な思いを抱かぬまま、安らかに死ねるかもしれん」


「……お前は真実、救い難いほど身勝手なやつだ」


 感情を殺した声でつぶやきながら、葵は楓丸の手から降魔刀の柄をひったくった。

 楓丸は、きょとんと目を丸くする。


「いったい何が身勝手であるというのだ? 葵が何に怒っているのか、おれにはさっぱりわからんぞ」


「……お前は妖異ではなく、人の子として死にたいなどと抜かしていた。だから、あらがうことなく生命を差し出すのだ、とな。そのように身勝手な言い草があるものか、大うつけめ」


「うむ? やっぱり、わからんな。降魔師にあらがって生き永らえようとあがくことこそ、身勝手の極みだろう?」


「では、私はどうなるのだ。お前が人の子として死ぬのなら、私が斬るのは妖異でなく人間ということになる。お前は私に、罪なき人間を斬り捨てる大罪を負わせようという心づもりであるのか?」


 楓丸は虚を突かれた様子で、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。


「いや、おれは妖異を父に持つ半妖の身であるし……妖異を討滅するのは、降魔師の使命であるのだろう?」


「ならば妖異は妖異らしく、人間を襲うがいい。そのときこそ、私がお前を妖異として斬り捨ててくれよう」


「それは困る。おれは、人間として死にたいのだ。そもそも、人間を襲う理由などないのだしな」


「ならばお前は、人間なのであろう。少なくとも、その心はな」


 葵は感情がこぼれるのを嫌がるように、鋭く目を細めた。


「とはいえ、いつ妖異と化して人を襲うかもわからんお前を捨て置くことはできん。お前は私とともに、この山を下りるのだ」


「山を下りる? 下りて、どうするのだ?」


「降魔師たる私の仕事を手伝うがいい。お前はそれほどの力を持っているのだから、世の安寧のために尽くすのだ」


 楓丸は愕然とした面持ちで、葵の胸もとに取りすがった。


「そのようなことが、許されるのか? 妖異を父に持つおれが、降魔師の仕事を手伝うなどとは……」


「人の世のために力を尽くし、その果てに朽ちるのなら、人として生き、人として死ぬることになろう。それで何か、不満でもあるのか?」


「不満など、あろうはずもない!」


 楓丸の小さな顔には、輝くような笑みが広げられていた。

 葵は小さく息をつき、その笑顔から目をそらした。


「得心がいったのなら、身を離すがいい。半妖などと身を寄せ合うのは、不快でならん」


「うむ……しかし、今日のところは力を使い果たしてしまったのだ」


 楓丸の身がずるずるとくずおれて、葵の膝もとにしなだれかかる恰好となった。

 その頭の後ろと背中からは、いまだに赤い血肉と骨が覗いている。


「明日になれば、傷も癒えるはずなので……どうかそれまで、寝かせてもらいたい……おれをこれだけ喜ばせておいて、お前がひとりで旅立ってしまったら……おれは、地獄の果てまで追いかけてやるからな……」


 最後のほうは寝息となって、薄闇の中に溶けてしまった。

 葵はもうひとたび息をついてから、楓丸の頬にそっと手の平を押し当てる。

 楓丸の安らかな寝顔を見下ろす葵の瞳には、我が子を見守る母親のような慈愛と、父親の面影を追い求める幼子のような頑是なさと――そして、妖異を憎む瞋恚の激情が、共食いをする蛇のように複雑にもつれ合っていた。


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ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

明日からは毎日17:00に一話ずつ更新していく予定です。

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